電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

宮城谷昌光『楽毅(二)』を読む

2013年10月17日 06時04分37秒 | -宮城谷昌光
新潮文庫で、宮城谷昌光著『楽毅(二)』を読みました。物語は、趙の武霊王によって三方から攻められた中山王が、四邑を献じて趙と講和を結ぼうとします。楽毅は、父の喪中であるにもかかわらず使者として趙に向かうように命じられます。中山王は太子の死を画策していますが、一方で趙の武霊王もまた、太子の廃替に迷いを見せています。ところが武霊王は、外に対しては果断を見せる。四邑を献ずるという中山の意向を示す楽毅に対して、約束は十四邑だとゴネます。これは、使者を怒らせて無礼を咎め、斬ろうとするものでした。楽毅は、武霊王の底意を見抜き、残りの十邑を献じる連絡を取るとして時間を稼ぎます。実はそこからがさすがの対応で、好敵手の趙与を人質に取り、郊昔の胆知もあって国境を突破し、帰国を果たします。この点を見れば楽毅の勝ちですが、愚かな中山王が講和決裂で帰国した楽毅を怒り、王と楽毅との間の溝が深まる結果となり、楽毅を信頼する太子は中山国のために王と楽毅の対立を悲しみます。

この対立を緩和し、服喪に戻った楽毅を守ったのは、楽氏に代わり新たに宰相となった司馬熹でした。中山国の危機に、これまで対立することが多かった楽氏と司馬氏とが手を結んだ形となったために、王の暴威も頓挫しますが、服喪を終えて参内した楽毅に、王は昔陽攻めを命じます。これを献言したのは宰相の司馬熹であり、その狙いは、堅城に楽毅を置くことで中山の延命を図ること、でしょうか。

楽毅は昔陽の城を陥し、趙軍の攻撃を防ぐことができるように守りを固めます。しかし、情勢は違った方向に進み、司馬熹と中山王は没し、太子が新たに中山王となります。楽毅は、新王を救うべく、包囲された首都の霊寿へ急ぎ、趙の牛翦将軍を倒します。このとき、王はすでに霊寿を脱出して斉に向かう途中で、負傷していたのでした。楽毅は太子となった尚を斉に亡命させ、斉軍は昔陽の城に入り、楽毅自身は三千メートル級の山岳地帯である呼沱の山野に塞を築き、敗兵を集めながらこれに籠もります。そして、燕に中山の窮状を訴え、燕の利を説くため、敵国・趙を経由して燕への潜入を試みます。その際、楽毅に嫁した妻の孤祥の実家である孤氏の助けが必要でした。

宮城谷作品には、主人公を多くの女性が取り巻く例が多いのですが、『楽毅』の場合は夫人の孤祥との場面が少しずつ描かれるくらいで、彩やかな恋愛模様などは描かれません。このあたりも、「軍事の物語」という印象を強く受ける理由になっているのかもしれません。


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