ユヴァル・ノア・ハラリ 著/柴田裕之 訳 「サピエンス全史(下)文明の構造と人類の幸福」読了
下巻は帝国主義の始まりから始まる。
その帝国主義を支えるふたつの車輪が宗教と科学的探究心であるというのである。ここでいう宗教とは純粋な信仰の対象だけでなく、自由主義、社会主義というようなイデオロギーまでも含むという考え方が面白い。著者はそれさえも宗教の一種だという。
たしかに、イデオロギーというもの人間が勝手に創りだした考え方、制度であり、その規制(戒律)のなかで生きていると考えると納得がいく。もっと考え方を広範囲に当てはめると、会社組織というのもある意味宗教と近いものがあるのかもしれない。
そして、大航海時代、ヨーロッパの帝国主義は世界の覇権を握るのであるが、そこには、世の中には知らないことが山のようにある。我々は無知である。もっとを知りたいという冒険心と探究心があったからだという。科学的探究心だ。アフリカやアメリカ大陸を目指した征服者たちは地質学者や生物学者も同伴したそうだ。ダーゥインもそのひとりであった。そういう人たちが集めた有用な植物や鉱物が産業に応用された。
宗教と科学的探究心のふたつの車輪の燃料となったのが貨幣(金融システム)である。新しい資源への投資である。
そこがアジア人と違ったところで、アジアの人々は海の向こうにとくに興味がなく、今いるところが世界のすべてでありそれで十分だったらしい。僕の考え方の基本もアジア人と同じである。
しかしながら結局、今の生活は人類が認知革命以来獲得した、実体のないもの、頭の中で信じることができる能力から生み出されたもので豊かな生活を送っている。
種族としては繁栄を極め、成功しているのかもしれないが、ひとりのホモ・サピエンスとしてみると実態のないものに縛られ、制約され、がんじがらめにされた窮屈な生き方をしているように思える。
かくなるうえは、そこから生み出されたプロダクツだけをつまみ食いしながら、自分だけは実態のないものに絡みとられないように生きてゆきたいものだ。
著者はイスラエル人だそうだが、よく読んでみると帝国主義が生み出した人種差別や格差、また、宗教に対してもなにかネガティブな意見を持っているような気がする。ユダヤ人がたどってきた歴史を考えてみるとそういう風な考えになってゆくのはよくわかる。しかし、そうであっても、来てしまったものは仕方がない。忸怩たるものを抱いている感は垣間見えるけれども、その後を見守っていかねばならないのだと言うスタンスはやはり歴史学者だ。その良し悪しは自分で考えろというところだろうか。それとも、その判断は後世の歴史家に任せようというところだろうか。
それを考える上で、「幸福とは何か」ということを定義しようとしている。
この200年間、高くなり続けた生産性と、帝国主義が後退したあとから台頭した自由主義と資本主義は個人を強くし自由にしたけれども、古くからあった小さなコミュニティーは破壊され人同士のつながりは消えて行き、個人の価値観は省みられなくなった。生産の効率化による富の増大の一例として、工業化された家畜飼育について書かれた部分があり、そこでは豚や鶏、牛などの家畜たちは身動きが取れないような狭い場所に生まれてから死ぬまで押し込められ、そこには生き物としての尊厳や自由がまったくないと綴られている。それはあたかも自由主義のなかのパーツと化してしまった人間になぞらえているように思えた。
そしてその幸福を計るための尺度は富の豊かさではなく、ひとそれぞれが持っている幸福レベルのどの段階まで満たされたか。ということだと言っている。例えて言うなら、そのレベルを1~10までで刻んだとして、3000万のクルーザーに乗っている人は10万円の真鯛釣りの竿を買ったときでも5のレベルまでしか行かないけれども、ぼくみたいな貧乏人なら、ありあわせのパーツで手作りした釣竿でも8まで上がってしまうかもしれない。じゃあ、その時点でどっちが幸福感を味わっているかというと、僕のほうが上なのである。(ただ、悲しいかな、そのレベルは常に維持できるわけでなく、すぐに下がってしまう。また、その感度によって、どれだけがんばっても6ぐらいまでしか上がらない、死ぬまで幸福感に浸れない人もいる。だからひとは新たな幸福を求めるし、世の中を悲観的にしか見ることができないひとが現れる。)
それを生化学的な方向から見ると、「脳内で働く幸福感をもたらす神経伝達物質がうまく分泌されているかどうか。」ということに行きつくのである。要は世界が豊かになることと人が幸せであるということには相関関係がないということである。確かに、豊かになるということが幸福感の基準なら、今よりはるかに貧しかった石器時代の人々はみんなこの世をはかなんでみんな自殺してしまっているはずだ。
どちらにしても、人間社会のすべては人類が実体のないものを認識する能力を身につけてしまったことからはじまる。これからさらに時代が進むと貨幣経済がキャッシュレスに向かっているように、人類自体が電脳化というような実体のない存在に回帰してゆくのだろうか。まあ、地球環境の面から考えるとこんな危険な炭素体ユニットは地上から消えうせて実体のない存在になってくれたほうがよかったりするのではないかとも思うのである。
