『原初生命体としての人間』三笠書房版を手に取ったのは、体操を始めた1975年から数年が経った頃だった。
今、自分の目の前で、一人の人間が情熱をもって授業をしている。話、動き、ものを見せて、野口体操と呼ばれる希有な体操を教えてくれる。
同じ空間で、同じ空気が吸える。その現場で、自分の感性が、感覚が、息づき活気づくその実感を吸収し、味わい尽くしたい!
「本は、あとからでもいい」
そう思いを定めて、生に伝わることを手がかり足がかりに身につけようと思った。
さて、実際に読みはじめて、何が書いてあるのやら、私の読書の範疇からは大きく逸脱した内容に、戸惑いを覚えたことは鮮明な記憶として残っている。
そこでそれまで読んでいなかったジャンルの本を片端から読み進め、なんとか第三章『息と「生き」』から食い付くことになった。
実際に呼吸の問題をテーマして、自宅での稽古に励んでいった。
さて、それから時は流れて三十数年目の今年、この本を深く理解するには不可欠な本にであった。
そのことについてはこれまでブログに書いてきた。重複になるけれど、私にとっては貴重な本との出逢いであるから、再度、書いておきたい。
三木成夫著『海・呼吸・古代形象』うぶすな書院
本川達雄著『生物学的文明論』新潮新書423
とりわけ三木先生の本からは、1970年代、東京藝術大学のよき時代を鮮明に記憶させてくれるものだった。正統派に対して、アンチ◎◎なものも、主張を始めた。西洋音楽に対して民族音楽の価値を問うた小泉文夫、比較解剖学のなかで少数派の三木成夫の形態学も健全に息づいていた。そして野口は、アウトサイダーとしての体操家の道を着実に歩んでいた。
演劇界や合唱界やその他の芸術界の人々は、現在にまで繋がる源流をこの時代に遡ることができる。
お三方とも藝大という特別な選ばれた場で、研究を重ね、選ばれた学生に新しい価値観を鮮烈に示していた時代だと言える。
ところで、総務省統計局による国勢調査による「1970年の日本の人口構成」に目を転じてみると、今とは真逆な日本が見えて来る。昭和45年、大阪万博がひらかれた年の人口構成は、ピラミッド型を示している。
日本人の平均年齢は31歳と若く、確実な未来があることを示すピラミッド型だった。
定年退職を迎える人は、全体のなかではまだまだ少ない。
『研究する精神科医のノート』によると、医療もまだレベルが低く、検査や治療も安価だった。もちろん医療訴訟は極めてまれであった。
たとえば、北海道大学の和田教授が日本初の心臓移植手術を行うことで、賛否がわかれ、臓器移植医療への「否」の答えが多く叫ばれていた。
そのときから今年の秋までに、日本で行われた臓器提供は192例に過ぎない。この数字を少ないと見るのか、当然と見るのか、判断はなされている。日本での臓器移植は、心情的に大きな無理がある。
角川書店『高校生の現代文』に『原初生命体としての人間』から第三章『生き方は「方」』が掲載されている。この文章が暗示するところは非常に重く深い。
《心臓移植の問題が起きたとき、人間の生と死の判定の問題が、医学を中心とした広い分野で盛んに論議された。このことは、医学的にどう結論が出ようが、法律的にどのように決定されようが、それは一つの角度から、何かに基準を求めて、仮にそう決めているだけのことだと思う》1972年三笠書房刊
しかし、日本人全体の気分は、これからの生活レベルは上昇するだろうし、給料が増えることへの確約がなされているかのようなものだった。
もしかするとこのような時代だから、アンチなものが、アウトサイダーなものが、生まれ、育ち、知る人ぞ知る価値を得られる余裕(ゆとり)があったのかもしれない。
さて、時代をふりかえりながら、本の読み直しをするにあたって、先に挙げた二冊は、貴重な示唆を富んだ内容だった。
三木先生の本は、はじめて読んだ時には、難しかった。野口体操との照合を本気でできる心の余裕が得られた今頃になって、文字のひとつ一つの意味が、「納得」の文字に置き換わってくれるようになった。
時間と経験が読みを深めてくれる、ということを聞いてはいたが、実感はなかった。その実感が得られたことが嬉しい。
藝大・三奇人の足跡を改めて、追ってみたいと思っている。
蔵の天井ちかくの棚には、小泉文夫監修のレコード「民族音楽全集」上下巻50枚が眠っている。一度は再生したものの、それっきりになっている。
再度、聞きながら、1970年代に思いを馳せてみたい。
今、自分の目の前で、一人の人間が情熱をもって授業をしている。話、動き、ものを見せて、野口体操と呼ばれる希有な体操を教えてくれる。
同じ空間で、同じ空気が吸える。その現場で、自分の感性が、感覚が、息づき活気づくその実感を吸収し、味わい尽くしたい!
