90歳になる母の歯の治療が7月27日月曜日に終了した。
通いはじめたのは大学の春学期の授業が始まった翌日、4月17日のことだった。
しばらく前lから、それまで通っていた歯科医院まで歩くことが難しくなっていた。この医院はマンションの二階にあった。関係者用のエレベーターはあったが、患者には一段の高さが通常より高い階段をのぼるという最後の難関が待ち構えていた。
雪の日には、一時やむタイミングをはかって、借りた車椅子で連れて行って難儀したこともある。
最近では、家の近くまで戻ってきたものの、おおよそ10メートルくらい手前で立ち往生してしまった。母は一歩も足が出ないという。
そこに通りかかった筋向かいの家のご主人は「お姫様だっこしましょうか」と申し出てくれた。さすがに母は辞退している。するとそこへまた荷物運搬用の空のキャスターをひいた二人連れが通りかかった。
「おねがいします」
すがるしかない、と私は心を決めた。
そこで母とズレ落ちそうになるからだを支える私をキャスターにのせて、年のころは50歳すぎ小柄な男性が母の足が地面をすらないように支えながら、もう一人の30代と思しき若い男性がキャスターを押して、自宅まで送ってくれたこともある。
数年前から、ブリッジになっている歯がそっくり落ちると、その度、母に付き添っていた。しかし、こうしたことが繰り返され、それが頻繁になってくると、さすがの私も面倒に思う気持ちが顔に出るようになっていた。
「こうなったら歯がなくても食べられる料理をつくるしかないのかなぁ~」
料理の大変さもさることながら、歯を失って歯茎で食べる母を想像すると、なんとも情けなく悲しくなってしまった。
折りも折り、4月16日晩のこと、母のブリッジの歯がまた落ちたのである。暗澹たる気持ちで眠りについた。
しかし、翌朝になると “ここで諦めてはいけない” という気持ちになって、車椅子を高齢者生活支援センターに借りにいこうと自宅を出た。
そそくさと商店街を歩いているとき、目にした看板の文字に釘付けになった。
『訪問歯科診療を始めました』
ここは自宅から1分もかからない近さにある。
この距離ならば、母でも十分に歩いて行ける距離である。
そこで、“渡りに船”とばかりに、さっそく予約電話を入れて母をつれて医院を訪ねた。
初診の際の書き込みに、“出来るだけのことをしてください”と、記してしまった。
書きながら、どこまで治療に耐えられるのか、一抹の不安がよぎっていた。
しばらくして案内された個別に仕切られた椅子に横たわり、口を開けたり閉じたり濯いだり、医者に言われるままに素直に応じている母に少し安堵した。
その後、レントゲンや歯形をとって、初日の診察と治療の準備は1時間以上もかかって終わった。
帰宅した母の様子に、疲れはまったく見えなかった。
「これはいけそうだ!」
その日から、やく3ヶ月以上も続く歯の治療がはじまったのである。
******
さて、具体的な話。
ブリッジになっている歯は5本で、それまでの仮歯のような安易なのではなく、ちゃんとした歯をつくってくれるらしい。そのために柱となるとなりの歯にも手を加えることになった。
こうして数回通っているうちに、別の歯が折れてしまった。
二カ所を同時に治療していくことになった。
その頃からである。母の日常に変化が起こってきた。
商店街を歩くと知り合いに会う。どなたも声をかけてくださる。
「お元気そうですね」
「おかげさまで」
簡単な会話がよい刺激になる。
また知らない店の店員さんがお客でなくても老人には親切で、通りかかる自転車に対して何気ない心遣いを見てくれる。
それが治療の他にも、良き作用をもたらしてくれたことだった。
まず、ことばの数がふえた。
それに、近年になって出てきた排泄の問題に、少しずつの変化が見られた。ひとつには、尿取りパットの汚れ具合が、明らかに変わってきたのである。
その頃には「付き添いは仕事だ!」と、覚悟を決めた私だった。
出かける前に、歯を磨き、顔を洗い、髪を結い直して、服を着替えて、そうした身支度に30分~40分の時間がかかる行動をなにげなく促し見守っている。
