電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

老母の胃ガン、病理診断の結果が出る

2006年02月14日 20時16分28秒 | 健康
先に老父と同じ主治医に執刀してもらい、胃ガンの摘出手術を受けた老母、経過はたいへん順調で、もう全がゆを食べられるようになった。病院の中を、さかんに歩き回っているようだ。しかし、心配なのは転移の有無である。

病理診断の結果が出たということで、主治医の説明を受けてきた。結論から言うと、無罪放免である。診断は、胃癌の中でも低分化型印環細胞癌と呼ばれる種類のもので、肉眼で観察したときの印象と同様に、広がっていくたちの悪いタイプだという。しかし、発見が早く、病期はIA期にとどまったために、脈管浸潤、リンパ管浸潤ともになし、すこし腫れているということで心配したリンパ節転移もなし、根治切除できたとの判断であった。したがって、抗癌剤などの追加治療もなく、五年生存率は95%以上とのことである。もういつ退院してもよいとのこと、スケジュールをにらみながら退院の日取りを考える必要がある。

やれやれ、ほんとによかった。老父に続き、老母も助けてもらったことになる。執刀してもらった主治医に、心から感謝してきたところだ。
コメント (2)

魯迅のノートと『藤野先生』

2006年02月13日 21時22分26秒 | 読書
地元紙の夕刊に、魯迅のノートの話題が載っていた。若き日の魯迅が、仙台で医学を学んでいた頃、日本語の不自由さを見かねた解剖学の藤野先生に毎回ノートを添削してもらう。周囲の日本人医学生に嫉妬され、苦しい立場に追い込まれる話は、『藤野先生』にあるとおり。
実は、このノート、現在は中国の国宝なんだそうな。そして、旧仙台医専すなわち東北大学医学部にこの複製が電子版の形で寄贈(*)されたとか。魯迅自筆の万年筆のインクも消えかかっているのに、藤野先生の朱筆は今も鮮明だという。これはぜひ一度見てみたいものだ。
(*):毎日新聞の報道記事より, 魯迅のノートと藤野先生の話を紹介したブログ
コメント

百科事典のこと

2006年02月12日 17時06分25秒 | コンピュータ
昔、百科事典が好きだった。中学校の図書館で、本格的な百科事典を調べたとき、わくわくしたのを記憶している。高校時代には、梅棹氏の『知的生産の技術』が現代国語の教科書で取り上げられ、「学校は教えすぎる」が「方法は教えてくれない」という指摘に共感したりした。
「まず索引で調べる」「関連語句のページもメモし、一つずつあたる」
などの百科事典操縦法も、何かの新書で覚えたことだと思う。

ボンビーな大学生時代、あるアンケートで、「あるといいなぁ」の筆頭に「平凡社の世界大百科」と答えたことがある。就職して、先輩の部屋で、軽装版の「平凡社世界大百科」が並んでいるのを見て、さすが~と感動した。ときどき借りて使わせてもらったが、記述の信頼性、格調の高さにあこがれた。

時代は変わり、パソコンにCD-ROMドライブが装備されるようになると、CD辞書がブームになった。FM-TOWNSでワープロソフトFM-OASYSをバージョンアップしたときに『三省堂ワードハンター』が付いてきたのには驚いた。だが、実際にはCD-ROMドライブに常時CD辞書を入れておくわけにもいかず、入れ換えが面倒であまり使わなかった。また、Windows3.1のころに米国Compton社の英語版マルチメディア百科事典CD-ROMを購入し試したこともある。結局、日本語Windows3.1では動作せずあきらめたが、Microsoft社の「エンカルタ」が発売されたときには、日本語Windows95で使えることに喜んだものだ。

ただ、当時のエンカルタでは内容が不満足だった。高校生だった子どもの宿題で、ガンダーラ美術のことを調べようとしても、そんな項目は収録されていないのだ。米国の高校生には向いているのかもしれないが、日本の高校世界史の教科書のレベルを網羅してはいない。この頃、平凡社の「世界大百科CD-ROM」を購入してみた。本文用CDと地図・画像用のCDと2枚組となっており、これも入れ換えが面倒だ。そのうちにバージョンアップのお知らせがきてCDと一緒にDVDも届いたけれど、自宅にDVD-ROMドライブはない。指をくわえて見ているうちに常時接続の時代となり、はたと気がついた。
「そうだ、Googleこそ最大の百科事典ではないのか?」

