中村桂子 「いのち愛づる生命誌〔38億年から学ぶ新しい知の探究〕」読了
この本が今年100冊目の読書になった。
著者は分子生物学者で、執筆当時はJTが運営する、「生命誌研究所」の副館長という立場であった。生物はDNAの情報を基にして作られた機械のようなものであるという現代主流になりつつある生命観に異を唱え、『DNAまで還元せずに、細胞のDNAの総体であるゲノムを単位にすれば生物の多様性が見えてくる』という生命観=生命誌を提唱した人だそうだ。
ゲノムが作り出す様々なタンパク質はかなりの部分で各生物に共通している。生命誌の世界ではすべての生物がつながっていて、それは時間の流れによってつながっているのだというのが著者の考えだ。
38億年前、ひとつの細胞が生まれ、分裂を始めた。それが多細胞化し、性が生まれその果てに人間が生まれた。僕の先祖をどんどんさかのぼっていくと必ずその単細胞までいきつくことができる、はずだ。ある日突然、どこかからワープしてきた宇宙人が先祖だということはまずあるまい。
こういう、どちらかというと哲学的なことが科学としてどんな形を作っていくのかというのには興味がある。科学の世界では法則性、論理性、客観性、再現性という考えが基本だが、生命誌の考えでは同じ種でも個別に持っているゲノムを尊重して考えねばならないという理念もある。こういう部分も哲学的である。
ただ、この本に書かれている「生命誌研究所」が研究している内容が紹介された部分では、そういった理念がどのような場所に反映されているのかということがよくわからない。生物の遺伝情報を解析してそれがそれがどんな祖先から由来してきたということを調べることは普通の生物の分類学と変わらないのではないだろうか・・。
ただ、著者の考えでは、かつて哲学の中から科学が生まれてきたのだからそれをまたひとつにするのだというのがなかなか素晴らしい考えなのだろうなと思う。
物質的な部分の科学が進歩し続けてもそこに心が追い付かなければ悲劇を生むだけだというのが今のこの時代に当てはまっているような気がする。
著者は生命の進化の中で、ふたつの場面が非常に重要だと書いている。最初の重要な場面は、細胞が生まれた時。ふたつめは真核細胞が生まれた時である。
生物というのは、宇宙の中で唯一、外部からエネルギーを得て代謝をして自らの複製をつくることを繰り返すことができるものだ。ただの物質がどのようなきっかけでそんな活動を始めることができたのはいまだもって謎なのだそうだ。
人は必ず、どんなものに対しても必然を求めるものだけれども、はたして生命が生まれる必然というものはあったのだろうか。
そして核を持った細胞は、その構造を複雑化しその先で性を持った。その延長線上に意識であったり感情であったりというものが生まれるのだが、はたししてそれも必然であったのだろうか。
宇宙戦艦ヤマトの続編では、彗星帝国の帝王が、「人類は性を持ったゆえに“愛”をもった。そしてその愛は憎しみや争い、そして苦しみの根源である。真実の愛というのはそれを抹殺することだ。」と言う。人類とは、『オスとメスが愛を育まねば繁殖もできない不合理な生き物。奪い、憎み、殺し合う。この宇宙の調和を乱す、ヒトという混沌。』であるという。
これが真実の一面を持つのかどうかは知らないが、この地球上でおこっている、格差や偏見、差別、妬みも、自分たちの仲間への愛の強さゆえの反動と捉えれば納得のいくところもある。
それが必然であったというならば、なんと神様は非情なお人であったことか。
かつて神は自分の似姿として人間を創ったという。神様も意外と嫉妬深かったりするのかもしれない。
生命誌という学問が目指す究極の心理というのは、この、「必然」を探し求めるものだったりするのだろうか。
掲載されているエッセイは、2000年前後のものが多い。1900年代というのは科学の世界は大発見が続いた。放射性物質やDNA発見、宇宙の膨張の証拠が見つかったなどなどは1900年代の前半であったそうだ。技術的にも機械文明が急激に発達したのが1900年代だ。
2000年というと、国際宇宙ステーションの運用が始まった頃だそうだが、その後の科学の発展は驚異的なものではなかったような気がする。人類はいまだに地上から400キロしか飛び出していない。
技術の進歩の加速度というものはゆっくりと低くなっていくというのは間違いないことであり、そして、もう、これ以上そんなに科学技術の進歩が必要なのだろうかとも思ったりする。
