今どきの花というと、「アジサイ(紫陽花)」の花が、すぐ脳裏に浮かぶのでしょうが、今のところ、まだまだ「ドクダミ」の方が幅をきかせています。このドクダミの花も、花だけ見れば、白い十字の可愛らしい形をしています。ところが、この「毒」という、名前の最初につけられた音です。これで随分損をしていますね。「この名、なかりせば」という想いを抱く向きもあるそうで、毒々しい雰囲気とは少々異なっています。とは言え、なにせドクダミはドクダミです。葉も少々赤みがかったところなど不気味でないこともないですし、それに、匂いのきつさなどを加味すれば、やはり、ドクダミはドクダミで、「咲いている」と言うよりも、「跋扈している」と言った方が似合ってしまうのです。
このほかにも、「ホタルブクロ」なども、梅雨を前にして、よく見かける野草です。先日、あるお宅の鉢植えに、今年も「ホタルブクロ」が咲いているのを見かけました。強い日差しに灼かれると、かわいそうになるほど、ぐったりとしてしまうのですが、それでも日が沈んだり、曇りや雨の日になると、またムクムクと甦ってくるのですから、生命力は強いのでしょう。
この花を見るとすぐに、初めて出会った時のことが思い出されます。「トトロの森」と言われる森へ友人達と行った時のことでした。まず惹かれたのは、その特異な形です。大きな袋の口を下に向けたようで、こびと達が、その中に蛍を入れて、カンテラ代わりに振り回しながら、夕闇の中を歩いている姿が、目にありありと浮かんだのです。
子ギツネや子狸が、帰りが遅くなった時に用いてもいいですね。『赤い手袋』の子ギツネが夏の初めに持っていたのも、これでしょうか。少し紫がかったのから、ピンクや白まで、例え、日溜まりにあろうとも、しっとりと濡れた山道を連想させてくれます。
さて、学校です。
この学校のように、常に、多くの異国の人たちを相手にしている処では、教え方にも、国民性というか、民族性とでも言った方がいいのでしょうか、それを肚に置いておかねば指導ができない事に気づかされます。
注意の仕方一つとってもそうです。私が中学校の現場(日本人相手です)にいる時も、もちろん、この生徒にはこう、あの生徒にはああいう指導の仕方をしなければならないという「個別の物差し」はありましたし、それ以外にも、生徒の「タイプ別」の注意の仕方というのもありました。
これは教育の現場だけではなく、会社であろうと、工場であろうと、どこであろうと同じだと思うのですが、時には、担任よりも第三者に頼んだほうが、受け入れやすいだろうと思われる生徒もいたのです(人間と人間との関係は、一方通行では解決しません。必ず双方向に感情乃至道理が通って初めて成立するのです。教員一人の、いわゆる「独りよがり」の判断や行動では、二者間に良好な関係が築けないことも、ままあるのです)。
現在、この六月の段階で、当校に在籍している学生は、計48名。それでいて、国の数は11ヶ国にのぼります。同じ国や同じ民族だけを教えていたり、ほとんどがある特定の国や民族というふうに偏っていれば、途端に教えやすくなる(個性や本人の資質の問題だと割り切ることができますから)のですが、この学校ではそういうわけにいかないのです。ですから、ある意味では、教員は「鍛え」られます。
一番上の「Aクラス」だけは、多少情況は異なります。このクラスは、今年の7月に「日本語能力試験」で「N1」を目指さねばなりませんから、どうしても、「漢字圏」の学生が多くなってしまいます。とはいえ、「非漢字圏」の学生でも、母国の大学で「二級」以上をとって来ている人は、このクラスで頑張ってもらうということになります。
ただ、それは、「漢字交じりの文章が困る」から、そうなっただけのことで、それ以外は、「漢字圏」であろうが「非漢字圏」であろうが大して問題はありません。国民性や民族性の違いで、少々困ることがあるくらいです。つまり、彼らの母国の習慣やそこで受けた教育の方法や内容が異なっているのです。人間というのは、つくづく社会的動物であると思います。その社会は自らが欲する人をその社会ぐるみで育てようとするのです。本人が如何にそれに反抗し、その影響は受けていないと思っていても、「育てられるべくして育てられている」としか言いようのない現実があるのです。そのように育てられてはいないと本人が思い、それをいくら力説しても、多文化のサラダボールに入れられてしまうと、途端に、違いが際だったりするのです。