今は、少し違う感じを持っている。ページランクを上げる抹消的なテクニックを駆使して、あまり信頼性があるとは思えないサイトが上位に来たり、ブログなど多数のリンクがはりめぐらされているページが上位にきたりすると、必ずしも百科事典のような信頼性、格調の高さはのぞめない。WEB版フリー百科事典であるWikipediaのような存在(*)もあるが、現状では充分に体系的・網羅的とは言いがたい。結局、平凡社世界大百科CDを調べ、Googleで検索し、相互につきあわせて判断する、という方式に落ち着いている。
(*):Wikipediaについて

考えてみれば、パソコンに費した金額の何十分の1で、平凡社の世界大百科事典が買えたのだが、転勤に伴う引越しで、邪魔物あつかいされてしまうのがオチだったのかもしれない。私には紙ベースの百科事典は所詮ご縁がなかったと言うべきか。
コメント (4)

ブラームスの交響曲第1番を聞く

2006年02月12日 10時56分41秒 | -オーケストラ
先日来、通勤の音楽で聞いてきたブラームスの交響曲第1番、今日は先日のN響アワーのブロムシュテット指揮の演奏と、続けて聞いた。この有名な交響曲は、接する機会も多く、演奏者も緊張感をもって大切に演奏しているのがわかり、そのたびに満ち足りた気持ちになることが多い。

私の基準となっているジョージ・セル指揮クリーヴランド管弦楽団の全集CD(CBS-SONY 00DC-203~206)で聞く第1番は、速めのテンポで明確で透明な響きを聞かせる、リズムのきれのいい、活発で力感あふれる演奏。これは、ジョージ・セルらしい、ロマン的な雰囲気の表現を至上の価値とはしない、かっちりとした楷書のような価値観に基づく演奏だ。
クルト・ザンデルリンク指揮ドレスデン・シュターツカペレのCD(DENON My Classic Gallery シリーズ GES-9218)は、ゆったりしたテンポで、重厚な低音域の上に息の長い旋律をたっぷり歌わせる。セルの演奏とは異なり、活発な運動性やリズムの軽やかさを誇示するような方向ではなく、より情感を重視する方向。
平成18年2月5日にN響アワーで放送された、ブロムシュテット指揮NHK交響楽団の演奏は、第1楽章提示部の繰り返しを行っているためか、第1楽章が他よりも演奏時間が長くなっているが、実際はそれほどゆっくりしているわけではない。むしろ、緩急の対比を生かしながら、たたみかけるような緊迫感をくっきりと描いている演奏のように思われる。

ところで、演奏前のブロムシュテットのインタビューが面白かった。バックにあるオーディオ装置の最上段にLPプレイヤーらしきものがあったのも興味深かったが、話の中身もよかった。音楽の美しさは緊迫感にあり、ブラームスの交響曲第1番では、楽器のバランスが絶妙で、コントラバスの強調された低音と、50回以上も同じリズムで奏されるティンパニの音が、強烈な音ではない普通のフォルテなのに、聴衆に強い印象を与える、と述べていた。とてもわかりやすく、納得できる説明だった。
自宅でアンプの音量を上げて聞くと、インタビューに答えるブロムシュテットの呼吸の音が気になった。吸う息にゼイゼイするような音が聞こえる。79歳と高齢なこともあり、演奏の様子からは、情熱に衰えは見られないけれど、健康は大丈夫なのだろうか。

この日の演奏、客員コンサートマスターとしてドレスデン・シュターツカペレのコンサートマスターの一人であり、ブロムシュテットとの縁が深いペーター・ミリングさんが座った。ブロムシュテットの「英雄の生涯」盤でも演奏クレジットされているペーター・ミリング教授については、結果的には違ったようだが、こんなエピソード(*)もあるようだ。
(*): ペーター・ミリング教授、カペレの第1ヴァイオリンに島原早恵さんを推す?

