日本語学校からこんにちは ~水野外語学院日本語科~

TOKYOベイエリア,市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

「来日直後の(日本語力の)差は、大したことではない。来てからどれだけ頑張れるかにかかっている」。

2012-08-10 13:43:48 | 日本語の授業
 昨日は、蕁麻疹が再発した一人を除き、9名がやって来ました。もっとも、一人は10時半ごろに、コソコソと入って来たのですけれども…。

 母国で一応、『初級Ⅰ』は、終わったという学生でも、「N5(日本語能力試験)」に合格してから来たという学生でも、私たちから見ると、意味を取り違えて理解している場合や、動詞や形容詞の活用を間違って覚えているという場合などがあり、決して油断できないのです。

 そういう場合は、特に、早めに手を打っておかないと、結局、そのままズルズルと行ってしまうものなのです。時間が経ってしまうと、もう「癖」になってしまいますから、改めさせるのは至難のワザなのです。間違っていても、アルバイトはできますし、日本人には意味は判ります。それで放っておくということになるのです。本人に改めようという意識がなければ、私たちが喚いたってどうにもできません。

 というわけで、こちらとしては本気で、かなりきつく、注意するのですが、これが、なかなか納得できないようなのです。どこかストンと落ちていくところがないのでしょう。

 彼らの心の裡では、「でも、私は『N5』に合格している…」とか、「もう『初級Ⅰ』は、勉強している…」とかいった気持ちが先に立つのでしょう。

 「助詞」の「へ」を、「で」にしたり、「に」にしたりする学生がいます。これは後ろに来る「動詞」で覚えろとしか、現段階(「初級10課」程度)では言えないのですが(勿論、彼らの手元には、母国語で書かれた「対訳の単語」や、「文法の説明」があります)、素直に聞けず、別の「は」や「が」に関する質問に置き換えて聞き始めるという学生も出てきます。

 これは往々にして、変な自信をもって来日している学生に見られることなのです。その時には、「それは『第○○課』でやる。今、やることではない」と、言って切り捨てるのですが、何度それをやっても、繰り返して言い続けるということもあるのです。系統的に学ぶというのは、一段一段階段を上っていくことと同じであるということが、これまでに学習できていないのでしょう。

 もしかしたら、彼らの狭い世界(彼らの国の日本語学校のクラスとか、あるいは彼らの町の高校だったのかもしれませんが)で、トップだったという意識が働いているのかもしれません。これは、勿論、誰にでも起こり得る感情です。ただ、年を取ると共に、「上がある」ことが、聞き知ってわかったり、あるいは実際に身を以て知ることもありますから、そういう夜郎自大な感情は削り取られていくのが普通なのですが。

 ある程度能力のある学生でも、一旦、こういう気持ちになって、それから抜け出せないでいると、日本語学校で学べる二年間なんて、あっという間に過ぎてしまいます。自分は「できる」と思っていたのに、他の者の方がどんどんレベルが上がっている。自分が聞き取れないことが聞き取れていたり、書けたりしている。「えっ。いつの間に、こうなったんだ」。この時の気分は堪りませんね。出来るなら味わわずに済ませてやりたいものです。

 そのためにも、最初に学生達を預かった時に、そういう傾向のある学生達は一人一人潰していきます。早めに手を打っておかないと伸びる芽も伸びなくなってしまいます。

 とはいえ、こういう学生の多くは、母国で、自分のやり方で成功したという「経験」を持っていますから、なかなかこちらが言うとおりにしません。

 例えば、「中級」を例に取りますと、「皆で読む」作業一つをとってみても、一緒にできないのです。一人だけ読まないのです。だから、一人一人読ませていく時に、彼らの国語のリズムになっていたり、漢字が読めなかったりする。「私は全体が理解できなければ読めない」という理屈で。

 「初級」でも、単純な作業、たとえば、「動詞のます形」を「ない形」や「ば形」などに換えていく時でも、そんな簡単なことはできるから面倒だとでも思っているのでしょう、やりません。私と目があった時に、叱られては困ると思ってか、口を動かしてみせるくらいなものです。