さて、日本語の勉強の話に戻ります。
これまでも、「日本語能力試験」の「三級」までは、「漢字圏」であろうが「非漢字圏」であろうが、あまり関係はありませんでした。ある程度、本人の資質と勤勉さで補えたのです。漢字の数も知れていますし、多少書いたり読んだりする時の速度に差があるくらいでした。が、それも決められた試験時間で充分間に合いました。下手をすると、「非漢字圏」の学生のほうが「漢字圏」の学生よりも成績がよかったくらいです。
その下の「Bクラス」と「Cクラス」は、現在「N2」乃至「N3」を目指すということで、遅くに入ってきた「漢字圏」の学生たちと、コツコツと一つずつ漢字を覚えながら頑張って来た「非漢字圏」の学生たちが一緒に勉強しています。
それ故、「Bクラス」は、インド、ガーナ、カンボジアと三ヶ国、「Cクラス」は、中国、タイ、インド、ミャンマー、ネパール、スリランカ、タイ、フィリピンと八ヶ国、今年の四月に始まったばかりの「Dクラス」は六ヶ国と、人数の割りには国の数が多いのです。
「初級」の間は、国や民族の数が多くても、全く苦になりません。却って会話の授業など活発になって面白いくらいです。それに、宿題も、「ひらがな」、「カタカナ」、「漢字」を合わせて書いていくことが中心になっていますから、それなりに努力すれば報われます。
ところが、大変なのは「中級」です。本来ならば、この「中級」を二つに分けたいくらいで、「漢字圏」の学生達は、「ひらがな」や「カタカナ」の世界から解放されて、水を得た魚状態になりますし、一方、「非漢字圏」の学生達は、漢字の「読み書き」に終始し、文章を読むだの、文法を覚えるだのといったことは、頭のどっかへ追いやられてしまいます。また、実際問題として、「漢字」を覚えていないと、読めないのです。読めても意味が掴めないのです。日本語の文章は、三種類の文字を用いて構築されているのですが、その土台や梁や、一番大切な大黒柱が掴めないのです。
「非漢字圏」の学生たちには、初めのうちは、「会話」や「ヒアリング」の分量を多くし、後から「漢字の読み書き訓練」などを入れられたらいいのでしょうが、期限付き(在留期限)ですから、ゆっくりとはやっていられません。大学入試は待ってくれませんし、日本語学校で勉強できるのも、最長で、実質、一年半くらい(大学入試が始まってしまいます)ですから、勢い、欲張りなカリキュラムということになってしまいます。
しかしながら、この学校でコツコツと、(教師に)言われるままにやってきていた学生たちは、大学に入ってから「花開く」ことができるようです(卒業生が大学の奨学金の申請やらで学校に戻ってきた時にいろいろ話してくれるので、それがわかります)。「二級レベル」(どうしても、時間が足らないので、その上の勉強までは、ここでしてやることができなかったのです)で、大学に入っているわけですから、最初の一年間は、大変です。しかも、日本人ですら、かなり勉強していなければ入れない大学に合格してしまった学生はなおさらのことです。
「漢字圏」の学生でさえ、大学に入った後、「もう少し、この学校にいたかった。そして、もっと古典を教えてもらいたかった。そうしたら、大学の勉強が楽になっていたのに」と愚痴をこぼしていたくらいですから。もっとも、これも、彼らが「古典(漢文、古文)」のとば口くらいは、教えられてやれていたから言えるセリフであって、全く知らなければ、どこまでこの学校で学べるのかなんてわかりはしなかったでしょう。
おそらく、大半の日本語学校では、「上級」という「(外国人のための)日本語の教科書」で終わり、後は個人が頑張ればいいということになっているでしょうから。けれども、学校というのは、本人の資質と頑張り度などはもちろんですが、それ以外に、それを引き出せる教師陣の力、学校という組織の力があってこそのものなのです。つまり、教材の選択やら教師の能力やら教師間のチームワークやらが一緒になって、本人の能力以上のことをさせることができる場所であるからこそ、大枚の金をはたいて彼らは来ているのです。そのはずなのです。ところが、どうも、それをはき違えて、当校に来ている学生が少なくないように…感じられるのです(もっとも、これは卒業するまでわからないでしょう。他と比較して初めてわかることでしょうから。まあ、何でもそうでしょうが)。