参考までに、演奏データを示す。
■ジョージ・セル指揮クリーヴランド管弦楽団
I=13'05" II=9'22" III+IV=21'01" total=43'28"
■クルト・ザンデルリンク指揮ドレスデン・シュターツカペレ
I=14'22" II=9'50" III=5'05" IV=17'15" total=46'32"
■ヘルベルト・ブロムシュテット指揮NHK交響楽団
I=15'05" II=8'48" III=4'48" IV=17'32" total=46'13"
(録画したDVDプレイヤーの時間表示によるもの。)
コメント (8)

忙しい週末

2006年02月11日 20時00分02秒 | Weblog
朝、七時におきて朝食を作り、家族に食事をさせてから、ゴミ集積所にゴミを出しに行く。もどってから掃除。一段落してほっとしたところに家内が変調を訴えたので、近所の医院に連れて行った。土曜の祝日だったが、昔からかかりつけの老医師が診察してくれたので、まずは一安心。
家内を休ませて、昼には地域インターネットクラブの会合に参加、終わってから近くのスーパーに回って買い物をすませた。戻って子どもと家内とお茶を飲む。すぐ夕食の支度にかかり、今晩は家内の強いリクエストにより、コショウのきいた特製ニラレバ飯とあいなった。レバーと豚肉を細切れにし、もやしとニラをあわせて塩コショウでいため、片栗粉で少々とろみをつけただけの簡単なものだが、白菜の漬物とよく合う。
夕食後、後片付けは子どもにまかせ、ほっと一息。そういえば、今日はまだコーヒーも飲んでいない。音楽も聞いていない。やれやれ、忙しい週末だった。
今日から、岩波文庫でディケンズ『デイヴィッド・コパーフィールド』の第一巻を読み始めた。頼りの夫に先立たれた若い妻が、子どもを産む。それがデイヴィッド・コパーフィールドだ。今は、物語の序奏といったところか。
夜、J.S.バッハの「音楽の捧げもの」とフランクのヴァイオリン・ソナタを聞いている。ほんとに忙しい週末の一日だった。
コメント (4)

平岩弓枝『御宿かわせみ・十三歳の仲人』を読む

2006年02月10日 21時28分01秒 | -平岩弓技
文庫本になったシリーズは全30巻、みな読んでしまったので、先日図書館で見つけた単行本の『御宿かわせみ・十三歳の仲人』を借りてきた。例によって1冊あたり8話の割で短編が収録されており、全体として連続するシリーズとなっている。
第1話「十八年目の春」、よくあるパターンの親子のトラブルの話。しかし18年も音信不通というのは、どう考えても普通ではないですね。
第2話「浅妻船さわぎ」、馬の飼葉おけに一幅の絵が投げ込まれていた。噂をもとに贋作でもうけようとしたが、東吾に足駄を見破られる。さしずめ馬脚をあらわしたってぇところか。
第3話「成田詣での旅」、るいとお千絵とご一行様、深川から下総の国成田山新勝寺に舟でツァー旅行。哀れなお篠の話よりも、若い頃に成田山新勝寺を散策したことを思い出してしまった。新勝寺は真言宗智山派の大本山で、当時から人気があったとあるけれど、はて、真言宗智山派の本山なら、京都智積院だったのでは?
第4話「お石の縁談」、山出しの田舎娘だった大力お石に、降ってわいたように縁談が持ち込まれる。見初めた男の見る目は偉いよ、しかし苦難にあっていかにも意気地がない。棟梁のほうがずっといいと思う。
第5話「代々木野の金魚まつり」、またまたお石の話。お吉の薫陶ですっかりいい娘になったお石が、棟梁と一段と近しくなる。この二人なら、いいんじゃないか。
第6話「芋嵐の吹く頃」、かわせみでは客に曲げ物製の弁当を持たせようと計画。どうしてどうして、女将の経営はなかなか上手です。これまた微妙な親子の関係、祖父との関係。職人の世界ですね。
第7話「猫芸者おたま」、しばらくぶりにるいのやきもちがバリバリ全開。しかし長火鉢の中の火箸を握りしめるというのはちと怖いなぁ。
第8話、表題作「十三歳の仲人」。麻太郎と千春、相思の小源とお石のすれ違いをとく話。麻太郎の言葉は本当です。しかし仲人が麻太郎と千春とは、ちとまずくないかい。二人とも「やがて私たちも」と思うぞ、きっと。平岩弓枝さん、兄妹の禁じられた恋愛話にするつもりだろうか、それとも「実は麻太郎は東吾の子ではありませんでした、成長したら全然似ていませんでした、チャンチャン」と落とすつもりなのだろうか。やれやれ。

