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イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「私の旧約聖書」読了

2018年12月05日 | 2018読書
色川武大 「私の旧約聖書」読了

著者は、阿佐田哲也というペンネームで、「麻雀放浪期」を書いた人である。この本は本名で書かれている。ちなみにペンネームの由来は、麻雀をやってて夜が明けてくると、「朝だ、徹夜だ。」とよく言っていたというところかららしい。

およそ信仰からは程遠いギャンブルの世界で名を成したひとからみる旧約聖書とはいったいどんなものであったのかという興味で手に取ってみた。

大部分はモーセ以降、再びイスラエルの民がカナンの地を追われるまでについていろいろ書かれている。
僕みたいな凡人は、聖書の中の登場人物は、そういう人なのだからそういう人なのだとしか思わなくて、プロファイリングみたいなことをしようなんて考えたこともなかったけれども、著者はまず、モーセというひとはどんな性格の人であったのだろうかというところからはじめている。

モーセはエジプトで奴隷にされていたイスラエル人のひとりだが、赤ちゃんの頃川に捨てられたところを王の娘に拾われて、そこで大きくなった。だから創世記に出てくる人々とは少しタイプを異にしている。善意の人であり、品格も高く、個人のスケールの中ではまことに申し分のない一生を送ることのできる人であったけれども、それだけに、自分の手に余る大きな事に対しては、内向的、傍観的になってしまう。
いわゆるナルシストだ。自分のバランスが崩れることを極端に嫌がり、自分の美意識の枠に入りきらないようなことにはしり込みしてしまう。
と分析している。

そんなモーセの前に神エホヴァが現れて、「私はお前の神である。民を率いてイスラエルへ戻れ。そこで幸せにしてやるからずっと私を奉り続けろ。」と言われてもなんでその役が僕なの??みたいな感じで、なかなかそれを受け入れることができないのだ。自分の中にはすでに自分の考えがあるのだから。

そして、イスラエルの地を得た民はそこで何世代も続いてゆくのだが、およそ神が必要なときは危機が訪れるときで、食べ物が豊富にあるときや敵が襲ってこないときは民も神様を崇めることを怠けるようになる。そうなると神様は困るのである。だからイスラエルの民をいじめて、やっぱり神様はいいだろうと再び崇めさせるように仕向ける。旧約聖書の列王記という項目にはひたすらその繰り返しが書かれているそうだ。

そういう物語のなかに著者は何を見たのか。筆者も小さい頃のコンプレックスからやはり自分の中に神を持ってしまった。そうなると他者との距離がどんどん遠くなる。集団の世界に入れなくなる。モーセは神の指示に従ってイスラエルを目指すわけだけれども、その葛藤はいかほどのものだっただろうかと、こういう見解になる。やはり自分ならモーセ以上にしり込みしてしり込みしてしまうのではないかと。

そして著者はひょんなことからギャンブルの世界に入り込むのであるが、ギャンブルは場が終わるごとにシャッフルしてカードが配りなおされる。それを列王記になぞらえている。
そこのところは勝負事にはまったくわからないのだが、著者がモーゼになぞらえている部分はこれはぼく自身のことでもあるのではないだろうかと思えてくるのである。

だから世間とうまく折り合いをつけることができないのだ・・・。

水軒沖釣行

2018年12月04日 | 2018釣り
場所:水軒沖
条件:中潮4:19満潮 10:03干潮
釣果:コウイカ 2匹 ヒラメ 1匹

数日前からの天気予報では今日は雨であったが、少しづつ朝のうちの雨模様が無くなってきた。
これは釣りに行けるぞ。しかし、南風が強いそうだ。

朝の天気予報では春一番が吹くような気圧配置だと言っていた。



ここは無理をせずに今日はコウイカ狙いとした。コウイカも今年はまだまともに行けていない。調査にはちょうど良い。

夜明け前の空は三日月と金星のランデブーだ。



この写真を撮る直前、流れ星がひとつ空をかすめた。何かいいことがおこってくれるだろうか・・・。

一文字の切れ目を抜ける前は南からの風が弱く吹いていたけれども、抜けてしまうと今度は北東の風に変わった。そして波も高い。いったいどういう天気なのだ・・・。
いつものとおり新波止と沖の一文字の交差点付近からスタート。開始して間もなくアタリが出た。おお、これは流れ星のご利益か!!。と思いきや、そのあとが続かない。
ここを諦めて新々波止に沿って沖へ向かう。ここもなかなかアタリがない。この辺りのポイントは防波堤の元の切れ目あたりなのでそこを行ったり来たりしているとやっと次のアタリ。
アタリの直前に東のほうから天使のはしごが降りてきていた。