私たちは学生に、私たちの言うとおりに努力するように要求するのですが、それも、教師側にその準備があるからこそなのです。自分達が「ふやけて」いて、学生達だけに要求を出しているのではありません。こういうことが、学びたいという欲求をもち、それに耐えられるだけの支援を与えることができる環境にある人に伝わるといいのですが。
昔は、お金がなくても、頑張ることができるという学生も日本へ来ていました。実際、頑張っていましたし、お金の足りない分は、奨学金を獲得してやるくらいの根性はありました。が、今は違います。学生たちは、経済的な支援がないままに来日すると、日本が如何にお金が必要な国であるかがわかった時から崩れてしまいます。
彼らの国と日本とでは物価も違いますし、物の量も違うのです。日本は物が溢れています。欲しいものは何でもあるかのように見えます。お菓子一つとってもそうです。きれいだし、おいしいのです。ところが、買おうにも、お金は圧倒的に足りないのです。そこで、キリリと自分を引き締めることができればいいのですが、その訓練ができていない人もいないわけではないのです。
彼らは、話したり、態度を見ているかぎり、「いい子」たちです。けれども、日本のように四六時中、何でも買えると言う国の魔力に勝てるようにはできていないのです。親がそばにいる時は、自分を抑えることはできても、異国で一人暮らしをするとなると、母国にいる時のようにはいきません。
最初に、ある程度の経済的な余裕があれば、二三ヶ月くらいで、日本の物価や人の様子なども見えてきますし、同じクラスの学生たちの様子などもわかりますから、皆と同じように我慢したり、無駄遣いをしなくなるものです。目的意識さえしっかりしていれば、私たちの方でも指導はできます。けれども、お金もない、目的意識もさほどないの「ないない尽くし」であったなら、外から何を言おうと何の役にも立ちません。
世界にはたくさんの国や民族がいます。この学校にいる学生たちも、皆、それぞれの国や民族の歴史や文化を背負って生きているのです。最初さえ、頑張れれば、皆も頑張っているのです。大丈夫でしょう。
日々是好日
このほかにも、「ホタルブクロ」なども、梅雨を前にして、よく見かける野草です。先日、あるお宅の鉢植えに、今年も「ホタルブクロ」が咲いているのを見かけました。強い日差しに灼かれると、かわいそうになるほど、ぐったりとしてしまうのですが、それでも日が沈んだり、曇りや雨の日になると、またムクムクと甦ってくるのですから、生命力は強いのでしょう。
この花を見るとすぐに、初めて出会った時のことが思い出されます。「トトロの森」と言われる森へ友人達と行った時のことでした。まず惹かれたのは、その特異な形です。大きな袋の口を下に向けたようで、こびと達が、その中に蛍を入れて、カンテラ代わりに振り回しながら、夕闇の中を歩いている姿が、目にありありと浮かんだのです。
子ギツネや子狸が、帰りが遅くなった時に用いてもいいですね。『赤い手袋』の子ギツネが夏の初めに持っていたのも、これでしょうか。少し紫がかったのから、ピンクや白まで、例え、日溜まりにあろうとも、しっとりと濡れた山道を連想させてくれます。
さて、学校です。
この学校のように、常に、多くの異国の人たちを相手にしている処では、教え方にも、国民性というか、民族性とでも言った方がいいのでしょうか、それを肚に置いておかねば指導ができない事に気づかされます。
注意の仕方一つとってもそうです。私が中学校の現場(日本人相手です)にいる時も、もちろん、この生徒にはこう、あの生徒にはああいう指導の仕方をしなければならないという「個別の物差し」はありましたし、それ以外にも、生徒の「タイプ別」の注意の仕方というのもありました。
