市橋伯一 「増えるものたちの進化生物学」読了
この本の冒頭、はじめにのところにこういった文章が書かれている。
『38億年くらい前に、生物がまだ生物とはとても呼べないような化学物質の集まりだった時代に、その原始の化学物質は増える能力を獲得しました。そしてその能力のために化学物質は進化することができるようになり、最初の生命が生まれました。生命とは、増える能力が作り出したひとつの「物理現象」だということができます。』
『わたしたち人間は、増えるという物理現象が生み出したもっとも極端な存在です。その極端さが私たちの認知能力を向上させ、迷いを抱き、生きづらくすると同時に、今まで生きてきたどの生物より自由になることを可能にしています。』
著者はこの本を、『なんで生きているんだろう?』という疑問に答えるために書いたという。普通、こういう疑問は宗教に答えを求めるべきものだろうけれども、著者は宗教が与えてくれる答えには満足できなかった。それよりももっと科学的な答えが知りたかったという。
生物もひとつの物理現象だとするならば、すべての物理現象と同じようにそこには一定の傾向があり、それが私たち人間に受け継がれ、普段感じている生きる喜びや生きづらさにつながっているというのである。
悩みを科学することは本当にできるのだろうか・・?
著者は生物のことを、「増えるもの」と定義する。条件さえ整えば限りなく、例えば、シアノバクテリア。CO₂と太陽光があれば地球の環境を変えてしまうほど酸素を作り出した。その究極が人間だったというのである。
生物の増え方には2通りの戦略がある。多産多死と少産少死である。多産多死戦略では、小さな体で一気に数を増やす。増えることに直接役に立たない能力やたまにしか使わない能力を切り捨ててしまうほうが有利になるが、増えるのが早い分が死にやすい生物になってしまう。
少産少死戦略では多産多死の生物が使えないような物質を栄養としてつかうことや、様々な環境変化に適応し、増えるための競争からも解きはなたれゆっくり成長することで体も大きくなった。
種類によって生殖可能年齢に達する期間は異なるが、線虫では14日、昆虫類では数か月、犬や猫は2年、人間では17~18年ということで、高等な生物になるほどその期間は長くなる。
その戦略を究極まで突き詰めた存在が人間である。
著者は、『なんで生きているんだろう?』という疑問は人間が持つ特有の悩みであるとし、それを三つに分類している。確かに、こういう悩みは人間特有で、人間以外にそんな悩みを抱えて生きている動物はいないとは思われる・・。
それは、
『自分の生存に関わる問題』
『他者との関わりにおける問題』
『親子や生殖に関わる問題』
という分類なのだが、これは仏教思想が教えてくれる悩みの種類とは微妙に違っている。ここには仏教という哲学と生物学=科学の違いがはっきり表れているように思う。
それぞれの問題についてどう折り合いをつけてゆけばよいのかということを著者は考える。
『自分の生存に関わる問題』について。
人間はさらにお互いに“協力”することで生存確率を高める戦略をとってきた。ある程度知能の発達した動物は血のつながりのある同士は助け合うことがあるが、人間は赤の他人同士でも協力し助け合う。そこに思いやりややさしさという感情が現れてくる。そして、そこに人間特有の悩みが現れてくるというのである。少産少死の究極は少なく生まれた命はものすごくコストがかかるのでその命を大切にしなければならないという考えが生まれる。言い換えれば死ぬのが怖いという考えだ。
『人間が生来持っている強い感情や価値観(たとえば「死にたくない」「子供が大事」など)、言い換えると「本能」をなぜ私たちが持っているかを認識することは、現代を生きていく上で役に立つ』という。こうした人間が持つ生来もつ感情や価値観を認識することで、そうした本能から自由になれることができるというのである。
それらは結局、人間のとってきた生存戦略に付随する現象であり、私たち自身が選んだものではないのであるから、必ず従わなければならないというものではなく、個人が自由に決めればよいのであるというのである。
病気がつらい。身体が思うように動かない。休みが少ない。生殖上の問題である、子供ができない。はたまた、相手がいない。もしくは最近とかく問題になっているLGBTQも、それは人間の進化の結果であって自分の責任ではないと思えばよいというのである。
仏教では「五蘊盛苦」の問題に近いのだと思うが、こう考えれば納得できるし悩まなくても済むのではないかというのである。
自分の生存に関わる問題にはもうひとつある。それは人間の中にある2種類の命の問題である。
この2種類とは、個体としての命と、生殖細胞として受け継がれていく命である。その説明は必要がないと思うが、前者は生物としての命、後者は遺伝情報としての命である。特に後者は未来永劫受け継がれていくものである。本来、生物が「増えるもの」であるのが目的ならば後者が永遠に続いてゆけば永遠に増えることができるので後者のほうが大切であるとなる。事実、昆虫のハサミムシは子供たちをできるだけ確実に未来に残すため生まれた子供に自分の体を食わせるという。遺伝子だけが残ればよいという考えがそこにある。
