日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

梅雨時なのに、「水無月」。衣更えの季節です。

2024-06-03 08:44:46 | 日本語学校

微雨。

中学生の頃、「古文」の時間に「月の古名」を習い、「『梅雨』時なのに、『水無月』とは、これ如何に」なんて、遊んだことがありました。この「月」も現在の暦とは少しばかりズレているようですが。

その「水無月」、最初の月曜日。「『衣更え』は今日から…」というのは、私たちの時代のこと。現在は、中高でも、何週間がどちらでもいい期間が設けられているようですが。以前は、特に「詰め襟」姿であった男子生徒など、見ているだけで暑くなった…。5月にもなると。体育の後など、「ありゃあ、『根性』ものだな」と思って見ていました。この制服もだんだん自由度が増しているようですが。

さて、学校です。

「Bクラス」では、火水木金に、「N5」漢字と「N4」漢字の読みを、交互でやり、少しばかり楽になった頃から「N3」漢字の読みも少しずつ入れるようにしています。そうしていくと、まあ、僅かばかりの成果ではありますが、それが感じられるようになってきました。「読解」問題集の文章を、(初めてでも)読めるようになってきている…まあ、以前は、こりゃあ、「N5」だろとしょっちゅう言っていましたから。

問題の説明時間を少なくしても、それでも甲斐はあると思います。彼ら、ヒアリング力はある程度あるのです。そこが「漢字圏」の学生と違うところ(「ベトナム」学生も含みます)。

「インド圏」や「中近東」「南米」の学生達は、スリランカ人を筆頭に、ヒアリング力はありますから(もちろん、年齢がかなり上であれば、話は違います)、問題は「漢字」「漢字」「漢字」なのです。

スリランカの学生の場合、ヒアリングがよく、文法にも悩むことが少ないので、直に文章の意味がわかるようになる…。多分「ひらがな」を拾って読んでいると踏んでいるのですが。そして残りの部分は、日本暮らしから得られた「勘」。それでも、「ヒアリング」が良ければ、「会話」もすぐにできるようになりますから、日常生活には困らない。困らないだけでなく、会話はいっぱしにできるので、日本人から褒められる。「上手ねえ」と。だから、「読めるようになる」必要性は感じられないのでしょう。「私、もう十分に上手じゃん」ということで。

もちろん、正社員として就職すれば、直に正体はバレてしまいます。剥がされたメッキがいかに多くとも、外国人だから、できなくて当たり前と、向こうが考えてくれれば、「漢字が必要ない部署」に回され、別に困ることもない。穏やかで、人当たりがいい人が少なくないのです。

「インド圏」で、漢字を覚えようと練習してくれる人は、稀と言えば稀。とはいえ、いることはいる…本当に少ないのですが。ただ、練習しろと言えば、(見てさえいれば)練習はする。書くのですが、「絵」を写すように「描く」だけで、覚えようとする気がほとんど感じられない…。無駄なことをさせられていると思っているのでしょうねえ。

「漢字」なんて、覚える気がなければ、覚えられないものです。反対に覚えようとしさえすれば、案外簡単に覚えられるものなのです。一旦、覚える気になれば、ここは日本で、漢字は、至る所に「氾濫」しています。電車に乗っても、「駅名」は漢字で書かれてあるし、店の名前もカタカナ、漢字で書いてある。その気になって見ていれば、「手」より先に「目」が覚えてくれるのです。

それプラス「意味」。「意味」が判れば「鬼に金棒」。例えば「学校へ行きます」。そうか「『がっこう』の漢字はこの『学校』…へえ」。「『いきます』の漢字は、あの『行きます』か…へええ」。

だから、「意味」と「絵」を、一致させることが必要になるのです。当たり前のことですが。ただ、これがなかなかできない。だから、「N5」漢字にも、「N4」漢字にも、「読み」と「意味」を一緒に書いておくことが大切になる。「意味」は「母語」で書くのが一番いい。

で、その作業時間が必要になってくる。「家でやれ」と言っても、ほとんどが、まずは、しない。大変だからかな。大変じゃないと思うけれども。「皆でやる」で、初めて動けるようなのです。自分で、帰ってからできる人は、まず、いない。学校で時間を設けてさせていくしかないのです。

「私たちの学校では、やって来ますよ」という学校は…ほんと楽ですね。(『初級』の宿題までですかね。やってくるのは。一度やっているので、それを書いてくるのはいいようなのですが)。自分で調べて(ちゃんと本には書いてありますが、それを探して、見つけるのが大変なのかな)やるのは、慣れていないのでしょう。だから、こちらとしては、授業時間の配分が命となる。教えること、教えないこと(後でできることは後でする)を分けて考え、その時間内に収めるようにする。そういうことが必要な、(おそらく大部分の)日本語学校の教師は、この「捨てる」作業ができなければ、授業は難しくなる。

「知識」のある人は、とにかく「言おう」とする、知っていることを、たくさん言いたいのでしょうね。それは「知識がある」だけで、教師ではない。相手あっての教師ですからまずは相手を知らねばならない。相手は「そんな」日本語なんか「全く聞き取れない」というのに。単なる「(自己)満足」に過ぎないのに。「やったあ、言ったぜ」というところなのでしょう。相手は何を言ったのか判らないので、実際は成果無しなのですが。

『初級』の間は、導入も、最多で「例文は三つ」。それ以上言わねばならない時は、その日の導入は失敗したことになる。だから、相手(学生)を知るのが先。『初級』は「対訳」があるのもそれ故でしょう。一度に5カ国も6カ国もの、違う母語をもつ人達を相手に、説明ができるはずもない。見せたらわかるという物が多いのもそのため。

ただ「N3『読解問題集』」くらいの文章を読むとなると、違う世界のことが書かれているので、ある程度の知識が必要になってくる。文法や漢字以外の点で、狐につままれたようになってしまう。その説明も必要になるのですが、時々、「こりゃあ、無理」というような内容も出てきます。その時は、文法と漢字、そして単語の意味をさらっとやるくらいにして、あとは「この単語を覚えるべし」と言っておくだけにしています。

どう足掻いたって、「知識」という化け物には太刀打ちはできません。知らない内容が出てきて、当惑させられるというよりも、知らないことがある。その中で設問の答えを出していく…という練習をしなければならないのです。さらっと流すべき物はさらっと流し、しつこくやっておくべきものは、しつこくやる。これを徹底させるしかないのです。

日々是好日
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