これは教育の現場だけではなく、会社であろうと、工場であろうと、どこであろうと同じだと思うのですが、時には、担任よりも第三者に頼んだほうが、受け入れやすいだろうと思われる生徒もいたのです(人間と人間との関係は、一方通行では解決しません。必ず双方向に感情乃至道理が通って初めて成立するのです。教員一人の、いわゆる「独りよがり」の判断や行動では、二者間に良好な関係が築けないことも、ままあるのです)。
現在、この六月の段階で、当校に在籍している学生は、計48名。それでいて、国の数は11ヶ国にのぼります。同じ国や同じ民族だけを教えていたり、ほとんどがある特定の国や民族というふうに偏っていれば、途端に教えやすくなる(個性や本人の資質の問題だと割り切ることができますから)のですが、この学校ではそういうわけにいかないのです。ですから、ある意味では、教員は「鍛え」られます。
一番上の「Aクラス」だけは、多少情況は異なります。このクラスは、今年の7月に「日本語能力試験」で「N1」を目指さねばなりませんから、どうしても、「漢字圏」の学生が多くなってしまいます。とはいえ、「非漢字圏」の学生でも、母国の大学で「二級」以上をとって来ている人は、このクラスで頑張ってもらうということになります。
ただ、それは、「漢字交じりの文章が困る」から、そうなっただけのことで、それ以外は、「漢字圏」であろうが「非漢字圏」であろうが大して問題はありません。国民性や民族性の違いで、少々困ることがあるくらいです。つまり、彼らの母国の習慣やそこで受けた教育の方法や内容が異なっているのです。人間というのは、つくづく社会的動物であると思います。その社会は自らが欲する人をその社会ぐるみで育てようとするのです。本人が如何にそれに反抗し、その影響は受けていないと思っていても、「育てられるべくして育てられている」としか言いようのない現実があるのです。そのように育てられてはいないと本人が思い、それをいくら力説しても、多文化のサラダボールに入れられてしまうと、途端に、違いが際だったりするのです。
さて、日本語の勉強の話に戻ります。
これまでも、「日本語能力試験」の「三級」までは、「漢字圏」であろうが「非漢字圏」であろうが、あまり関係はありませんでした。ある程度、本人の資質と勤勉さで補えたのです。漢字の数も知れていますし、多少書いたり読んだりする時の速度に差があるくらいでした。が、それも決められた試験時間で充分間に合いました。下手をすると、「非漢字圏」の学生のほうが「漢字圏」の学生よりも成績がよかったくらいです。
その下の「Bクラス」と「Cクラス」は、現在「N2」乃至「N3」を目指すということで、遅くに入ってきた「漢字圏」の学生たちと、コツコツと一つずつ漢字を覚えながら頑張って来た「非漢字圏」の学生たちが一緒に勉強しています。
それ故、「Bクラス」は、インド、ガーナ、カンボジアと三ヶ国、「Cクラス」は、中国、タイ、インド、ミャンマー、ネパール、スリランカ、タイ、フィリピンと八ヶ国、今年の四月に始まったばかりの「Dクラス」は六ヶ国と、人数の割りには国の数が多いのです。
「初級」の間は、国や民族の数が多くても、全く苦になりません。却って会話の授業など活発になって面白いくらいです。それに、宿題も、「ひらがな」、「カタカナ」、「漢字」を合わせて書いていくことが中心になっていますから、それなりに努力すれば報われます。
ところが、大変なのは「中級」です。本来ならば、この「中級」を二つに分けたいくらいで、「漢字圏」の学生達は、「ひらがな」や「カタカナ」の世界から解放されて、水を得た魚状態になりますし、一方、「非漢字圏」の学生達は、漢字の「読み書き」に終始し、文章を読むだの、文法を覚えるだのといったことは、頭のどっかへ追いやられてしまいます。また、実際問題として、「漢字」を覚えていないと、読めないのです。読めても意味が掴めないのです。日本語の文章は、三種類の文字を用いて構築されているのですが、その土台や梁や、一番大切な大黒柱が掴めないのです。
「非漢字圏」の学生たちには、初めのうちは、「会話」や「ヒアリング」の分量を多くし、後から「漢字の読み書き訓練」などを入れられたらいいのでしょうが、期限付き(在留期限)ですから、ゆっくりとはやっていられません。大学入試は待ってくれませんし、日本語学校で勉強できるのも、最長で、実質、一年半くらい(大学入試が始まってしまいます)ですから、勢い、欲張りなカリキュラムということになってしまいます。