人間もかつては生殖の寿命と人体としての寿命はほぼ一致していたので自分の遺伝情報が後世に残ればそれでよいという人生であったが、化学肥料の開発や医療の発達で人体としての寿命が生殖寿命をはるかに上回ってしまった。増えることができなくなった個体が生き延びるということは「増えるもの」であるという生物の定義からは逸脱している。この矛盾が、「私たちは幸せになれるのか」という、三つの悩みを統合したような問題に大きくかかわってくる。
その前に、『他者との関わりにおける問題』について考えると、それは人間社会における協力関係である。人間以外の生物のほとんどは同類同士が鉢合わせすると必ずといっていいほど戦いが始まる。血縁関係で群れを作るオオカミやライオンでも他の群れと鉢合わせするとそこでは縄張り争いが起こる。
しかし、人間少産少死を極める中で社会生活というものを作り出し、分業体制が生まれ社会の中に組み込まれていった。それは安全に生きることの保障の代わりに、協力は良いものでありそれを強いることになった。人間が協力関係を増やすことによって他社との関わりの悩みを生み出してしまったのである。仏教では「怨憎会苦」というものに当てはまるだろうか。
このような考え方の基本は狩猟採集時代の平等性の維持から来ているいという。どんなに大きな獲物を獲ってきても独り占めせず、公平に分配することで自分が獲れなかったときにも分け前をもらえるような社会が「増えるもの」には必要であった。大きな獲物は自慢をしたいがその気持ちをグッと抑えるという謙遜の心が醸成されたのである。
著者はそれに対して、現代社会の協力関係は洗練されているので、個人の好き嫌いにはあまり影響されない。現代社会のまっとうな企業であれば、そのような個人的な好き嫌いで仕事が滞ることは避けられるような仕組みになっている。つまり仲が悪いからといって協力関係が崩れてしまうわけではないという。だから、仕事を円滑に行うために必要な程度に協力的でいればそれでよいというのである。
生物としての進化のスピードは社会の進化に比べて圧倒的に遅い。今では人間関係などを気にしなくても生きてゆく権利が保障されているのだから、人間関係にまつわる悩みのほとんどは生死に関係なくなり、それは学ぶことで変えることができる。理性によって本能に逆らうことができる。すなわち気持ちの問題だけなのであるというのだが、僕が所属してきた会社についてはまだまだ進化の程度が原始時代以下だったようである。
一方で人間の協力性を可能にしたのは「共感能力」であると考えられている。その「共感能力」は人間社会の中でますます強化され人間以外のものに対しても向けられるようになってきた。例えば肉食に対する倫理的な問題も浮かび上がってくる要因になっている。「やさしさ」という感情が生まれてきたのである。
ここにも科学技術の進歩が解決策の鍵を握っていると著者はいう。著者自身の研究テーマのひとつらしいのであるが、現代のバイオテクノロジーをもってすれば生物を使わなくてもタンパク質などの栄養を作ることができ、そのタンパク質をつくる装置自体も生物を使わずになりつつあるという。生物の命を奪わずに食料を確保できるという世界はある意味人間の「やさしさ」の究極ではないのかと著者は考えているのである。
そして、「やさしさ」は、「命は大切である。」とか、「死にたくない。」という感情が生まれることにつながってゆく。これも、三つの悩みを統合したような問題に大きくかかわっていく。
『親子や生殖に関わる問題』についても著者はテクノロジーが解決してくれるのではないかと考えている。この悩みはさすがに仏教には類似のものがない。もともと愛欲は禁じられているのだから俗世界にしか存在しない悩みであるのだろう。
そもそも、生物の中で厳密に性が存在する種類はマイノリティである。単為生殖や雌雄同体は一般的だし、「増えるもの」としてはそういった増え方のほうが合理的である。環境の変化によって生き延びることができなくなった場面でのみ有性生殖によって新たな形質を獲得すればよいはずなのであるが、この辺りの、どうして有性生殖がぞんざいするのかという本当の理由については解明されていないのだそうだ。
僕はこれを書きながら、それはきっと常に環境変化に備えておくために、少産少死の生物は常に有性生殖をおこなって新たな形質を獲得し続けているのではないかと思うのだがそうではないのだろうか。
まあ、人間は有性生殖で子孫を残す生物であるから、恋人がいない。とか、意中の異性が振り向いてくれない。子供ができない。などという悩みが生まれるのである。
こんな悩みに対しても、今では人工授精や精子や卵子の凍結保存などによって生殖をコントロールできるようになっている。性差がもたらす不平等が問題視されている以上、人工子宮というようなもので女性だけが子供を産まなくてはならないという世界がなくなるのかもしれない。ほとんどマクロスの世界のようでありSF感が極まりないが、科学技術を発展させた生物としては自然な成り行きではないかと著者は考えている。
元々、子孫を残すことはこれも先祖代々受け継がれた欲求であり、時代遅れの本能を持っているにすぎないのである。現代に生きる私たちがこの時代遅れの本能に従うか無視するかは個人で判断すればよいというのである。