なんだか、最近は源さんの活躍が少ないようだ。八丁堀のお役目も、内部で人事異動でもあったのかな。写真は神戸・伏見稲荷の境内にて。
コメント

ちょっと今日は厄日かな

2006年02月09日 22時35分50秒 | Weblog
風邪を引いて以来、このところ家内の体調が思わしくないと思っていたら、職場で倒れたそうで、病院で点滴を受けてきたという。重篤な病気ではなさそうで、風邪と疲労と厳寒の影響か、私もなんだか調子が悪い。家内は明日休むことにしたようで、完全休養日か。私は明日一日だけ辛抱するとしよう。
通勤の音楽、クルト・ザンデルリンク指揮ドレスデン・シュターツカペレのブラームス交響曲第一番。ゆったりしたテンポで、重厚な低音域の上に息の長い旋律をたっぷり歌わせる。これもいい演奏だ。
コメント (2)

ディケンズの時代の音楽は

2006年02月08日 21時49分38秒 | クラシック音楽
先に注文していた、チャールズ・ディケンズの『デイヴィッド・コパーフィールド』が届いた。岩波文庫版、全五巻、石塚裕子さんによる2003年の新訳である。少しずつ読むのが楽しみだ。

ところで、チャールズ・ディケンズというと、ずいぶん古い時代の英国の作家という印象があるが、クラシック音楽でいうとどんな時代の人なのだろうか。ちょっと調べてみた。ディケンズが生まれたのは1812年で、ナポレオン戦争の年にあたる。『オリバー・ツイスト』が書かれたのは1838年、R.シューマンが「幻想曲」を完成した年だ。『クリスマス・キャロル』が1843年、ちょうどこの年にメンデルスゾーンがライプツィヒのシューマン夫妻を訪れており、「楽園とペリ」を作曲した年にあたる。1850年『デイヴィッド・コパーフィールド』が書かれた年に、シューマンは交響曲第三番「ライン」を完成している。妻と離婚したディケンズは、翌1859年に『二都物語』を発表、この年にはブラームスが「ピアノ協奏曲第一番」を完成。『大いなる遺産』が書かれた1861年には、ブラームスが「ヘンデルの主題による変奏曲とフーガ」を作曲している。

こうしてみると、チャールズ・ディケンズの活躍した時代は、音楽におけるロマン主義の最盛期であり、ベートーヴェンやシューベルトの死後、シューマンやメンデルスゾーン、ショパンが活躍し、ワーグナーが力をつけ、ブラームスが次第に認められつつある時代と一致する。ロマン主義の時代の現実が、実は『オリバー・ツイスト』や『大いなる遺産』に描かれたような時代だったとは、理系の歴史オンチには意外なことだ。Wikipediaによれば、エンゲルスが『イギリスにおける労働者階級の状態』を書いて当時の資本主義の恐るべき実態を描いたのが1845年ということなので、それなら時代的に納得できる気がする。花開くロマン主義は、現実の悲惨から離れひとときの夢を見る内向的な方向と、現実を変革しようと多くの人々を駆り立てる力を志向する方向と、二つの異なる方向に走り出したのかもしれない。
コメント (2)

