モンテーニュの「エセー」を読んだ。
昔読んだときは引用の多さにすっかりうんざりしたけど・・・
それは今度も昔ほどでなくても同じだったけど・・・
それでもモンテーニュの話の進め方に・・・
短い挿話をつなげて世間話風に話を続けていく・・・
そんな話の進め方に・・・
今では何かしら魅かれた。
各章に一応テーマはあるものの、必ずしもそれに忠実ではなく自由に話はすすむ。
ここらへんが昔はなじまなかった。
どうやら「エセー」は最初から最後まで続けて気合を入れて読む本ではなく。
枕もとにおいて、気ままに読む本らしい。
モンテーニュは30年近くもかけて「エセー」を書いているので、1巻から3巻にかけて文体はずいぶん変わっている。
第3巻は引用も少なく自分の言葉で語っている。
第3巻の1章の文章も他の巻に比べて長い。
第3巻がなかったら、きっと「エセー」はフランスの片田舎の教養ある人が書いた作品として、
フランス文学には残るかもしれないけど、世界文学に選ばれることはなかっただろう。
ともあれ「エセー」を読んだ。
そしてそのあとでもやっぱりモンテーニュはよくわからない。
きっと誰でもモンテーニュの人柄についてこんな風に思ってるだろう。
常識人、良識人、個人主義、中庸の人、自然主義者、市民。
このどれにも当てはまるようでどれにも当てはまらないような気がする。
一言でいえば自由人なのだ。
モンテーニュは領主、それも封建時代の領主、殿様なので「市民」という言葉は当てはまらないかもしれないけど、その立つ位置は「市民」を思わせる。
それも田舎で隠遁暮らしをする偏屈な人間ではなく、田舎暮らしを楽しむ都会の市民を思わせる。
もちろん100人くらいの使用人を使いブドウ園を経営する。
それは「田舎暮らし」ではなく「仕事」なのだけど、エセーにはあまり仕事を感じさせない。
モンテーニュは21歳で高等法院の裁判官になる。
37歳で裁判官の仕事を辞めて、自分の城で田舎暮らしを始め、39歳のころからエセーを書き始める。
途中選ばれて2期ボルドーの市長をちゃんと務めた。
モンテーニュは日本では織田信長の時代だった。
そして当時フランスでも激動の時代だった。
カトリックとプロテスタントの血みどろの戦いをしてた時代だった。
ある時などは敵が偽り「敵に襲われた、たすけてくれ!」とモンテーニュの城にやってきた。
それを許すと、今度は次々に兵士が合流してくる。
モンテーニュの城はあわや乗っ取られる寸前になった。
そんな危機をモンテーニュは乗り越えた。
そしてあっさりとかわす。
誠意をもって話したらみんな引き上げていった。
「きっと自分の顔が良かったのだろう」と。
またある時は、ヨーロッパ中ペストに襲われた。
モンテーニュも自分の城を放棄せずにはいられなくなって、一族郎党引き連れてあちこちさまよった。
ところがあれほどかってみんなを歓待して泊めてあげたのに誰も泊めようとはしない。
こんな立場に立たされて苦しい状況が、他の所では書いていないだけに、その悲惨さが伝わってくる。
でもそこでもモンテーニュはやっぱりモンテーニュ。
デフォーみたいに「ペスト」の悲惨な状況のルポルタージュの報告をしない。
デフォーのスタンスはジャーナリスト。
でもモンテーニュはジャーナリストではなくエッセイスト。
いつも自分の壁を通して向うを見ている。
戦乱の世も鴨長明みたいには見ない。
自分というオブラートをかけて世の中を見る。
どちらかというとモンテーニュは鴨長明よりも吉田兼好に近いだろう。
そしてこんな大変な時に、ほとんどの市長は1期だけだったのに2期も務めた。
その手腕は大したものだっただろうけど、もちろんエセーにはそんな自慢話は書かれていない。
エセーを読む限りモンテーニュは政治的な人間とはとうてい思えない。
モンテーニュの興味はいつもモンテーニュ。
エセーは自分のことばかり書いているから。
・・・なんて考えだしたらますますモンテーニュがわからない。
わからないながらもなんとか読み、何とか読み終えた。
そして思うのだ。
今の時代モンテーニュを読む価値があるの?読むなくてもいいんじゃない?
なんて、もしかしたらみんな思ってない?
いえいえそれどころか、それ以前の以前の問題、
モンテーニュって誰?聞いたことないなぁ~、知らなぁ~~~い!
なんて思うのではなく、でもやっぱり思う、やっぱり言いたい!
モンテーニュを読んでみたら?
時間がなかったら全部読む必要はないよ、
せめて第3巻だけでも・・・
そんな時間さえない人だったら、せめて第3巻の最後の章、13章だけでも・・・
するとふと思うに違いない。
人って何?
自分って何?
駆け足の人生の中で、ふと一息ついて、自分に返って、
そんなことを感じるのもいいことじゃない?
