何年も いや、野口体操を始めた当初から、不思議に思っていたこと。
特に「野口三千三伝」を書き始めてからの2年間。
差し迫ったように探り、考えていたことが、一気に繋がった。
地方の師範学校出身の野口三千三の「野口体操」が、なぜ、演劇やダンス・舞踏の方々に、インパクトを与えたのか。
スタニスラフスキーシステムを頭で理解していた方々が、野口三千三に出会って「野口体操」を見たり行ったりして、身体的な理解に繋がったと、おっしゃる。
それはなぜだ?
野口はスタニスラフスキーとは全く無縁のところで生きてきたはずだった。(実は、違った。本人も気づいていなかった)
モダンダンスをやっている人で「野口体操」を知らない人は“モグリ”だと言われるとか。
それはなぜだ?
江口隆哉に師事し、大きな影響を受けたからか? としても全くダンスとは無縁の体育教師が、入門してすぐ江口隆哉の本の執筆相談に、何故ゆえに乗れたのか?
(実は、本人も分かっていなかった)
メソッドを持たなかった二代目世代の舞踏が、野口体操を基本メソッドにしたのか。
それはなぜだ?
ダンスや芸術とは程遠い世界で生きてきた野口であったのに、そこにはメソッドになりうる必然があった。(実は、本人も不思議に思っていた)
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2月に入ってから、私は、「三千三伝」を書き溜めようと、師範学校卒業後の短期現役兵・小学校の教師時代を書いていた。
この時代を書くのは、本当にしんどかった。地雷を踏みそうな危険を感じながら、時に、放り出したくなったりもした。
一応、全体の流れができたので、ここで一旦、筆を止めて、熟成を待つことにした。
そこで、次の時代、昭和18年から19年、そして20年の敗戦までを書きとどめておきたいと、資料を読み始めた。
昨晩、私は、思わず、驚きの声をあげてしまった。『新教育体操』大谷武一著を読んでいた時だった。
ずっと求めていた「ドイツ自然体操」について書かれていたからだ。
まさしく野口体操だし、江口隆哉のノイエ・タンツ マリー・ヴィグマンにつながるものである。
昭和12年が初版で、私の手元の本は昭和15年9版である。
この本を著した時の大谷武一は、東京高等師範学校と文部省「体育研究所」に関わっていた。
内容については、いま、ここに書くことはまだできないが、戦争末期に「東京体育専門学校」校長の大谷武一に野口は出会い、敗戦後 江口隆哉に出会うのは、偶然というより必然だった。
その後、演出家の岡倉士朗をはじめとして、九州の演出家・貫見忠司に出会っていくことも、「ドイツ自然体操」の流れとしては必然であった。
ここには、まだ詳しいことは書けない。というか書くことができるところまで、まとまっていない。
とにかくこれまでの不思議感が、全く不思議なことではなく、込み入ってはいるけれど、バラバラであったことが一気に繋がりを見せてくれた、ということ。
そこで気づいたことは、
「人は出会うべくして出会い」「偶然は必然 必然は偶然」である、ということだ。
羽鳥は何を言っているのか?
ちゃんと、文章に書き残しますー。