「本は、あとからでもいい」
そう思いを定めて、生に伝わることを手がかり足がかりに身につけようと思った。
さて、実際に読みはじめて、何が書いてあるのやら、私の読書の範疇からは大きく逸脱した内容に、戸惑いを覚えたことは鮮明な記憶として残っている。
そこでそれまで読んでいなかったジャンルの本を片端から読み進め、なんとか第三章『息と「生き」』から食い付くことになった。
実際に呼吸の問題をテーマして、自宅での稽古に励んでいった。
さて、それから時は流れて三十数年目の今年、この本を深く理解するには不可欠な本にであった。
そのことについてはこれまでブログに書いてきた。重複になるけれど、私にとっては貴重な本との出逢いであるから、再度、書いておきたい。
三木成夫著『海・呼吸・古代形象』うぶすな書院
本川達雄著『生物学的文明論』新潮新書423
とりわけ三木先生の本からは、1970年代、東京藝術大学のよき時代を鮮明に記憶させてくれるものだった。正統派に対して、アンチ◎◎なものも、主張を始めた。西洋音楽に対して民族音楽の価値を問うた小泉文夫、比較解剖学のなかで少数派の三木成夫の形態学も健全に息づいていた。そして野口は、アウトサイダーとしての体操家の道を着実に歩んでいた。
演劇界や合唱界やその他の芸術界の人々は、現在にまで繋がる源流をこの時代に遡ることができる。
お三方とも藝大という特別な選ばれた場で、研究を重ね、選ばれた学生に新しい価値観を鮮烈に示していた時代だと言える。
ところで、総務省統計局による国勢調査による「1970年の日本の人口構成」に目を転じてみると、今とは真逆な日本が見えて来る。昭和45年、大阪万博がひらかれた年の人口構成は、ピラミッド型を示している。
日本人の平均年齢は31歳と若く、確実な未来があることを示すピラミッド型だった。
定年退職を迎える人は、全体のなかではまだまだ少ない。
『研究する精神科医のノート』によると、医療もまだレベルが低く、検査や治療も安価だった。もちろん医療訴訟は極めてまれであった。
たとえば、北海道大学の和田教授が日本初の心臓移植手術を行うことで、賛否がわかれ、臓器移植医療への「否」の答えが多く叫ばれていた。
そのときから今年の秋までに、日本で行われた臓器提供は192例に過ぎない。この数字を少ないと見るのか、当然と見るのか、判断はなされている。日本での臓器移植は、心情的に大きな無理がある。
角川書店『高校生の現代文』に『原初生命体としての人間』から第三章『生き方は「方」』が掲載されている。この文章が暗示するところは非常に重く深い。
《心臓移植の問題が起きたとき、人間の生と死の判定の問題が、医学を中心とした広い分野で盛んに論議された。このことは、医学的にどう結論が出ようが、法律的にどのように決定されようが、それは一つの角度から、何かに基準を求めて、仮にそう決めているだけのことだと思う》1972年三笠書房刊
しかし、日本人全体の気分は、これからの生活レベルは上昇するだろうし、給料が増えることへの確約がなされているかのようなものだった。
もしかするとこのような時代だから、アンチなものが、アウトサイダーなものが、生まれ、育ち、知る人ぞ知る価値を得られる余裕(ゆとり)があったのかもしれない。
さて、時代をふりかえりながら、本の読み直しをするにあたって、先に挙げた二冊は、貴重な示唆を富んだ内容だった。
三木先生の本は、はじめて読んだ時には、難しかった。野口体操との照合を本気でできる心の余裕が得られた今頃になって、文字のひとつ一つの意味が、「納得」の文字に置き換わってくれるようになった。
時間と経験が読みを深めてくれる、ということを聞いてはいたが、実感はなかった。その実感が得られたことが嬉しい。
藝大・三奇人の足跡を改めて、追ってみたいと思っている。
蔵の天井ちかくの棚には、小泉文夫監修のレコード「民族音楽全集」上下巻50枚が眠っている。一度は再生したものの、それっきりになっている。
再度、聞きながら、1970年代に思いを馳せてみたい。
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