まあまあ、今日のお空のきれいなこと。秋空です。ここ数日、快晴が続いていて、それはそれなりに、きれいな青空だったのですが、今日のお空は刷毛で、うっすらと刷かれているでもなく、ただ青一色ときています。しかも、それが、大陸でしか見られないような「きれいな青」なのですから、見とれてしまいます。そして西の空には、今にも消えてしまいそうな、淡い、白い、まん丸なお月様が…。
紅葉の頃もそうなのですが、時々自然は、厳しく人に対するだけでなく、このような姿も見せてくれます。というわけで、人は、地震や台風、大雪、洪水などの頻発する、この地にも、居続けることができるのでしょう。それどころか、居続けたいと願うのかもしれません。
あのような津波に呑み込まれた「地」にさえ、人は出来るならば直ぐにでも帰りたいと願うのですもの。我が故郷であっても、それは同じこと。日本のみならず、世界のどの地であっても、人の、故郷を想う気持ちは同じでしょう。つまり、「帰りたい、どのようなことがあっても」なのです。科学が発展してくると、その万人共通の願いが叶えられないような状況が、時には作り出されてしまいます。それが、何とも切ない。他人事ではないのです、明日は我が身。それを常に忘れずに人のために尽くせるか、公僕たる身を忘れずにいられるかが、そういう責任ある地位にある人の要の部分なんでしょうけれども。
さて、今日は快晴で洗濯日和。ということは、かなり乾燥している…。日曜日まで続くとのことですから、いいような悪いような…。
今朝、天気予報を見ていますと、「朝、既に湿度40%」なんて出ていました。それがお昼には20%くらいまで行くそうで、風邪引きさんが、またまた続出しそうな様子になっています。何といっても、まだ何人か、どうしても「靴下を穿かない」さんがいるようですから。
一冬を越さないことには、「靴下の必然性」がわからないようで、今でも裸足につっかけみたいな恰好で、しかも上だけは、ダウンに目だけ出すような帽子、そして手袋という重装備でやって来ます。「下でしょ。下でしょ。靴下を穿きなさい。つっかけ、ペタペタはだめ」と、学校に来た時、そして帰る時、玄関で捕まえては、教員のだれかが言っています。
とはいえ、やはり「一冬」を経験したことがあるかどうかで決まるというのが実情のようです。いうだけ無駄なようなのですが。「靴下を穿く気持ち悪さ」が勝つか、「寒い、たまらん」というのが勝つかというところなのでしょう。頑固な「靴下穿かない」派が、やっと穿いてきた時には、ほっとしてしてしまうのですが、なかなかこういう気持ちは彼らにはわからないようです。
一昨日、一人のベトナム人学生が、耳が痛いとやって来ました。彼はほとんど日本語がわかりません。そして私たちもベトナム語がわかりません。彼が来た意味は、「どうしたらいいか、病院へ行きたい」だったのでしょうが、私たちは病院へ連れて行けたとしても、医者の言葉を彼に伝える術もありませんし、彼の返答を医者に伝えることもできません。それで、だれか寮の先輩に連れて行ってもらうように言ったのですが、それを通訳していたベトナム人女子学生は、それ(連れていくという手間)を嫌がります(彼も彼女には頼みたくなさそうでしたけれども)。
もっとも彼女はそういうこと(手助け)を迷惑と感じるタイプのようで、私たちにしても、彼女に言っても無駄だということはわかっていたのです。で、彼女に一応言うだけは言ってみながら、腹では、だれがいいかななんて考えていました。
そして、昨日のこと。ちょうど遅れてやって来た彼の学生(耳が痛いと言っていた)に話していたところに、親切な、いつものベトナム人男子が通りかかりました(彼は私たちの頼み事だけでなく、他の人の面倒もよく見てくれます)。それで、どうして私たちが彼を病院に連れて行けないかを、まず通訳してもらいました。
なぜかと言いますと、この耳が痛いと言ってやって来た学生、どうも、私たちが親切でなくて連れていってくれないように思っている節があったのです。私たちにしてみれば、「連れていくことはできるが、連れていっても無駄だから(何もできないから)連れていかない」ということなのですが、彼には、連れていく前に、そのことが想像できないのです。
