晴れ。今日は風もなく、静かに一日が始まっています。
ところで、東京でも桜が開花しはじめたそうです。上野公園では、「シダレザクラ(枝垂れ桜)」や「コヒガン(小彼岸)桜」などが、既に、満開に近いということですし、例の、毎年、花見客でごった返す桜並木の桜の満開は4月7日頃になりそうだとかも伝えられています。この分で行きますと、この学校の入学式予定日である4月11日には、皆で桜を見に行くことができるかもしれません(例年、行っているのは千鳥ヶ淵なのですが)。
去年は(大体いつもそうです)、皆で桜を見に行くことができませんでした。新入生が入ってくる頃には、疾うに桜が散っている…で、桜の話を聞いても、「知らない…見ていないモン」と、拗ねられるいうことになっていました。まあ、遠くへ行かなくとも、北西に歩いて一分か二分ほどの公園にも、桜が何十本か植えられてしますし、北に歩いて一分ほどの民家にも、見事な枝垂れ桜がありますから、それらを見て楽しんでもいいのです。それに(その民家の右にある)道を挟んで、お向かいには小学校(日本では、どの学校にも桜が植えられています)があり、そこにもさくらが植えられていますし。
日本は、古来から地震にも津波にも火山の爆発にも、数限りなく見舞われてきました。その度に、木々はなぎ倒され、地形も変わり、そして新たな自然が作り出されてきました。これは、いわば神の手によるとしか言いようのないものなのですが(人が賢しらげにしている原爆実験とか水爆実験とかによるものとは違います)。
人が、いくら、これは人類の英知によるものだと誇ってみても、自然というものは、ちょいとへそを曲げるだけで、大地震や、大津波、火山の大爆発などを、その何千倍、何万倍ものエネルギーで起こし、巨大な大都市であろうと、構造物であろうと、あっという間に消し去ることだってできてしまうのです。
人の、喜びも、悲しみも、怒りも、何もかもが瞬時に消されてしまいます。人は蟻のように小さい存在であると、わかってはいても、互いの人にとっては、それぞれの相手は、たとえようもなく尊く、大切な存在なのです。
人の、そういう思いも、天空の存在からみれば、多分、取るに足らないものなのでしょうが、けれど、大地に生きている私たちからすれば、決して、決して、取るに足らぬようなものではないのです。大切な、大切な存在なのです、結びつきあっている互いは。
確かに人は社会的な動物であり、人によって成り立たされている存在なのでしょう。人を助けるのは人であり、人は互いによって助けられている存在なのです。
ただ、人は、やはり、二本脚で大地に立っているのです。それによって、やっと、人たり得ているのです。地震が続くうちに、「地震酔い」になるというのもよくわかります。大地が揺らぐ「なゐ」は、やはり怖い。大地は動かぬものというのが、前提としてありますから、なんといっても。
人が、もしかしたら、心に描いているのは、「自然」ではなく、自分が子供の頃から見慣れている「風景」なのではありますまいか。「自然」というのは、人にとって「畏怖」さるべき存在であり、その片隅に人を許し近づける、自然の一部たる「風景」だけを、人の方でも近づけることができるのではないでしょうか。
そして、「自然」によって、「風景」が変わってしまうのが怖いのです。
「森は海の恋人」運動発祥の地での被災。牙を剥き出した海に向かい、それでも、人々は海から離れられないと言います。悲しいですね。けれども、強いですね、人は。
日々是好日
ところで、東京でも桜が開花しはじめたそうです。上野公園では、「シダレザクラ(枝垂れ桜)」や「コヒガン(小彼岸)桜」などが、既に、満開に近いということですし、例の、毎年、花見客でごった返す桜並木の桜の満開は4月7日頃になりそうだとかも伝えられています。この分で行きますと、この学校の入学式予定日である4月11日には、皆で桜を見に行くことができるかもしれません(例年、行っているのは千鳥ヶ淵なのですが)。
去年は(大体いつもそうです)、皆で桜を見に行くことができませんでした。新入生が入ってくる頃には、疾うに桜が散っている…で、桜の話を聞いても、「知らない…見ていないモン」と、拗ねられるいうことになっていました。まあ、遠くへ行かなくとも、北西に歩いて一分か二分ほどの公園にも、桜が何十本か植えられてしますし、北に歩いて一分ほどの民家にも、見事な枝垂れ桜がありますから、それらを見て楽しんでもいいのです。それに(その民家の右にある)道を挟んで、お向かいには小学校(日本では、どの学校にも桜が植えられています)があり、そこにもさくらが植えられていますし。
日本は、古来から地震にも津波にも火山の爆発にも、数限りなく見舞われてきました。その度に、木々はなぎ倒され、地形も変わり、そして新たな自然が作り出されてきました。これは、いわば神の手によるとしか言いようのないものなのですが(人が賢しらげにしている原爆実験とか水爆実験とかによるものとは違います)。
人が、いくら、これは人類の英知によるものだと誇ってみても、自然というものは、ちょいとへそを曲げるだけで、大地震や、大津波、火山の大爆発などを、その何千倍、何万倍ものエネルギーで起こし、巨大な大都市であろうと、構造物であろうと、あっという間に消し去ることだってできてしまうのです。
人の、喜びも、悲しみも、怒りも、何もかもが瞬時に消されてしまいます。人は蟻のように小さい存在であると、わかってはいても、互いの人にとっては、それぞれの相手は、たとえようもなく尊く、大切な存在なのです。
人の、そういう思いも、天空の存在からみれば、多分、取るに足らないものなのでしょうが、けれど、大地に生きている私たちからすれば、決して、決して、取るに足らぬようなものではないのです。大切な、大切な存在なのです、結びつきあっている互いは。
確かに人は社会的な動物であり、人によって成り立たされている存在なのでしょう。人を助けるのは人であり、人は互いによって助けられている存在なのです。
ただ、人は、やはり、二本脚で大地に立っているのです。それによって、やっと、人たり得ているのです。地震が続くうちに、「地震酔い」になるというのもよくわかります。大地が揺らぐ「なゐ」は、やはり怖い。大地は動かぬものというのが、前提としてありますから、なんといっても。
人が、もしかしたら、心に描いているのは、「自然」ではなく、自分が子供の頃から見慣れている「風景」なのではありますまいか。「自然」というのは、人にとって「畏怖」さるべき存在であり、その片隅に人を許し近づける、自然の一部たる「風景」だけを、人の方でも近づけることができるのではないでしょうか。
そして、「自然」によって、「風景」が変わってしまうのが怖いのです。
「森は海の恋人」運動発祥の地での被災。牙を剥き出した海に向かい、それでも、人々は海から離れられないと言います。悲しいですね。けれども、強いですね、人は。
日々是好日