治療中は椅子を用意してくれるので、ずっと傍に付き添っている。
結局、帰宅して、落ち着いて、昼食をすませる。午前中いっぱい母につきあうことになった。
あるとき
「わたくしは耳が遠くなりましたので、付き添いの者に説明をしてやってください」
先生に伝えたときには、内心で笑ってしまった。
「耳が遠いいから聞こえないのよ」
「そんなことはないわ」
日常の会話で、それまで認めなかった耳の不自由さを、自分から言うことに躊躇いがなくなったようだ。
あるとき
麻酔をつかっての大掛かりな治療が何回かあった。にもかかわらず、その都度、平然として任せている。
その結果、ブリッジの歯の治療も無事に終わった。
「おかげさまで、ありがとうございます」
そういいかけたところで
「あと二本、この際ですから虫歯の治療をしておきましょう。これまでのように大事にはなりませんから……」
ここまできたら乗った船は途中ではおりないッ。
「一日でも若い方がいいです。おねがいいたします!」
すかさず答えてしまった。
これまで母の口の中など、見たこともなかった。歯の状態がどんなだったのか、知る由もなかった。
仮に入れた歯の一部が前にせり出して、おかしな口元になってしまっていた。
今年になって、こうした状況にはじめて気づいたときには唖然となった。
「この年まで長生きするとは思わなかったもの」
母のことばに
「もっとはやく治療しておけばよかったわね」
とはさすがに言えなかった。
遅きに失した。
しかし、お見合い写真をとってもいいくらいに仕上げていもらって、なんとか間に合ったじゃないの、と思いたかった。
これから彼女の人生にどんな風景が描かれるのかわからない。
これはこれでよしとしてもらおう。
4月から通算25回の歯の治療は、生きているうちにできた母への贈りものだったのかもしれない。
最後の治療が終わった晩、就寝前に母に話かけた。
「歯の治療、よく頑張ったわね。食べっぷりが変わったわね」
「えっ、治療に通ってたの?」
次のことばを失った私だった。
通いはじめたのは大学の春学期の授業が始まった翌日、4月17日のことだった。
しばらく前lから、それまで通っていた歯科医院まで歩くことが難しくなっていた。この医院はマンションの二階にあった。関係者用のエレベーターはあったが、患者には一段の高さが通常より高い階段をのぼるという最後の難関が待ち構えていた。
雪の日には、一時やむタイミングをはかって、借りた車椅子で連れて行って難儀したこともある。
最近では、家の近くまで戻ってきたものの、おおよそ10メートルくらい手前で立ち往生してしまった。母は一歩も足が出ないという。
そこに通りかかった筋向かいの家のご主人は「お姫様だっこしましょうか」と申し出てくれた。さすがに母は辞退している。するとそこへまた荷物運搬用の空のキャスターをひいた二人連れが通りかかった。
「おねがいします」
すがるしかない、と私は心を決めた。
そこで母とズレ落ちそうになるからだを支える私をキャスターにのせて、年のころは50歳すぎ小柄な男性が母の足が地面をすらないように支えながら、もう一人の30代と思しき若い男性がキャスターを押して、自宅まで送ってくれたこともある。
数年前から、ブリッジになっている歯がそっくり落ちると、その度、母に付き添っていた。しかし、こうしたことが繰り返され、それが頻繁になってくると、さすがの私も面倒に思う気持ちが顔に出るようになっていた。
「こうなったら歯がなくても食べられる料理をつくるしかないのかなぁ~」
料理の大変さもさることながら、歯を失って歯茎で食べる母を想像すると、なんとも情けなく悲しくなってしまった。
折りも折り、4月16日晩のこと、母のブリッジの歯がまた落ちたのである。暗澹たる気持ちで眠りについた。
しかし、翌朝になると “ここで諦めてはいけない” という気持ちになって、車椅子を高齢者生活支援センターに借りにいこうと自宅を出た。
そそくさと商店街を歩いているとき、目にした看板の文字に釘付けになった。
『訪問歯科診療を始めました』
ここは自宅から1分もかからない近さにある。