これは彼だけではなく、また、ベトナム人だけというわけでもなく、どこの国の人にも、まま見受けられることなのですが。私の経験では、中国にいる時にも、こういうことはありました。「連れていっても何の役にも立てないから」と言っても、なかなかわかってくれず、無駄でも連れて行ってやるということが「いい人の証」になるのだと思い知らされたことが、少なからず、あったのです。
後で、「あの人は連れて行ってくれたけれども、彼女は連れて行ってくれなかった」と蔭でこき下ろされたり…。暇だったらやってもいいのですが、どうせ暇なのですから(無駄足になると言うことがわかっていても、それで気持ちが収まるのなら)。けれども、忙しい時にその、何の成果も上げられないということがわかっているようなことに手を出す気持ちにはなれません。特に、病院などは、言葉がわからなければどうにもならないのです。…けれども、彼らにとっては、こういう、いわゆる「無駄足」一手間が大切なのでしょう。
で、それが終わってから、病院に彼を連れて行ってやってくれないかと頼んだところ、この先輩学生、水曜日はアルバイトの始まりが遅いので、朝の授業が終わってから連れていってやってもいいと言ってくれたのです。
彼のように(ベトナム人学生でも)、来日後、一生懸命勉強してきた、二、三人の学生には、こういう頼み事ができるのですが、彼らが卒業してからあと、どうなるか。ちょっとに思い浮かばないですね。今の(ベトナム人学生の)一年生に、彼らのような学生がいるかな…。
その点、スリランカの学生達は、私たちが気づく前に、彼らで何とかしてくれていますから、終わってしまってから、「えっ、医者に行ったのか」と感じることも多いのですが。ベトナム人学生は、そういう意味での助け合い(テストの時の助け合いは、禁じても、禁じてもやるくせに)は、あまりしないようですね。
私たちから見ると、今の二年生の、あるベトナム人学生たち(もちろん、二、三人だけですが)のように、「先生、大丈夫。私が連れて行くから」と言ってくれる人は、多分、日本でも(どこの国でも)大丈夫と思われ、いくら自分で勉強ができる、大したものだと思い込んでいる学生でも、こういうことができないようでは、日本でも(どこの国でも)うまくいかないだろうなと思われるのですけれども。
日々是好日
紅葉の頃もそうなのですが、時々自然は、厳しく人に対するだけでなく、このような姿も見せてくれます。というわけで、人は、地震や台風、大雪、洪水などの頻発する、この地にも、居続けることができるのでしょう。それどころか、居続けたいと願うのかもしれません。
あのような津波に呑み込まれた「地」にさえ、人は出来るならば直ぐにでも帰りたいと願うのですもの。我が故郷であっても、それは同じこと。日本のみならず、世界のどの地であっても、人の、故郷を想う気持ちは同じでしょう。つまり、「帰りたい、どのようなことがあっても」なのです。科学が発展してくると、その万人共通の願いが叶えられないような状況が、時には作り出されてしまいます。それが、何とも切ない。他人事ではないのです、明日は我が身。それを常に忘れずに人のために尽くせるか、公僕たる身を忘れずにいられるかが、そういう責任ある地位にある人の要の部分なんでしょうけれども。
さて、今日は快晴で洗濯日和。ということは、かなり乾燥している…。日曜日まで続くとのことですから、いいような悪いような…。
今朝、天気予報を見ていますと、「朝、既に湿度40%」なんて出ていました。それがお昼には20%くらいまで行くそうで、風邪引きさんが、またまた続出しそうな様子になっています。何といっても、まだ何人か、どうしても「靴下を穿かない」さんがいるようですから。
一冬を越さないことには、「靴下の必然性」がわからないようで、今でも裸足につっかけみたいな恰好で、しかも上だけは、ダウンに目だけ出すような帽子、そして手袋という重装備でやって来ます。「下でしょ。下でしょ。靴下を穿きなさい。つっかけ、ペタペタはだめ」と、学校に来た時、そして帰る時、玄関で捕まえては、教員のだれかが言っています。