昔読んだときは引用の多さにすっかりうんざりしたけど・・・
それは今度も昔ほどでなくても同じだったけど・・・
それでもモンテーニュの話の進め方に・・・
短い挿話をつなげて世間話風に話を続けていく・・・
そんな話の進め方に・・・
今では何かしら魅かれた。
各章に一応テーマはあるものの、必ずしもそれに忠実ではなく自由に話はすすむ。
ここらへんが昔はなじまなかった。
どうやら「エセー」は最初から最後まで続けて気合を入れて読む本ではなく。
枕もとにおいて、気ままに読む本らしい。
モンテーニュは30年近くもかけて「エセー」を書いているので、1巻から3巻にかけて文体はずいぶん変わっている。
第3巻は引用も少なく自分の言葉で語っている。
第3巻の1章の文章も他の巻に比べて長い。
第3巻がなかったら、きっと「エセー」はフランスの片田舎の教養ある人が書いた作品として、
フランス文学には残るかもしれないけど、世界文学に選ばれることはなかっただろう。
ともあれ「エセー」を読んだ。
そしてそのあとでもやっぱりモンテーニュはよくわからない。
きっと誰でもモンテーニュの人柄についてこんな風に思ってるだろう。
常識人、良識人、個人主義、中庸の人、自然主義者、市民。
このどれにも当てはまるようでどれにも当てはまらないような気がする。
一言でいえば自由人なのだ。
モンテーニュは領主、それも封建時代の領主、殿様なので「市民」という言葉は当てはまらないかもしれないけど、その立つ位置は「市民」を思わせる。
それも田舎で隠遁暮らしをする偏屈な人間ではなく、田舎暮らしを楽しむ都会の市民を思わせる。
もちろん100人くらいの使用人を使いブドウ園を経営する。
それは「田舎暮らし」ではなく「仕事」なのだけど、エセーにはあまり仕事を感じさせない。
モンテーニュは21歳で高等法院の裁判官になる。
37歳で裁判官の仕事を辞めて、自分の城で田舎暮らしを始め、39歳のころからエセーを書き始める。
途中選ばれて2期ボルドーの市長をちゃんと務めた。
モンテーニュは日本では織田信長の時代だった。
そして当時フランスでも激動の時代だった。
カトリックとプロテスタントの血みどろの戦いをしてた時代だった。
ある時などは敵が偽り「敵に襲われた、たすけてくれ!」とモンテーニュの城にやってきた。
それを許すと、今度は次々に兵士が合流してくる。
モンテーニュの城はあわや乗っ取られる寸前になった。
そんな危機をモンテーニュは乗り越えた。
そしてあっさりとかわす。
誠意をもって話したらみんな引き上げていった。
「きっと自分の顔が良かったのだろう」と。
またある時は、ヨーロッパ中ペストに襲われた。
モンテーニュも自分の城を放棄せずにはいられなくなって、一族郎党引き連れてあちこちさまよった。
ところがあれほどかってみんなを歓待して泊めてあげたのに誰も泊めようとはしない。
こんな立場に立たされて苦しい状況が、他の所では書いていないだけに、その悲惨さが伝わってくる。
でもそこでもモンテーニュはやっぱりモンテーニュ。
デフォーみたいに「ペスト」の悲惨な状況のルポルタージュの報告をしない。
デフォーのスタンスはジャーナリスト。
でもモンテーニュはジャーナリストではなくエッセイスト。
いつも自分の壁を通して向うを見ている。
戦乱の世も鴨長明みたいには見ない。
自分というオブラートをかけて世の中を見る。
どちらかというとモンテーニュは鴨長明よりも吉田兼好に近いだろう。
そしてこんな大変な時に、ほとんどの市長は1期だけだったのに2期も務めた。
その手腕は大したものだっただろうけど、もちろんエセーにはそんな自慢話は書かれていない。
エセーを読む限りモンテーニュは政治的な人間とはとうてい思えない。
モンテーニュの興味はいつもモンテーニュ。
エセーは自分のことばかり書いているから。
・・・なんて考えだしたらますますモンテーニュがわからない。
わからないながらもなんとか読み、何とか読み終えた。
そして思うのだ。
今の時代モンテーニュを読む価値があるの?読むなくてもいいんじゃない?
なんて、もしかしたらみんな思ってない?
いえいえそれどころか、それ以前の以前の問題、
モンテーニュって誰?聞いたことないなぁ~、知らなぁ~~~い!
なんて思うのではなく、でもやっぱり思う、やっぱり言いたい!
モンテーニュを読んでみたら?
時間がなかったら全部読む必要はないよ、
せめて第3巻だけでも・・・
そんな時間さえない人だったら、せめて第3巻の最後の章、13章だけでも・・・
するとふと思うに違いない。
人って何?
自分って何?
駆け足の人生の中で、ふと一息ついて、自分に返って、
そんなことを感じるのもいいことじゃない?