日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

「新・日本語能力試験」。「文章を読み取る思考回路」。「感性」。

2010-06-29 08:11:36 | 日本語の授業
 うちを出る時は、ポツン……、ポツン……、でしたのに、学校に着くまでにかなりの雨量になっていました。おかげでシャワーを浴びたような気分。とはいえ、濡れているわ、暑いわで、(学校に)着いても、滴るものが、雨滴なのか、汗なのか、全く判りません。

 さて、「新・日本語能力試験」のことです。学校側としては、自分達の作る試験問題よりも客観性のあるものが欲しい。その点、これまでの「日本語能力試験」は、様々な批判もありましたが、いろいろな分野の人たちが、それなりに「文章」を選び、また「文法」、「単語・文字」の問題を作りして、一つの「試験」の形にしてくれていたので、受験前の一時期、また上の級に行くためのレベルの確認などに、利用させてもらってきました。

 模擬試験をしては、「漢字」が不十分だったなとか、「文法」にもっと力点を置かねばと軌道修正ができていたのです。公教育であれば、問題を作るにしても、そのための時間はとれます。まず第一に人が多いのです。しかも、公的、半公的機関から資金の援助も、また足りなければ人材の派遣もしてもらえます。どのような問題校であろう、それは、変わりありません。その点、こういう私的な学校では、不利なのです。時間もとれませんし、資金も人も、足りないのです。

 もちろん、普段から、新聞や雑誌、或いはテレビなど、教材として使えそうなものをチェックして集めていますが、これとても、「ヒアリング」でも「読解」でもいいのですが、最低「一級レベル」に到達していないと、やはり授業としては成立させようがないというものが多いのです。

 それで、「一級」レベルまでは、亀の子ならぬ首を縮め、我慢に我慢を重ねております。

 ただ、「読解力」は、彼らの母語による知識や能力の差が大きいのです。わずか一年か一年半くらいの日本語学校での勉強(一年では、大半の時間に「あいうえお」やら「文法」などに時間を割かざるを得ないのです)では補えない部分も少なくないのです。

 もちろん、「文法」や「文字・語彙」、「ヒアリング」などが、一年ほどで、「一級レベル」にいけるだけの能力を持った学生には、準備しておいた新聞などの記事、テレビなどのDVDを通して、少しでも知識を提供することは出来ますが、これとても、知識がないから読み取れなかったという部分を補充するくらいのもので、「力を養う」とは言いがたいのです。

 それに、こういう、普通の文章を読み取る上での、「思路」とでも言うべきものが開拓されていなければ、こういうものを養成するのはなかなか難しいのです。こういう「読解力」というのは、あくまで「(各人の母国での)国語」の流れを汲むものなのです。

 以前、台湾から来た学生がいました。彼は理系で、大学院も出ており、よく勉強していました。しかしながら、「文字・語彙」、「文法」はどうにか頑張れても、どうしても、「読解」で躓くのです。他の「高卒出」の学生たちがスルスルと解いていくような問題でも、一人、ニコニコと皆と異なった答えを出し、私が説明しても、また学生たちが中国語で説明しても、どうも判りかねるような風なのです。

 ところが、そのクラスに、中国人のコンピュータ専攻の大卒の学生がやって来ました。すると、いつも、皆と違う答えを出す人が、二人に増えたのです。

 多分、彼らの「思考回路」は、非常に近かったと思います。専門の分野のものは、何の問題もなく読みとれるようなのです、想像力を働かせながらでしょうが。ものを理解していく上で、かれらのシナプスは、同じように情報を繋ぎあっていたのでしょう、脳の中で。その時はもう時間もありませんでしたから、授業中は、「君たちは、説明しても無駄。パス」などと、最後には冷たい言葉になってしまいましたが、彼らはそうされることにも慣れているようでした。それを聞いても少しも怒らないのです。それどころか、「本当にそう。どうしましょう」くらいの表情でしたから、もう最後の手段、点のとれる「その他の分野」に賭けるしかなかったのです。

 ただ、こういうことはできました。本当の理解にはほど遠いものでしたが、頭のいい人達でしたので、「自分はこうだと思うが、その通りにすると間違ってしまう。それで、自分の考えている、ここを、少し曲げて、こういうふうに考え、答えとして出してみると、正解になるらしい。では、そうしておこう。合格さえすればいいのだから」。

もちろん、学校での練習では、思ったとおりに答えますので、「パス」「パス」「パス」と云われ続けていましたが。

 こういう学生には、「一斉授業」の時に、(彼らのために)あまり時間は割けないのです。まじめで、しかも、誠実な人たちでしたので、授業が終わった後に学校に残って勉強をしていました。そういう時か、或いは(授業が終わってすぐに)質問に来た時に、説明を加えるしかなかったのです。なにせ、あまりに「思考回路」が違いすぎていて、他の学生達とは一緒に出来ないのです。一緒に説明しているうちに、まだ若い彼らは(他の学生)、その影響を受け、だんだん何が何だか判らなってしまうというようなこともありましたから。

 ……雨が、随分大降りになってきました。そういえば、今年はまだ一匹も「カタツムリ(蝸牛)」を見ていません。「アオガエル(青蛙)」を見なくなってどれほど経つでしょう。「ホタル(蛍)」なんて、夢のまた夢です。この辺りでは、百貨店くらいでしか、お目にかかれないでしょう。

 「梅雨は嫌だが、梅雨には梅雨の楽しみ方がある」などと、余裕を持って、うそぶいていられたのも、こういうものが身近にあってこそ。彼らと別れてしまえば、梅雨の雨もただの雨。年中降るのと同じ雨でしかないのです。

 近代人となった日本人は、どうも、自ら「感性」を失うべく努力しているようで…、だんだん切なくなってしまいます。

日々是好日

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