羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

「御茶の水」 「御茶ノ水」 「お茶の水」

2007年03月12日 13時53分41秒 | Weblog
 父が「膠原病・全身性エリテマトーデス」や、後に癌を発症して通っていた病院は、御茶の水にある大学病院だった。
 「抗癌剤治療」を受けるようになって、はじめの1・2回は電車で通うことも出来たが、後はタクシーを使うようになった。御茶ノ水駅の階段を上り下りすることが辛くなったからだ。
 非常に早い時期に出来た御茶ノ水のホームの幅は狭い。そしてなにより階段が高い。しかし、この駅のホームは、未だに自然には恵まれているが、地理的条件からエスカレーターもエレベーターも設置しにくいのだろう。

 最近、大学病院の先生が、署名集めをなさったと聞いた。御茶ノ水駅の周辺だけでもいくつもの大学病院があって、そこに通う患者さんのために、エスカレーター・エレベーター設置を望む声を受けての嘆願だそうだ。
 階段を降りているときに、後ろから慌てて電車に飛び乗ろうとする人に押されそうになった経験がある。一回ではない。病人に付き添ってたびたび怖い思いをしたことがある。

 今日の写真は『原子力文化』3月号「江戸のホモ・サピエンス 第六回 江戸の鳥たち(二)」に、掲載されていた「江戸名所絵図」より「お茶の水 水道橋 神田上水懸樋」の絵図。
 見えにくいので説明書きを写すと、左の樹木そばに富士山、その上をホトトギスが飛ぶ姿が描かれている。江戸時代には、神田川のお茶の水付近は、ホトトギスを聴く名所になっていたそうだ。正面を横切っているのが神田上水の懸桶(うけとひ)と書かれているから、水を送るためにかけわたした管だろうか。
 下にはホトトギスの声を聞きに来た船上の人々が眺めている姿が描かれている。
 富士山が見えるのもホトトギスが描かれているのも驚きだ。

 時代はくだって私が子供のころ・昭和20年代後半から30年代初めの記憶だが、ポンポン蒸気と呼ばれる舟が行きかっていた。そしてそこに暮らす人々がいた。なかには子供の姿さえ見られたのだ。

 今では神田上水も綺麗になった。鬱蒼と茂る樹木は、ますます大きく太くなった。
 そして春には川面が桜色に染まる。市谷あたりから流れてくる花びらがお茶の水付近になると量が増えて波打ち流れるからだ。父が入院しているときなど、病室から花びらの流れを見ると、一時心が安らいだものだった。
 今では川に暮らす人々の姿はない。

 さて、お気づきと思うが「おちゃのみず」の表記のこと。
 駅名は「御茶ノ水」で「ノ」になる。
 ひらがなの「の」になる「御茶の水」は、千代田区神田駿河台から文京区湯島にわたる地区の通称。江戸時代、この辺の断崖から湧き出た水を将軍のお茶用としたことから名付けられたという。
 ちなみに、東京女子師範学校から始まり、異称「東京女高師(ジョコウシ)」、後の「お茶の水女子大学」は、「お茶の水」、「お」「の」とひらがなで書かれる。

 私自身この表記の違いがはっきりしたのは、お恥ずかしい話だが、2003年・岩波アクティブ新書『野口体操入門ーからだからのメッセージ』のゲラ校正をした時だった。岩波書店の校閲者からの指摘で知った。

 父が亡くなって4年と3ヶ月、。
『原子力文化』3月号にあった「江戸名所絵図」を見ながら、父に付き添って10年以上も通った御茶の水界隈を懐かしく思い出した。
 
 今年の花の季節は、もうすぐそこまでやって来ている。
 
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