日曜日の今日、昼下がりをのんびり過ごしていた。
ピンポン。。。。
「郵便局です。書留です」
木戸の鍵とシャチハタを持って出た。
受け取ってみると、「国民健康被保険者証」だった。でも、今まで、書留で届いたことがあっただろうか?
はっきりした記憶がない。
居間に戻って、封筒にはさみを入れて、中の物を取り出す。
意思表示欄保護シールが5枚も入っている。
「なにこれ?」
保険証を手に取って、裏返してみる。
《臓器提供の意思表示欄》
あまりにも小さい文字だ。それでも「意思表示欄」を読んだ。
よく理解できなかった。
そこで同封の冊子に書かれている「意思表示欄記入方法」を読む事にした。
今まで自分の問題として考えた事はなかった。したがってすぐに記入できるほど簡単な問題ではないことにすぐさま気づいた。
《意志の選択》《提供したくない臓器の選択》《特記欄への記載について》《署名など》
項目は多岐にわたっている。
しばらく記入はしない事になりそうだ。
春秋社から出版した『DVDブック アーカイブス野口体操 野口三千三+養老孟司』で、養老先生が臓器移植について語っていらした事を思い出す。これは1991年の公開講座の記録だ。
「医者が臓器はバラバラにできる事に気づいてしまったのです」
なるほど。しかし、そのことと他者に臓器を提供すること、他者から臓器を提供してもらうこと、その問題はまた別のことのように思える。
おかげさまで今のところ、臓器移植が早急に望まれるような病を得ていない。
もし、仮に、そうした情況に置かれたら、どのような考えになっていくのかは、分からないのが正直な気持ちだ。また、愛する人に腎臓を半分提供してほしいと求められたら、提供するかもしれない。
しかし、そうした問題に直面していない“今”ここで、判断に苦しむ。
非難されるかもしれないことを覚悟して正直な気持ちを書こう。
保険証を裏返して記入欄を見た瞬間には、とても嫌な気分に陥った。
《メメント・モリ(死をおもえ)》という覚悟が、実のところ一寸たりとも心の空間に入っていない自分に気づいたからだ。
それから数時間後、再び落ち着いて冊子の記入方法を読んだ。
最初の衝撃は薄らいでいた自分の心模様に、少しだけ救われたような気がする。
提供したくない臓器を選択、と書かれたところを読む。
「脳死後:眼球」くらいはいいかな?と揺れた。でも、私の近眼と乱視度は相当だった事に気づく。そりゃもらった人がまずいんじゃないの?
「心臓停止した死後:腎臓・膵臓・眼球」とあったが、どれも嫌だな、という感じが今はしている。
またもや養老先生の言葉を思い出した。
「殆どの人が内臓のにおいを嗅いだ事もない。触れた事もない。そのなかで臓器移植について考えることはとても難しい」正確ではないが、そのような趣旨だった。
かつて肺癌の術後、父の肺を見せてもらったことがある。ヘビースモーカーでおまけに男性では珍しいSLE(全身性エリテマトーデス 膠原病のひとつ)を煩っていたためにステロイドが切れなかった。切り取られた肺はぷくぷくとふくれているところがあった。外科医は言う。「ここを押すとすぐに破裂するんです」
軽く触れる程度では大丈夫だが、少し押すだけでニコチンのにおいがプーンと鼻についてくる。
確かに臓器はバラバラになるのだ。
さて、あれこれ思い出す事多く、こうして文章を書きながらも、迷いは尽きない。
まずは慌てて結論を出ささずに、しばらく考える時間をいただこうとおもう。
ピンポン。。。。
「郵便局です。書留です」
木戸の鍵とシャチハタを持って出た。
受け取ってみると、「国民健康被保険者証」だった。でも、今まで、書留で届いたことがあっただろうか?
はっきりした記憶がない。
居間に戻って、封筒にはさみを入れて、中の物を取り出す。
意思表示欄保護シールが5枚も入っている。
「なにこれ?」
保険証を手に取って、裏返してみる。
《臓器提供の意思表示欄》
あまりにも小さい文字だ。それでも「意思表示欄」を読んだ。
よく理解できなかった。
そこで同封の冊子に書かれている「意思表示欄記入方法」を読む事にした。
今まで自分の問題として考えた事はなかった。したがってすぐに記入できるほど簡単な問題ではないことにすぐさま気づいた。
《意志の選択》《提供したくない臓器の選択》《特記欄への記載について》《署名など》
項目は多岐にわたっている。
しばらく記入はしない事になりそうだ。
春秋社から出版した『DVDブック アーカイブス野口体操 野口三千三+養老孟司』で、養老先生が臓器移植について語っていらした事を思い出す。これは1991年の公開講座の記録だ。
「医者が臓器はバラバラにできる事に気づいてしまったのです」
なるほど。しかし、そのことと他者に臓器を提供すること、他者から臓器を提供してもらうこと、その問題はまた別のことのように思える。
おかげさまで今のところ、臓器移植が早急に望まれるような病を得ていない。
もし、仮に、そうした情況に置かれたら、どのような考えになっていくのかは、分からないのが正直な気持ちだ。また、愛する人に腎臓を半分提供してほしいと求められたら、提供するかもしれない。
しかし、そうした問題に直面していない“今”ここで、判断に苦しむ。
非難されるかもしれないことを覚悟して正直な気持ちを書こう。
保険証を裏返して記入欄を見た瞬間には、とても嫌な気分に陥った。
《メメント・モリ(死をおもえ)》という覚悟が、実のところ一寸たりとも心の空間に入っていない自分に気づいたからだ。
それから数時間後、再び落ち着いて冊子の記入方法を読んだ。
最初の衝撃は薄らいでいた自分の心模様に、少しだけ救われたような気がする。
提供したくない臓器を選択、と書かれたところを読む。
「脳死後:眼球」くらいはいいかな?と揺れた。でも、私の近眼と乱視度は相当だった事に気づく。そりゃもらった人がまずいんじゃないの?
「心臓停止した死後:腎臓・膵臓・眼球」とあったが、どれも嫌だな、という感じが今はしている。
またもや養老先生の言葉を思い出した。
「殆どの人が内臓のにおいを嗅いだ事もない。触れた事もない。そのなかで臓器移植について考えることはとても難しい」正確ではないが、そのような趣旨だった。
かつて肺癌の術後、父の肺を見せてもらったことがある。ヘビースモーカーでおまけに男性では珍しいSLE(全身性エリテマトーデス 膠原病のひとつ)を煩っていたためにステロイドが切れなかった。切り取られた肺はぷくぷくとふくれているところがあった。外科医は言う。「ここを押すとすぐに破裂するんです」
軽く触れる程度では大丈夫だが、少し押すだけでニコチンのにおいがプーンと鼻についてくる。
確かに臓器はバラバラになるのだ。
さて、あれこれ思い出す事多く、こうして文章を書きながらも、迷いは尽きない。
まずは慌てて結論を出ささずに、しばらく考える時間をいただこうとおもう。