ぐうたら里山記

兵庫の西の端でただのほんと田舎暮らしをしています。ぐうたらです。のん兵衛です。

ルバイヤート

2018年11月26日 18時05分15秒 | 本の中から
ルバイヤートを読んだ。
古代ペルシャの詩人オマルハイヤームのルバイヤートを。
黒柳恒男訳のルバイヤートで。

ルバイヤートは愛読書だった。
昔々何度も何度も読んだ。
岩波文庫版、小川亮作訳のルバイヤートを。

そのうちのいくつかを歌にもした。
シューベルト真っ青の歌に。
でも作曲の才能はあるものの残念ながら楽譜に移す技術がない。
というわけで今でもこれらの(世紀の!)名曲はただこの頭の中にあるだけ・・・
(紹介できないのが残念です!)

まあそんなことはさておいて、ルバイヤートの話。
このまえ久々に読んだ。
黒柳恒男訳のルバイヤートを。
小川亮作訳とはずいぶん違う。
多分黒柳恒男訳の方が原作に忠実なのだろう。
小川亮作訳は珍しく韻を踏んでいて、読んでとっても心地よい。
黒柳恒男訳ではそんな心地よさはあまり感じられなかった。

 川の岸辺に生え出でたあの草の葉は
 美女の唇から芽を吹いた溜め息か。
 一茎の草でも蔑んで踏んではならぬ、
 そのかみの乙女の身から咲いた花。

これが黒柳恒男訳では次のようになっている。

 小川のほとりに生えた若草
 天女の唇から生えたよう。
 心なくその若草を踏みつけるな、
 それこそ美女の土から生えた若草。

この二つの訳詩を比べると、小川亮作訳の方がとっても心地よい。
原詩に忠実かどうか、そんなことはどうでもいい。
ただ原詩の心を伝えているかどうかが大切なのだ。
もう一詩をあげよう

 若き日の絵巻は早も閉じてしまった。
 命の春はいつのまにか暮れてしまった。
 青春いう命の季節は、いつ来て
 いつ去るともなしに、過ぎてしまった。

黒柳恒男訳では

 ああ、青春の書(ふみ)は閉じた、
 人生の愉しい春も過ぎてしまった。
 青春という歓びの鳥よ、
 ああ、いつ来て、いつ飛び去たったのか。

きっと黒柳恒男訳詩が原詩に忠実なのだろう。
でもそれがいい訳とは言えない。
いかに原詩の心を伝えるか・・・それを伝えることができたのがきっと名訳なのだろう。

昔は訳詩というと、きまって七五調だった。
あのハイネの名詩を七五調で読まされて、まったくうんざりさせられた!
少しもハイネの心が伝わってこないのだ。
でもハイネの詩はシューベルトやとりわえシューマンを通して、あの詩のすばらしさを感じることはできる。
でも万国共通語の歌を通して聞くことができなかったら、どうして他国の言語の詩を理解できるだろうか?

黒柳恒男訳詩を自分なりに意訳してみた。

(続く)
コメント
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