下巻は帝国主義の始まりから始まる。
その帝国主義を支えるふたつの車輪が宗教と科学的探究心であるというのである。ここでいう宗教とは純粋な信仰の対象だけでなく、自由主義、社会主義というようなイデオロギーまでも含むという考え方が面白い。著者はそれさえも宗教の一種だという。
たしかに、イデオロギーというもの人間が勝手に創りだした考え方、制度であり、その規制(戒律)のなかで生きていると考えると納得がいく。もっと考え方を広範囲に当てはめると、会社組織というのもある意味宗教と近いものがあるのかもしれない。
そして、大航海時代、ヨーロッパの帝国主義は世界の覇権を握るのであるが、そこには、世の中には知らないことが山のようにある。我々は無知である。もっとを知りたいという冒険心と探究心があったからだという。科学的探究心だ。アフリカやアメリカ大陸を目指した征服者たちは地質学者や生物学者も同伴したそうだ。ダーゥインもそのひとりであった。そういう人たちが集めた有用な植物や鉱物が産業に応用された。
宗教と科学的探究心のふたつの車輪の燃料となったのが貨幣(金融システム)である。新しい資源への投資である。
そこがアジア人と違ったところで、アジアの人々は海の向こうにとくに興味がなく、今いるところが世界のすべてでありそれで十分だったらしい。僕の考え方の基本もアジア人と同じである。
しかしながら結局、今の生活は人類が認知革命以来獲得した、実体のないもの、頭の中で信じることができる能力から生み出されたもので豊かな生活を送っている。
種族としては繁栄を極め、成功しているのかもしれないが、ひとりのホモ・サピエンスとしてみると実態のないものに縛られ、制約され、がんじがらめにされた窮屈な生き方をしているように思える。
かくなるうえは、そこから生み出されたプロダクツだけをつまみ食いしながら、自分だけは実態のないものに絡みとられないように生きてゆきたいものだ。
著者はイスラエル人だそうだが、よく読んでみると帝国主義が生み出した人種差別や格差、また、宗教に対してもなにかネガティブな意見を持っているような気がする。ユダヤ人がたどってきた歴史を考えてみるとそういう風な考えになってゆくのはよくわかる。しかし、そうであっても、来てしまったものは仕方がない。忸怩たるものを抱いている感は垣間見えるけれども、その後を見守っていかねばならないのだと言うスタンスはやはり歴史学者だ。その良し悪しは自分で考えろというところだろうか。それとも、その判断は後世の歴史家に任せようというところだろうか。
それを考える上で、「幸福とは何か」ということを定義しようとしている。
この200年間、高くなり続けた生産性と、帝国主義が後退したあとから台頭した自由主義と資本主義は個人を強くし自由にしたけれども、古くからあった小さなコミュニティーは破壊され人同士のつながりは消えて行き、個人の価値観は省みられなくなった。生産の効率化による富の増大の一例として、工業化された家畜飼育について書かれた部分があり、そこでは豚や鶏、牛などの家畜たちは身動きが取れないような狭い場所に生まれてから死ぬまで押し込められ、そこには生き物としての尊厳や自由がまったくないと綴られている。それはあたかも自由主義のなかのパーツと化してしまった人間になぞらえているように思えた。
そしてその幸福を計るための尺度は富の豊かさではなく、ひとそれぞれが持っている幸福レベルのどの段階まで満たされたか。ということだと言っている。例えて言うなら、そのレベルを1~10までで刻んだとして、3000万のクルーザーに乗っている人は10万円の真鯛釣りの竿を買ったときでも5のレベルまでしか行かないけれども、ぼくみたいな貧乏人なら、ありあわせのパーツで手作りした釣竿でも8まで上がってしまうかもしれない。じゃあ、その時点でどっちが幸福感を味わっているかというと、僕のほうが上なのである。(ただ、悲しいかな、そのレベルは常に維持できるわけでなく、すぐに下がってしまう。また、その感度によって、どれだけがんばっても6ぐらいまでしか上がらない、死ぬまで幸福感に浸れない人もいる。だからひとは新たな幸福を求めるし、世の中を悲観的にしか見ることができないひとが現れる。)
それを生化学的な方向から見ると、「脳内で働く幸福感をもたらす神経伝達物質がうまく分泌されているかどうか。」ということに行きつくのである。要は世界が豊かになることと人が幸せであるということには相関関係がないということである。確かに、豊かになるということが幸福感の基準なら、今よりはるかに貧しかった石器時代の人々はみんなこの世をはかなんでみんな自殺してしまっているはずだ。
どちらにしても、人間社会のすべては人類が実体のないものを認識する能力を身につけてしまったことからはじまる。これからさらに時代が進むと貨幣経済がキャッシュレスに向かっているように、人類自体が電脳化というような実体のない存在に回帰してゆくのだろうか。まあ、地球環境の面から考えるとこんな危険な炭素体ユニットは地上から消えうせて実体のない存在になってくれたほうがよかったりするのではないかとも思うのである。