通勤の音楽の選曲は

2006年02月07日 20時49分08秒 | クラシック音楽
どんなに忙しくても、郊外路を往復するマイカー通勤時にはたっぷり音楽CDを聞くことができる。通勤の音楽を選曲する場合、最近はこんなふうにしている。まず、第一の条件はステレオ録音であること。できれば、響きのよい録音であること。第二に、管弦楽曲と室内楽と器楽曲と歌劇抜粋盤というように、できるだけジャンルや雰囲気がバラエティに富むように組み合わせること。第三に、ゆるやかなテーマ性を持たせること。たとえば、フランス近代音楽を特集するとか、作曲家の三十才の作品を特集するとか。

で、現在はブラームスの交響曲。ジョージ・セル指揮クリーヴランド管弦楽団の演奏とクルト・ザンデルリンク指揮ドレスデン・シュターツカペレの演奏を、繰り返し聴いている。先日の日曜夜のN響アワーで、ブラームスの交響曲第一番を取り上げていたが、指揮者ブロムシュテットのインタビューが面白かった。ブラームスの一番の音楽の美しさは緊迫感にあり、コントラバスの強調された低音と、50回以上も同じリズムで奏されるティンパニの音が、強烈な音ではない普通のフォルテなのに、聴衆に強い印象を与える、と述べていた。とてもわかりやすく、納得できる説明だった。

ところで、最近カーステレオのCDプレイヤーの調子が今ひとつで、CDをローディングしたらなかなか出てこなくなるとか、困った症状が出始めた。車自体も交換時期になったことを察知して、カーステレオもごね始めたのかな。
コメント (8)

世界文学全集は今どうなっているのか

2006年02月06日 22時59分38秒 | 読書
『オリバー・ツイスト』『大いなる遺産』とディケンズ作品を読んできて、また『デイヴィッド・コパーフィールド』を読みたくなった。私の手許には、高校生の頃に入手した集英社のコンパクトな世界文学全集で中野好夫訳のものがあったのだが、お嫁に行った娘が上巻をどこかへやってしまったらしく、下巻だけが残っている。こうなると余計に読みたくなるのが人情というか、私の習性。さすがにブックオフにも世界文学全集というのはそうはありませんで、今はどうなっているのでしょうね、河出書房グリーン版とか、集英社の世界の文学とか。
書棚の場所ふさぎになっているのか、それともリタイアしたシルバー世代が、再び徐々に読み始めているのか。新しい世界文学全集が企画され、多くの世代の人々にじわじわと売れることはもうないのでしょうか。
仕方がないので、岩波文庫の新訳を注文しました。さて、いつ届くだろう。
コメント