僕の中では、ボタンひとつで注文した商品が翌日に届くような便利な世界になればそれ以上は望まなくてもいいのではないかと思っている。それよりも、僕の身には直接押し寄せてきているわけではないけれども、これ以上ゴミが増えて自然環境が壊されて魚が釣れなくならないようにしてくれればそれでいい。(ついでに山菜も採らせてくれ。)長生きをするといっても、どうだろう。ずっとお金の心配をしながらならそれも面倒くさい。
今年のノーベル賞は遺伝情報を自在に書き換えることができるゲノム編集技術を作り出した人たちがもらったけれども、その編集した先には何があるのだろうか。やっぱり神と似たものとなってその必然を探し出そうとしているのだろうか・・・。
生物を機械と捉えると効率を追いかけるという考えしか生まれてこない。しかし、生命誌的な世界観を中心に据えるとあらゆる社会の底にある普遍的な価値が見えてくる。
著者はそれをもとに、「ライフステージ社会」というものを提唱した。
「ライフ・シフト」と「里山資本主義」をミックスしたような考え方のようだが、著者は大平内閣時代、実際に「田園都市構想」というものの中で実際にブレーンとして提案し、小渕内閣でも同じような構想が提案されたが、両内閣とも総理の急死でこの構想が消えてしまった。
多分、お金ですべてを計るのではない社会の実現というところであったのだと思うが、僕も、必要じゃないものを売りつけないし買わない、そんな社会で一度暮らしてみたかった。
著者は最後の章で生命誌を「曼荼羅」に例える。
これには納得させられた。密教の曼荼羅は中心に大日如来がいて、周囲の如来、菩薩たちはそれぞれが関係しあって全体世界を作り上げている。著者が作った生命誌の曼荼羅は、中心に受精卵がある。受精卵はすべての生命の根幹でありすべての細胞は受精卵と同じDNAを持ちながら異なる器官を作り、その生物たちが関係しあって世界を作っている。そのすべてが同じ遺伝子情報でつながっているというものだ。
最初は生命誌というものの考えというのがいまひとつよくわからなかったけれども、ライフステージ社会、生命誌曼荼羅というふたつの考え方を読んだ時に、著者の考えていることがおぼろげながらわかったような気がした。
そんな100冊目であった。
この本が今年100冊目の読書になった。
著者は分子生物学者で、執筆当時はJTが運営する、「生命誌研究所」の副館長という立場であった。生物はDNAの情報を基にして作られた機械のようなものであるという現代主流になりつつある生命観に異を唱え、『DNAまで還元せずに、細胞のDNAの総体であるゲノムを単位にすれば生物の多様性が見えてくる』という生命観=生命誌を提唱した人だそうだ。
ゲノムが作り出す様々なタンパク質はかなりの部分で各生物に共通している。生命誌の世界ではすべての生物がつながっていて、それは時間の流れによってつながっているのだというのが著者の考えだ。
38億年前、ひとつの細胞が生まれ、分裂を始めた。それが多細胞化し、性が生まれその果てに人間が生まれた。僕の先祖をどんどんさかのぼっていくと必ずその単細胞までいきつくことができる、はずだ。ある日突然、どこかからワープしてきた宇宙人が先祖だということはまずあるまい。
こういう、どちらかというと哲学的なことが科学としてどんな形を作っていくのかというのには興味がある。科学の世界では法則性、論理性、客観性、再現性という考えが基本だが、生命誌の考えでは同じ種でも個別に持っているゲノムを尊重して考えねばならないという理念もある。こういう部分も哲学的である。
ただ、この本に書かれている「生命誌研究所」が研究している内容が紹介された部分では、そういった理念がどのような場所に反映されているのかということがよくわからない。生物の遺伝情報を解析してそれがそれがどんな祖先から由来してきたということを調べることは普通の生物の分類学と変わらないのではないだろうか・・。
ただ、著者の考えでは、かつて哲学の中から科学が生まれてきたのだからそれをまたひとつにするのだというのがなかなか素晴らしい考えなのだろうなと思う。
物質的な部分の科学が進歩し続けてもそこに心が追い付かなければ悲劇を生むだけだというのが今のこの時代に当てはまっているような気がする。
著者は生命の進化の中で、ふたつの場面が非常に重要だと書いている。最初の重要な場面は、細胞が生まれた時。ふたつめは真核細胞が生まれた時である。