神様が降臨してくれたのか・・・。

それでもアタリが続かないので最後の砦の赤灯台の沖へ出張ってみた。
すぐにアタリがあったがバレてしまい、なんとかその辺りを一所懸命流してみるが痛恨の根掛かり。仕掛けはいつも1丁しか持って行かないので万事休すかと思ったが、幸運にもうまく外れた。その直後大きなアタリが出た。
これはイカではない。魚だ。緩めると間違いなく外れるので一気に仕掛けを巻き上げる。そのまま抜き上げるとヒラメだった。根掛かりが外れた瞬間のリアクションで食ってきたようだ。
これはうれしい外道だ。ブログの記録を調べてみると2008年の2月以来だ。なんとほぼ11年ぶりということになる。先代の翠勝丸のころだ。

空は晴れているのに雨が降ってきて、北の空には虹が出てきた。



これはきっとヒラメを授けてくれた神様が虹の橋から降臨してくれたに違いない・・。。

それからは南風が強くなってきた。新々波止の北側に回ってもやはり風を避けられない。なんとか5匹釣って叔父さんの家に持って行きたかったが午前9時で終了。
帰りの道中はかなりの南風の中を帰って来たのだが、まったく冬とは思えない天気だ。



午後から燃料補給に港に向かってソフトクリーム。



ほんとうに季節がワープしてしまった・・。







「そもそも島に進化あり 」読了

2018年12月03日 | 2018読書
川上和人 「そもそも島に進化あり 」読了

つい先日、NHKのドキュメンタリーで伊豆諸島にある孀婦岩を取り上げていた。あんなローソクみたいな岩礁と言ってもいいような島にも生物が住んでいて、生態系ができあがっている。鳥はまあ、わかるとして、植物やクモ、陸に住む貝までもそこには住んでいる。
この本を手に取ってみたのは、岩だけの無人島にどんなプロセスを経て生態系ができあがってゆくのかということをもう少し詳しく知ることができるのではないだろうかということであった。

著者は鳥類学者であるけれども、島嶼地域に住む鳥類を主に研究している。その観点から無生物の島にどうやって生物が定着していくのかということを解説しているのだが、結果からいうと、それほど目新しいものではなかった。

植物の種は鳥が食べたものが糞となって島に落ちるか、または口にくわえて、羽根にくっついて落とされる。風に乗ってやってくるものもある。土壌は島の岩石が風化し、それに海鳥の糞や枯れた植物が混ざって出来上がる。動物たちも流木に乗ってやってきたり、同じく鳥の体にくっついてやってくる。クモはお尻から出した糸を風に吹かせて飛んでくる。

動物の進化についても同じで、天敵がいない島では小さな生物は大きくなる傾向があり、食物が少ない環境では大きな生物は小さくなる。そして鳥は飛ばなくなる。

こういったことはおりに触れて聞いたことがあるものばかりだった。唯一、へ~、っと思ったのは、植物も競合が少ない環境では花の色が地味になったり、大きさが小さくなったりするらしいということであった。鳥も花も本来の性能を維持するためにかなりのエネルギーを使い無理をしていたのだ。という、たったそれくらいであった。

著者もそれがわかっていたのか、まえがきでは、読書はギャンブルだ。本を買うために使ったお金と読むために要した時間に見合うだけの読後感を得られればあなたの勝利であり、そうでなければ敗北だと書いている。
そして、少しでもその読後感を盛り上げたいのか文章も奇をてらっている。僕のブログもそうなのだが、文章の内容とはまったくかけ離れている銀河英雄伝説や宇宙戦艦ヤマトなんかのエピソードを入れ込んで面白く見せようとすることが多々ある。
著者も同じく、ガンダムが出てきたりウルトラマンが出てきたり、はたまた南洋の孤島の海岸には人魚や美女が出てくる。しかし、東大卒だそうだ・・・。

だから文章としては素人並みじゃないかと突っ込みたくなってくるので今回のギャンブルは負けということになるんだろうね~。

しかしながら著者の研究は島嶼部の環境保全には重要なものになっている。ここでも人間が悪者になってしまうのだが、人間が持ち込んだ様々なもの、家畜、虫、作物、あるいは病原菌、ウイルス。そういったもので本来の島独特の環境が破壊されつつある。
まあ、人間も自然の一部とであるとするなら、人間がかかわって変わってゆく島の環境も自然の流れの一部であり、それぞれ独特の環境が失われていくというのはすべてエントロピーの法則に則っているわけだから仕方があるまいといえないわけではないが、それを防いだり、元に戻したりという作業も需要な仕事のひとつだそうだ。
そう思うとちゃんと世の中の役に立っている。まったく社会貢献のかけらもないぼくが文章としては素人並みじゃないかと突っ込んではいけないのかもしれない・・・。