羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

からだの実感の復権ー「自然律」を教育の基本理念に

2011年06月29日 09時24分45秒 | Weblog
 岩波書店編集部編『教育をどうする』1997年10月20日 
 野口三千三寄稿、最後の文章です。
 翌年1998年3月29日亡くなりました。

『半世紀以上、体操の教師として生きてきた私は、以前から生きものを次のように捉えています。つまり、生きものは「息するもの」であり、命は「息の内」であり、生き方は「息の仕方」である、と。息が詰まったり、息苦しいというからだの動きのあり方は、生きものの動きとして最も悪い動き方で、「楽に息ができる状態」で動けることが大切です。ある動きに合った呼吸は、厳密に言えば一つしかなく、その動き・働きにぴったりの呼吸のあり方を、その都度新しく見つけることが、からだの感覚を磨くことになります。「まるごとが透明平静な生きものとなる」そうしたあり方を求めながら動きを探るには、他人と競ったり、短時間に力の量を増やそうとする意識は邪魔になります。
 私は、からだの裡(なか)の極めてわずかな「差異」を掬い上げ、本来あるがままを実感することを体育で目指しています。
 また次のような言い方もしています。
「まるごと全体のからだが、優しさという生きものになり切ったとき、すべての動きは易しくでき、そのときの感じは安らかで休まり癒される」そうしたあり方で、素直にものや自然に触れ合ったとき、言葉を超えた対話が成り立ち、相互に血の通い合った関係を築くことが可能になるのです。
 実は、私が小学校に赴任した昭和10年代、その後の自分を決定づけた出来事が起こりました。赴任してまず私が驚いたことは、鉄棒が錆(さ)び付いていて使いものにならなかったことでした。そこで紙ヤスリとボロ切れを用意し最初の授業に臨みました。私は、ザラザラになっていた鉄棒を、丁寧に愛情をもって磨き上げる作業を、子供たちの前で始めました。私の作業ぶりを、子供たちは、じっと黙ったまま見守り続けていました。やがて、磨き上がった時、私は、体操だけが不得意で足掛け上がりさえできない級長の子供に、まず磨いていない鉄棒にぶら下がらせました。次に磨き上がった鉄棒にぶら下がらせた瞬間、その子は「ワッ」と声をあげました。その時周りの子供たちも何か大事なことを、敏感に感じ取ってくれたのです。それから子供たちは自分たちの鉄棒を磨き、滑らかになった鉄棒を、優しくなでたり頬ずりしたりして大喜びでした。練習前には必ず鉄棒磨きをするようになったのです。私は自分の鉄棒がかわいくてたまらなくなることの方が、鉄棒運動そのものよりも大切なことだ、と確信しました。つまり、「みがく(研・磨)」とは、「身(中身・本質)」を輝かせることだ、と実感したのです。

 さて、今までに述べてきた方向で、それぞれのからだを見つめ直し、「みがき」続ける時、すべてのものやことについて、中身の実感をもとに「善悪」を判断する力が育つはずです。からだの実感に根ざす判断は、人間がつくったおしきせの価値観・道徳律ではなく、人間をつくった自然の原理、即ち「自然律」を感じ取る道に通じます。自然律に即した体育は、外側からの命令に服従するのではなく、それぞれが内側からの「促し」によって自律できる、真に創造性豊かな人間を育てる、と私は信じ実践を続けています。』

注:お願い。
 「人間がつくった」の「が」、「人間をつくった」の「を」を丁寧に読み込んでください。
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2 コメント

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普遍性 (かめいど)
2011-06-30 00:00:49
私が縁あって習い始めた太極拳で学ぼうとしていることは、ほぼ、野口三千三先生の遺された言葉と重なっているように感じています。
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そうでしたか (羽鳥)
2011-06-30 07:02:03
かめいどさん、普遍性とは、そういうことなのでしょうね。
こうした言葉で発信されると、自分が求めていたことが、他者の言葉であってもという条件付きですが、見えてくるものがあります。
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