生物というのは、宇宙の中で唯一、外部からエネルギーを得て代謝をして自らの複製をつくることを繰り返すことができるものだ。ただの物質がどのようなきっかけでそんな活動を始めることができたのはいまだもって謎なのだそうだ。
人は必ず、どんなものに対しても必然を求めるものだけれども、はたして生命が生まれる必然というものはあったのだろうか。
そして核を持った細胞は、その構造を複雑化しその先で性を持った。その延長線上に意識であったり感情であったりというものが生まれるのだが、はたししてそれも必然であったのだろうか。
宇宙戦艦ヤマトの続編では、彗星帝国の帝王が、「人類は性を持ったゆえに“愛”をもった。そしてその愛は憎しみや争い、そして苦しみの根源である。真実の愛というのはそれを抹殺することだ。」と言う。人類とは、『オスとメスが愛を育まねば繁殖もできない不合理な生き物。奪い、憎み、殺し合う。この宇宙の調和を乱す、ヒトという混沌。』であるという。
これが真実の一面を持つのかどうかは知らないが、この地球上でおこっている、格差や偏見、差別、妬みも、自分たちの仲間への愛の強さゆえの反動と捉えれば納得のいくところもある。
それが必然であったというならば、なんと神様は非情なお人であったことか。
かつて神は自分の似姿として人間を創ったという。神様も意外と嫉妬深かったりするのかもしれない。
生命誌という学問が目指す究極の心理というのは、この、「必然」を探し求めるものだったりするのだろうか。
掲載されているエッセイは、2000年前後のものが多い。1900年代というのは科学の世界は大発見が続いた。放射性物質やDNA発見、宇宙の膨張の証拠が見つかったなどなどは1900年代の前半であったそうだ。技術的にも機械文明が急激に発達したのが1900年代だ。
2000年というと、国際宇宙ステーションの運用が始まった頃だそうだが、その後の科学の発展は驚異的なものではなかったような気がする。人類はいまだに地上から400キロしか飛び出していない。
技術の進歩の加速度というものはゆっくりと低くなっていくというのは間違いないことであり、そして、もう、これ以上そんなに科学技術の進歩が必要なのだろうかとも思ったりする。
僕の中では、ボタンひとつで注文した商品が翌日に届くような便利な世界になればそれ以上は望まなくてもいいのではないかと思っている。それよりも、僕の身には直接押し寄せてきているわけではないけれども、これ以上ゴミが増えて自然環境が壊されて魚が釣れなくならないようにしてくれればそれでいい。(ついでに山菜も採らせてくれ。)長生きをするといっても、どうだろう。ずっとお金の心配をしながらならそれも面倒くさい。
今年のノーベル賞は遺伝情報を自在に書き換えることができるゲノム編集技術を作り出した人たちがもらったけれども、その編集した先には何があるのだろうか。やっぱり神と似たものとなってその必然を探し出そうとしているのだろうか・・・。
生物を機械と捉えると効率を追いかけるという考えしか生まれてこない。しかし、生命誌的な世界観を中心に据えるとあらゆる社会の底にある普遍的な価値が見えてくる。
著者はそれをもとに、「ライフステージ社会」というものを提唱した。
「ライフ・シフト」と「里山資本主義」をミックスしたような考え方のようだが、著者は大平内閣時代、実際に「田園都市構想」というものの中で実際にブレーンとして提案し、小渕内閣でも同じような構想が提案されたが、両内閣とも総理の急死でこの構想が消えてしまった。
多分、お金ですべてを計るのではない社会の実現というところであったのだと思うが、僕も、必要じゃないものを売りつけないし買わない、そんな社会で一度暮らしてみたかった。
著者は最後の章で生命誌を「曼荼羅」に例える。
これには納得させられた。密教の曼荼羅は中心に大日如来がいて、周囲の如来、菩薩たちはそれぞれが関係しあって全体世界を作り上げている。著者が作った生命誌の曼荼羅は、中心に受精卵がある。受精卵はすべての生命の根幹でありすべての細胞は受精卵と同じDNAを持ちながら異なる器官を作り、その生物たちが関係しあって世界を作っている。そのすべてが同じ遺伝子情報でつながっているというものだ。
最初は生命誌というものの考えというのがいまひとつよくわからなかったけれども、ライフステージ社会、生命誌曼荼羅というふたつの考え方を読んだ時に、著者の考えていることがおぼろげながらわかったような気がした。
そんな100冊目であった。
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