とはいえ、やはり「一冬」を経験したことがあるかどうかで決まるというのが実情のようです。いうだけ無駄なようなのですが。「靴下を穿く気持ち悪さ」が勝つか、「寒い、たまらん」というのが勝つかというところなのでしょう。頑固な「靴下穿かない」派が、やっと穿いてきた時には、ほっとしてしてしまうのですが、なかなかこういう気持ちは彼らにはわからないようです。
一昨日、一人のベトナム人学生が、耳が痛いとやって来ました。彼はほとんど日本語がわかりません。そして私たちもベトナム語がわかりません。彼が来た意味は、「どうしたらいいか、病院へ行きたい」だったのでしょうが、私たちは病院へ連れて行けたとしても、医者の言葉を彼に伝える術もありませんし、彼の返答を医者に伝えることもできません。それで、だれか寮の先輩に連れて行ってもらうように言ったのですが、それを通訳していたベトナム人女子学生は、それ(連れていくという手間)を嫌がります(彼も彼女には頼みたくなさそうでしたけれども)。
もっとも彼女はそういうこと(手助け)を迷惑と感じるタイプのようで、私たちにしても、彼女に言っても無駄だということはわかっていたのです。で、彼女に一応言うだけは言ってみながら、腹では、だれがいいかななんて考えていました。
そして、昨日のこと。ちょうど遅れてやって来た彼の学生(耳が痛いと言っていた)に話していたところに、親切な、いつものベトナム人男子が通りかかりました(彼は私たちの頼み事だけでなく、他の人の面倒もよく見てくれます)。それで、どうして私たちが彼を病院に連れて行けないかを、まず通訳してもらいました。
なぜかと言いますと、この耳が痛いと言ってやって来た学生、どうも、私たちが親切でなくて連れていってくれないように思っている節があったのです。私たちにしてみれば、「連れていくことはできるが、連れていっても無駄だから(何もできないから)連れていかない」ということなのですが、彼には、連れていく前に、そのことが想像できないのです。
これは彼だけではなく、また、ベトナム人だけというわけでもなく、どこの国の人にも、まま見受けられることなのですが。私の経験では、中国にいる時にも、こういうことはありました。「連れていっても何の役にも立てないから」と言っても、なかなかわかってくれず、無駄でも連れて行ってやるということが「いい人の証」になるのだと思い知らされたことが、少なからず、あったのです。
後で、「あの人は連れて行ってくれたけれども、彼女は連れて行ってくれなかった」と蔭でこき下ろされたり…。暇だったらやってもいいのですが、どうせ暇なのですから(無駄足になると言うことがわかっていても、それで気持ちが収まるのなら)。けれども、忙しい時にその、何の成果も上げられないということがわかっているようなことに手を出す気持ちにはなれません。特に、病院などは、言葉がわからなければどうにもならないのです。…けれども、彼らにとっては、こういう、いわゆる「無駄足」一手間が大切なのでしょう。
で、それが終わってから、病院に彼を連れて行ってやってくれないかと頼んだところ、この先輩学生、水曜日はアルバイトの始まりが遅いので、朝の授業が終わってから連れていってやってもいいと言ってくれたのです。
彼のように(ベトナム人学生でも)、来日後、一生懸命勉強してきた、二、三人の学生には、こういう頼み事ができるのですが、彼らが卒業してからあと、どうなるか。ちょっとに思い浮かばないですね。今の(ベトナム人学生の)一年生に、彼らのような学生がいるかな…。
その点、スリランカの学生達は、私たちが気づく前に、彼らで何とかしてくれていますから、終わってしまってから、「えっ、医者に行ったのか」と感じることも多いのですが。ベトナム人学生は、そういう意味での助け合い(テストの時の助け合いは、禁じても、禁じてもやるくせに)は、あまりしないようですね。
私たちから見ると、今の二年生の、あるベトナム人学生たち(もちろん、二、三人だけですが)のように、「先生、大丈夫。私が連れて行くから」と言ってくれる人は、多分、日本でも(どこの国でも)大丈夫と思われ、いくら自分で勉強ができる、大したものだと思い込んでいる学生でも、こういうことができないようでは、日本でも(どこの国でも)うまくいかないだろうなと思われるのですけれども。
日々是好日