電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

吉村昭『史実を歩く』を読む

2007年07月04日 06時41分25秒 | -吉村昭
文春新書で、吉村昭著『史実を歩く』を読みました。
本書は、言ってみれば吉村昭氏の取材ノートのようなもので、作品の取材にあたって経験した興味深いエピソードを集めたものです。それだけに、すでに読んだ作品については周辺の理解が深まり、未読の作品については、どんな内容の本か、たいへん参考になります。

第1章、「破獄」の史実調査
第2章、高野長英の逃亡
第3章、日本最初の英語教師
第4章、「桜田門外ノ変」余話
第5章、ロシア皇太子と刺青
第6章、生麦事件の調査
第7章、原稿用紙を焼く
第8章、創作雑話
第9章、読者からの手紙

第1章は、小説『破獄』の取材の際の、立派な刑務官に関するエピソード。ちょいとじんと来るものがあります。
第2章は、小説『長英逃亡』の取材ノート。出羽の国米沢まで行った高野長英の逃亡行の経路を立証するくだりや、四国宇和島に潜んだ家の隠し部屋を訪ねる場面は、知的な興奮を呼び起こします。
第3章、小説『海の祭礼』の取材ノート。こちらは、取材に関わった土地と人の話。蝦夷に漂着したラナウド・マクドナルドが、長崎で日本最初の英語教師として、森山栄之助らに英会話を教えますが、当時は埋もれていたこの史実を、ずっと丹念に研究していた人々の努力に、頭が下がります。
第4章、小説『桜田門外ノ変』の取材ノートであるとともに、多くの資料や関係者の証言を集めた余話の体裁を取っているが、内容は実に興味深いものです。
第5章、小説『ニコライ遭難』は未読ですが、ロシア皇帝ニコライが巡査に切り付けられた事件の取材ノートです。ロシア皇太子ニコライが、龍の刺青をほどこしたことや、その他のエピソードを内務大臣当て報告していたことがわかり、原作を読んでみたいと思わせられます。
第6章、小説『生麦事件』の取材ノートです。この時代になると、写真が残っているのですね。当時の生麦村の事件の現場写真や、リチャードソンの遺体の写真など、貴重な歴史的写真が掲載されており、生々しさを感じます。文庫で上下二巻からなる物語は、題名の素っ気なさに反して、歴史の転換点となった事件を契機とした大きなうねりを描いており、見事な傑作。これはぜひ再読したいところです。
第7章、小説の書き出しを誤り、途中で投げ出した経験を語りながら、小説『落日の宴』の主人公、川路聖アキラ(ごんべんに莫)の女房運の悪さや、側女という言い方をしたかどうか、などを考えています。
第8章、文字どおり創作雑話なのですが、セーター姿の著者と、書斎の写真が掲載されており、普段着の姿が自然に感じられます。
最後の第9章、必ずしもありがたいものばかりではなかった読者からの手紙の多面性を書いています。そうでしょうね。伝承や口伝には誤りや記憶違いも固定されやすく、後の人はそれを頭から信じてしまうこともあるでしょう。資料をいくら提示して説明しても、なお全く信じようとしない性癖の人もいるだろうと思います。

新書サイズの小著ですが、中身はたっぷりで、吉村昭氏のファンならば、じっくり楽しめる本です。
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