ディケンズ『大いなる遺産(下)』を読む

2006年02月05日 12時07分56秒 | -外国文学
ディケンズの『大いなる遺産』の下巻、眠る前に少しずつ読み、今日ようやく読み終えた。
見知らぬ人から思いがけない遺産が入ることになり、ロンドンでの生活を始めたピップの周囲にいる人々は、なんだかヘンな人ばかり。ポケット夫妻にしろ弁護士のジャガーズにしろ、成長のお手本としてはかなりヘンだ。友人となったポケット夫妻の息子ハーバートだけは友情で結ばれるが、借金はどんどん増えていく。
ミス・ハヴィシャムの奇怪な復讐心は不変で、それをじっと辛抱するエステラの冷酷な美しさは増すばかりだ。エステラはピップにだけは警告するなど、すこしだけ真情を見せているところもあるが、こともあろうにドラムルが彼女に熱を上げている。
やがて、遺産の贈り主が、実は幼い日に逃亡を助けた脱獄囚だったことや、ミス・ハヴィシャムがなんの力も持たない、単なる亡霊のような存在に過ぎないことも判明する。ミス・ハヴィシャムの前で、エステラに愛する心を表明しても、エステラはドラムルと結婚するつもりだと言う。
ピップとハーバートがかくまっているプロヴィスこと哀れな男マグヴィッチを密告した男・コンペイソンこそ、ミス・ハヴィシャムを裏切り人間不信に陥らせた詐欺漢アーサーだった。マグヴィッチが弁護を依頼した男がジャガーズ弁護士であり、彼のもとで家政婦をしている女はエステラの母親であり、エステラはマグヴィッチの最愛の娘だったことが判明する。コンペイソンがマグヴィッチを脅迫し、悪の手先に使ったこと、幼い日に見た二人の囚人の闘争は、それをうらむマグヴィッチとコンペイソンの姿だったのだ。
川から舟でプロヴィスを逃がそうとした矢先、謎の手紙でピップはおびきだされる。犯人は年上のオーリック、そしてその背後にはコンペイソンがいた。ハーバートらの助けでかろうじて難を逃れ、プロヴィスを逃亡させようとしたが、密告者コンペイソンを見つけたマグヴィッチはボートから川に転落、死の淵をさまようが、逃亡囚として投獄され、死刑を宣告される。ピップは連日獄中に通い、彼の最後にあたり最愛の娘が生きていること、自分は彼女を愛していることを知らせる。哀れな男マグヴィッチは、神に感謝して逝く。
マグヴィッチが逃亡先で懸命に働き、ピップに与えようと作り上げた財産は、犯罪者の財産として国家のものとなり、ピップには借財のみが残る。衰弱したピップのもとへビディと結婚しているジョーがやってきて看護にあたる。没落したピップに故郷は辛く当たるが、ハーバートは彼を事務員として迎え入れ、借財の返済にあてる。ミス・ハヴィシャムの屋敷跡でのエステラとの再会と別離には、年月の影が落ちている。

前半の辛い物語がウソのように、後半の急展開が見事。単なる脇役にすぎなかった人々が思いがけない役割を演じる、物語の醍醐味が感じられる。なるほど、ディケンズの傑作と呼ばれるだけのことはあり、思わずストーリーに引き込まれる。本作品は、ピップの成長の物語であると同時に、意に反して逃亡囚となった不幸な男の哀れな半生が陰画として同情を持って描かれ、もう一人の主人公となっているように思う。『大いなる遺産』と題した作者の意図が、なんとか理解できたような気がする。
コメント (8)

モーツァルト「ポストホルン・セレナード」を聞く

2006年02月04日 20時36分11秒 | -オーケストラ
このところ、通勤の車中でエンドレスに聴いていたのが、モーツァルトの「ポストホルン・セレナード」K.320。
解説書によると、器楽曲としてのセレナードは、サロンの発達と共に盛んになった音楽だという。教養の高い貴族が、同じような貴族たちとの交流のために、自前の管弦楽団に演奏させた背景音楽。貴族たちの政治的な情報交換や様々な噂話、貴婦人たちの芸術や恋愛談義、ゴシップ話のかたわら、ふっと耳に飛び込む素敵な響きや旋律。そうして雇い主の耳に残らなければ生き残れなかった音楽師たち。ザルツブルグ時代のモーツァルトは、音楽的なレベルについて、自覚と誇りを持っていただろう。同時に、ザルツブルグの中でそれを理解してくれる人がごく少ないという事実も、痛切に感じていたことだろう。まだ故郷との決別に至らない時代、聞き手を楽しませる工夫に努めながら、「これでもか」とばかりに創作で立ち向かっていた頃の作品ということになる。

第1楽章、アダージョ・マエストーソ~アレグロ・コン・スピリート。堂々とした開始。途中、「ロッシーニ?」と思わせる軽快なところもあり、ロッシーニがモーツァルトをパクったのかな。
第2楽章、メヌエット、アレグレット、トリオ。いかにもモーツァルトらしいメヌエット。「あら、ちょっと踊りましょうか」となりそうな音楽。
第3楽章、コンチェルタンテ、アンダンテ・グラツィオーソ。
第4楽章、ロンド、アレグロ・マ・ノン・トロッポ。
第5楽章、アンダンティーノ。陰影に富むオーボエの響きが印象的なモーツァルトのニ短調。
第6楽章、メヌエット、トリオ。この楽章にポストホルンが加わる。
第7楽章、フィナーレ、プレスト。