この距離ならば、母でも十分に歩いて行ける距離である。
そこで、“渡りに船”とばかりに、さっそく予約電話を入れて母をつれて医院を訪ねた。
初診の際の書き込みに、“出来るだけのことをしてください”と、記してしまった。
書きながら、どこまで治療に耐えられるのか、一抹の不安がよぎっていた。
しばらくして案内された個別に仕切られた椅子に横たわり、口を開けたり閉じたり濯いだり、医者に言われるままに素直に応じている母に少し安堵した。
その後、レントゲンや歯形をとって、初日の診察と治療の準備は1時間以上もかかって終わった。
帰宅した母の様子に、疲れはまったく見えなかった。
「これはいけそうだ!」
その日から、やく3ヶ月以上も続く歯の治療がはじまったのである。
******
さて、具体的な話。
ブリッジになっている歯は5本で、それまでの仮歯のような安易なのではなく、ちゃんとした歯をつくってくれるらしい。そのために柱となるとなりの歯にも手を加えることになった。
こうして数回通っているうちに、別の歯が折れてしまった。
二カ所を同時に治療していくことになった。
その頃からである。母の日常に変化が起こってきた。
商店街を歩くと知り合いに会う。どなたも声をかけてくださる。
「お元気そうですね」
「おかげさまで」
簡単な会話がよい刺激になる。
また知らない店の店員さんがお客でなくても老人には親切で、通りかかる自転車に対して何気ない心遣いを見てくれる。
それが治療の他にも、良き作用をもたらしてくれたことだった。
まず、ことばの数がふえた。
それに、近年になって出てきた排泄の問題に、少しずつの変化が見られた。ひとつには、尿取りパットの汚れ具合が、明らかに変わってきたのである。
その頃には「付き添いは仕事だ!」と、覚悟を決めた私だった。
出かける前に、歯を磨き、顔を洗い、髪を結い直して、服を着替えて、そうした身支度に30分~40分の時間がかかる行動をなにげなく促し見守っている。
治療中は椅子を用意してくれるので、ずっと傍に付き添っている。
結局、帰宅して、落ち着いて、昼食をすませる。午前中いっぱい母につきあうことになった。
あるとき
「わたくしは耳が遠くなりましたので、付き添いの者に説明をしてやってください」
先生に伝えたときには、内心で笑ってしまった。
「耳が遠いいから聞こえないのよ」
「そんなことはないわ」
日常の会話で、それまで認めなかった耳の不自由さを、自分から言うことに躊躇いがなくなったようだ。
あるとき
麻酔をつかっての大掛かりな治療が何回かあった。にもかかわらず、その都度、平然として任せている。
その結果、ブリッジの歯の治療も無事に終わった。
「おかげさまで、ありがとうございます」
そういいかけたところで
「あと二本、この際ですから虫歯の治療をしておきましょう。これまでのように大事にはなりませんから……」
ここまできたら乗った船は途中ではおりないッ。
「一日でも若い方がいいです。おねがいいたします!」
すかさず答えてしまった。
これまで母の口の中など、見たこともなかった。歯の状態がどんなだったのか、知る由もなかった。
仮に入れた歯の一部が前にせり出して、おかしな口元になってしまっていた。
今年になって、こうした状況にはじめて気づいたときには唖然となった。
「この年まで長生きするとは思わなかったもの」
母のことばに
「もっとはやく治療しておけばよかったわね」
とはさすがに言えなかった。
遅きに失した。
しかし、お見合い写真をとってもいいくらいに仕上げていもらって、なんとか間に合ったじゃないの、と思いたかった。
これから彼女の人生にどんな風景が描かれるのかわからない。
これはこれでよしとしてもらおう。
4月から通算25回の歯の治療は、生きているうちにできた母への贈りものだったのかもしれない。
最後の治療が終わった晩、就寝前に母に話かけた。
「歯の治療、よく頑張ったわね。食べっぷりが変わったわね」
「えっ、治療に通ってたの?」
次のことばを失った私だった。
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