 ところが、当てて言わせてみると、出来ない部分がボロボロと出てきます。考えて覚えなければならない場合と、機械的に繰り返していけば、自然に、労せずして覚えられる場合とがあるのに、全部平面的にやってしまおうとするからでしょう。

 しかし、本人が、いくら出来ると踏んでいても、あら探しのベテラン(教師)が、鵜の目鷹の目で見ているわけですから、「あら」が出ないわけがないのです。

 この「あら」が、出てきた段階で、心を改め、皆と同じことをしていけばいいのですが、それは「あり得ないことだった」くらいの気持ちで等閑にしていると、一ヶ月も経った時には、真面目にコツコツとやって来た学生に追い抜かれてしまいかねません。

 最初は、(日本語が出来なかったので)下に見ていた学生であっても、資質的にはそう差があるわけではありませんから、あとはどれだけ真面目に休まずにコツコツ出来るかで決まります。下手をすると、母国での1年分なんて、来日後の一ヶ月にしかならないことだってあるのです。「あいうえお」のクラスで、「みんな下手だな。自分はすごいんだ」と思い込み、しかも、その間、こんな簡単なことなんて馬鹿らしくてなんて考えて、のんびりしていたわけですから、失っていくばかりです。日本に来て日本語学校で勉強していても、「増やすという作業」をしていなければ、それは当然、いつの間にか、ぎょっとするくらいの差になっています。

 それがわかっていても、「おいらが一番」意識はなかなか消し去ることは出来ないらしく、今度は追い越されたという現実を無視しようとかかります。プライドだけで生きていくのは非常に難しいことだと思うのですが、その段階で呼び出して話し合ってもなかなか埒は明かないのです。既に二十歳を疾うに過ぎている人と、異国の人間が、互いに意思の疎通を図れる言語を持たぬまま話し合うわけですから、そこは互いにある程度の柔軟性や勘の良さが必要になってきます。つまり、他者の考えを読み取る力であり、感じ取る力といったらいいのでしょうか。

 何事も、これまでのやり方に固執しないで、教師が勧めるやり方をこころみるべきでしょう。今、こういうやり方をやっているのだがと、教師に相談すれば、勉強できる時間や様々な事を考慮して、こういうやり方でやってみたらどうかと提案してくれるはずです。

 自分のやり方でやっても、おそらく出来るようになるのは、想定内の「自分」でしかないのです。

 そこに他者の目を加えると、自分の気づかなかった自が発見されることもあるでしょうし。それによって新たな自分を築けることだってないわけではないのです。

 この学校では、今、学生数は40人余り。その学生達を見る教員が八人で、16の目が常に学生達を見ているのです。

 この学校には、学生と教員しかいませんから、授業中、学生がこう言ったとか、こんなことがあったとかいった話が常に職員室で流れています。担任が、それを聞いて、ついと立って教室に行って話を聞いたり、注意を与えるということもあるのです。また、私たちには言いにくくとも、非常勤の、他の先生には言えるということもあるでしょう、それを聞いて私たちが(対処の仕方を)考え直すということも少なくはないのです。

 常勤の私たちはどうしても、注意を与えなければならない場合が多く、いきおい、強面になってしまうのですが、その点、非常勤の先生方は、おおらかに学生達を見ることが出来ますから、彼らにとっても、ホッと出来る時間になるのです。また、そういう先生は褒めるのがうまいのです。そして、学校全体としては、そこで微妙にバランスを取っているということになるのでしょうか。

 ブツブツとよく文句を言っている私にしても、もしこれが、週に三回程度(教えるのが)でしたら、自分に叱る資格があるかどうか悩んだことでしょう。勿論、誰もそれができない、つまり、叱ることに長けた教員がいない学校であれば、人任せにせず、しゃしゃり出るしかないでしょうが。

日々是好日
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