演奏は、ジョージ・セル指揮クリーヴランド管弦楽団。CBS-SONY 32DC-213 という型番を持つ、1984年頃に発売されたリミックス・マスターによるCDである。「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」が併録されており、録音もたいへん聞きやすい。

サロンの背景音楽は、本来の趣旨からすれば室内管弦楽団で演奏するのが正当なのだろうが、現代の大オーケストラで演奏すると、本当は実に立派な音楽であったことがわかる。当時、貴族のサロンで演奏されていた音楽を、もし現代の大オーケストラで演奏したら、どの程度楽しめるものなのだろうか。モーツァルトの創作の水準が抜群に高かったから、こうした背景音楽も現代まで残ったというべきだろう。

この演奏のLPが発売されたとき、某レコード雑誌に、セルとクリーヴランドの恐るべき合奏力により逆に機会音楽の冗長さを感じさせられる、というような趣旨の批評が掲載されたことがあった。このような見解には賛成しかねるものがある。

参考までに、演奏データを示す。
■ジョージ・セル指揮クリーヴランド管弦楽団
I=7'33" II=4'25" III=7'31" IV=5'29" V=5'29" VI=5'06" VII=3'53" total=39'26
コメント (6)

明日は寝坊するぞ~!

2006年02月03日 22時09分16秒 | Weblog
来訪者対応がやけに多かった一日が終わり、ようやく週末モードに突入。家に帰るとすぐに食事の支度をする。今日はとろろ飯にした。本当は麦飯だとよいのだが。姪の結婚披露宴で京都の山ばな平八茶屋で食べたとろろ麦飯は本当に美味しかった。妻には再び梅干おかゆと昆布巻、とろろと漬物、それにお茶。とにかく早くできるものに限られてしまう。子どもは白菜カレーの残りをペロリと平らげてくれた。
通勤の音楽、今日もモーツァルトの「ポストホルン・セレナード」をエンドレスで聴いている。明日は土曜休日、ゆっくり寝坊するぞ~!それから病院にも行く予定。ゴミも出す必要があるし、お風呂とトイレの掃除もある。携行缶で除雪機のガソリンを買ってこなければいけないし、確定申告の準備作業もしなければ。そうだ、お米をといでおくのを忘れた!
コメント (2)

せめて通勤の車中だけでも音楽を聞きたい

2006年02月02日 21時16分12秒 | クラシック音楽
早朝の出発で、比較的道路がすいている時間帯に通勤しているため、音楽を聞くには適している条件だ。今朝は朝寝坊しそうになり、大あわてで朝食抜きで出かけた。食料は職場の近くにあるコンビニでなんとかなるので、助かる。
今朝の通勤の音楽は、ジョージ・セル指揮クリーヴランド管弦楽団によるモーツァルトの「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」「ポストホルン・セレナード」。強い緊張を求める音楽も不向きだし、逆に眠くなるようでも困る。郊外の通勤路を走る車中で聞くモーツァルトのセレナードは、とても快適だ。
さて、明日は待望の金曜日。ようやく一週間が終わる。嬉しい。明日一日、なんとか仕事を片付けよう。
コメント (2)

ゆっくりする時間もない

2006年02月01日 21時57分15秒 | Weblog
午後からまた雪が降り始めた。みぞれのような湿った雪だ。ハンドルが取られて、運転も不自由だ。突発の仕事がらみで帰宅時間も遅くなり、自宅に戻るとどっさり積雪、雪の原の状態。30分ほど除雪機を運転して、明朝のためにきれいにしておく。家に入ると、妻が風邪でダウン。老父を筆頭に男ばかり三世代では、なんともモノクロームな風情だ。おかゆをたき、梅干をのせて、白菜の漬物とあさつきの酢味噌和え、シチューに清涼飲料水を添え、妻の食事とした。風呂を沸かしている間に食事の後片付けをして、まずは一段落。
ゆっくり音楽を聞いたり、本を読んだりする時間を作るのは当面難しそうだ。せめて、週末にはゆっくりしたいものだと思う。
コメント (4)