「この日本館は、飛行機の形に作られているんですよ」
「エッ、どういうことです」
「見てください、航空写真、ほら ネ」
「ホント! まったく飛行機の形ですね」
国立科学博物館でボランティアの方との会話である。
「建てられたのは、大正12年、関東大震災のあとなんです」
「完成したのは、昭和の初めですね」
「日本館の展示場は、入口から入った中央ホールに立って、右が「南翼」左が「北翼」と呼ばれているんです」
「吹き抜けになっている真っ白なドーム型の屋根、窓にはめられたステンドグラスが綺麗ですね」
そんな会話の最中に、私の脳裏に閃光が走った。
野口先生は昭和4年から群馬師範学校で学び、昭和9年に短期現役兵となっていた。
「早蕨」Vol.5 「野口三千三伝」の文字列が、目の奥に並んだ。
《短期現役兵たちは、飛行機を単に兵器としてではなく、「文化」や「科学」として理解し、学校や地域で、安全を強調して航空の重要性について語る言葉を身につけていた》
「その大元を象徴する建物内部に、私は、立っているのだ!」
ある種の衝撃を受けた。
「関東大震災によって失われた国立科学博物館は、新しく建てられたんです。昭和6年に行幸啓があって、そのあと11月に一般公開されたそうですよ」
最先端を行く“航空は文化であり科学”であるという設計理念によって、昭和からの日本の方向を示す旗艦建造物だったのだ、と私は気づいた。
ここから始まっていたのだ!と。
私は、ボランティアの方との会話で、これらの言葉を呑み込んだ。
とてもいい時間を過ごさせてもらった、とお礼を言って日本館を出た。
改めて、正面から建物を見直した。
日本の文化の中心、上野に、こうした建物が、昭和のはじめに建てられたことの意味の重さが、ズシリとのしかかってきた。
帰宅して調べてみると、芸大との関係が見えてきた。
もともと科学博物館の前身は、現在の国立博物館と共に教育博物館であったらしい。
野口先生が、芸大に赴任した昭和24年時。芸大と博物館と科学博物館等等は、戦争によってはっきりした境目がなくなっていて、現在のように区分けされていない状態だった、と聞いたことがある。
先生が体育授業で使用し、「体育小屋」と言われているレンガ造りの建物は、もともと教育博物館の書庫であったというから、科学博物館とも浅からぬ縁があるのだ。
私は、思わず腕組みをしながら、当時へ思いを馳せた。
こうした環境の中で「野口体操」は育まれたわけだ。
論理的で合理的で、科学の視点をもった野口先生が、「今や、論理・科学という名の巨大な怪物が、分析・数値化という方法によって、いつもまるごと全体であるべき自然の生きものを、くいあらしていくのではないか。そのような気がして、私は強い疑惑と恐怖を感ずるのである。原初生命体の発想は、生きものとしての私の、防衛・抵抗反応である」
この言葉の裏にべっったりとついている、野口先生自身の戦争体験の実態の一端に触れたような気がする。
むしろ、「三千三伝」を書き続けて、ようやくここまでたどりつくことができたのだ。
しばらく『原初生命体としての人間』「はしがき」ページを、じっと見つめていた。
底知れない言葉の沼に、足を一歩踏み入れたのかも知れない。
2019年6月13日木曜日、朝一で国立科学博物館を訪れた午後のことであった。
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