しかしながら、この学校でコツコツと、(教師に)言われるままにやってきていた学生たちは、大学に入ってから「花開く」ことができるようです(卒業生が大学の奨学金の申請やらで学校に戻ってきた時にいろいろ話してくれるので、それがわかります)。「二級レベル」(どうしても、時間が足らないので、その上の勉強までは、ここでしてやることができなかったのです)で、大学に入っているわけですから、最初の一年間は、大変です。しかも、日本人ですら、かなり勉強していなければ入れない大学に合格してしまった学生はなおさらのことです。
「漢字圏」の学生でさえ、大学に入った後、「もう少し、この学校にいたかった。そして、もっと古典を教えてもらいたかった。そうしたら、大学の勉強が楽になっていたのに」と愚痴をこぼしていたくらいですから。もっとも、これも、彼らが「古典(漢文、古文)」のとば口くらいは、教えられてやれていたから言えるセリフであって、全く知らなければ、どこまでこの学校で学べるのかなんてわかりはしなかったでしょう。
おそらく、大半の日本語学校では、「上級」という「(外国人のための)日本語の教科書」で終わり、後は個人が頑張ればいいということになっているでしょうから。けれども、学校というのは、本人の資質と頑張り度などはもちろんですが、それ以外に、それを引き出せる教師陣の力、学校という組織の力があってこそのものなのです。つまり、教材の選択やら教師の能力やら教師間のチームワークやらが一緒になって、本人の能力以上のことをさせることができる場所であるからこそ、大枚の金をはたいて彼らは来ているのです。そのはずなのです。ところが、どうも、それをはき違えて、当校に来ている学生が少なくないように…感じられるのです(もっとも、これは卒業するまでわからないでしょう。他と比較して初めてわかることでしょうから。まあ、何でもそうでしょうが)。
私たちは学生に、私たちの言うとおりに努力するように要求するのですが、それも、教師側にその準備があるからこそなのです。自分達が「ふやけて」いて、学生達だけに要求を出しているのではありません。こういうことが、学びたいという欲求をもち、それに耐えられるだけの支援を与えることができる環境にある人に伝わるといいのですが。
昔は、お金がなくても、頑張ることができるという学生も日本へ来ていました。実際、頑張っていましたし、お金の足りない分は、奨学金を獲得してやるくらいの根性はありました。が、今は違います。学生たちは、経済的な支援がないままに来日すると、日本が如何にお金が必要な国であるかがわかった時から崩れてしまいます。
彼らの国と日本とでは物価も違いますし、物の量も違うのです。日本は物が溢れています。欲しいものは何でもあるかのように見えます。お菓子一つとってもそうです。きれいだし、おいしいのです。ところが、買おうにも、お金は圧倒的に足りないのです。そこで、キリリと自分を引き締めることができればいいのですが、その訓練ができていない人もいないわけではないのです。
彼らは、話したり、態度を見ているかぎり、「いい子」たちです。けれども、日本のように四六時中、何でも買えると言う国の魔力に勝てるようにはできていないのです。親がそばにいる時は、自分を抑えることはできても、異国で一人暮らしをするとなると、母国にいる時のようにはいきません。
最初に、ある程度の経済的な余裕があれば、二三ヶ月くらいで、日本の物価や人の様子なども見えてきますし、同じクラスの学生たちの様子などもわかりますから、皆と同じように我慢したり、無駄遣いをしなくなるものです。目的意識さえしっかりしていれば、私たちの方でも指導はできます。けれども、お金もない、目的意識もさほどないの「ないない尽くし」であったなら、外から何を言おうと何の役にも立ちません。
世界にはたくさんの国や民族がいます。この学校にいる学生たちも、皆、それぞれの国や民族の歴史や文化を背負って生きているのです。最初さえ、頑張れれば、皆も頑張っているのです。大丈夫でしょう。
日々是好日