そして、最後の問題は、やさしさや共感能力と、テクノロジーの進歩は不老不死の望みへと向かう。しかし、それはコストが高すぎて人間の本能である公平というものから逸脱してしまう。どれだけおカネがあるかで寿命が決まるという社会がやってくるというのである。
そんな世界で人は幸せになれるのか。というのが最後の悩みなのである。
著者はそれまでの主張と同じように、「幸せになりたい」とか、「死にたくない」「仲間はずれにされたくない」というような欲求は先祖から与えられた刷り込みに過ぎないのだから気にしてはいけないという結論に達する。
人間に対する過度な期待をしてはいけない。生きている目的などを考えてはいけない。人間という存在自体が貴重なものなのだから生きているだけで価値があるのであるというのである。
なんだか最後の結論は釈迦が教える諦観に似てきているようにみえるが、きっとそれは正しいことだと思う。
正しいことだとは思うが、それが最も難しいというのはどの時代も一番難しいのだから結局はあまり救いにはなっていないのである。
そして、最後の締めくくりは科学者らしく、人類の貴重さとその未来はどうあるべきかということを語っている。
現代の宇宙論では生命が存在している惑星は地球だけではないと考えられているが、文明の持続期間が1万年しかないと考えると、現在この瞬間に宇宙に存在している文明はここにしかないかもしれない。それほどこの社会は貴重であるというのである。
それを持続させるということが私たちがすべきことであるという。
そのためにはまず、社会の中で自分の果たすべき役割を果たすこと、そして、今、起こっている様々な問題を解決する人材を輩出することであるという。アインシュタインの時代に比べると人口は5倍近くになっている。天才が現れる確率も上がる。それだけの天才がいれば不可能に思える困難も乗り越えられるというのだ。
なんだか他力本願のようだが、元々人間社会自体が協力し合うことで成り立っているのだから他力本願は正しいありかたであるというのだからある意味、痛快でもある。
そして、もっとも人間らしい進化として「ミーム」を取り上げる。「ミーム」とは、人間の脳に広がる考え方やアイデアのことであるが、要は、遺伝子に頼らずに「増えるもの」である。そう、著者はDNA(=遺伝子=本能)に頼らない生き方こそ人間らしい幸せを勝ち取る道であるというのである。
う~ん。奥が深い・・。
この本の冒頭、はじめにのところにこういった文章が書かれている。
『38億年くらい前に、生物がまだ生物とはとても呼べないような化学物質の集まりだった時代に、その原始の化学物質は増える能力を獲得しました。そしてその能力のために化学物質は進化することができるようになり、最初の生命が生まれました。生命とは、増える能力が作り出したひとつの「物理現象」だということができます。』
『わたしたち人間は、増えるという物理現象が生み出したもっとも極端な存在です。その極端さが私たちの認知能力を向上させ、迷いを抱き、生きづらくすると同時に、今まで生きてきたどの生物より自由になることを可能にしています。』
著者はこの本を、『なんで生きているんだろう?』という疑問に答えるために書いたという。普通、こういう疑問は宗教に答えを求めるべきものだろうけれども、著者は宗教が与えてくれる答えには満足できなかった。それよりももっと科学的な答えが知りたかったという。
生物もひとつの物理現象だとするならば、すべての物理現象と同じようにそこには一定の傾向があり、それが私たち人間に受け継がれ、普段感じている生きる喜びや生きづらさにつながっているというのである。
悩みを科学することは本当にできるのだろうか・・?
著者は生物のことを、「増えるもの」と定義する。条件さえ整えば限りなく、例えば、シアノバクテリア。CO₂と太陽光があれば地球の環境を変えてしまうほど酸素を作り出した。その究極が人間だったというのである。
生物の増え方には2通りの戦略がある。多産多死と少産少死である。多産多死戦略では、小さな体で一気に数を増やす。増えることに直接役に立たない能力やたまにしか使わない能力を切り捨ててしまうほうが有利になるが、増えるのが早い分が死にやすい生物になってしまう。
少産少死戦略では多産多死の生物が使えないような物質を栄養としてつかうことや、様々な環境変化に適応し、増えるための競争からも解きはなたれゆっくり成長することで体も大きくなった。
種類によって生殖可能年齢に達する期間は異なるが、線虫では14日、昆虫類では数か月、犬や猫は2年、人間では17~18年ということで、高等な生物になるほどその期間は長くなる。
その戦略を究極まで突き詰めた存在が人間である。
著者は、『なんで生きているんだろう?』という疑問は人間が持つ特有の悩みであるとし、それを三つに分類している。確かに、こういう悩みは人間特有で、人間以外にそんな悩みを抱えて生きている動物はいないとは思われる・・。
それは、
『自分の生存に関わる問題』
『他者との関わりにおける問題』
『親子や生殖に関わる問題』
という分類なのだが、これは仏教思想が教えてくれる悩みの種類とは微妙に違っている。ここには仏教という哲学と生物学=科学の違いがはっきり表れているように思う。
それぞれの問題についてどう折り合いをつけてゆけばよいのかということを著者は考える。
『自分の生存に関わる問題』について。
人間はさらにお互いに“協力”することで生存確率を高める戦略をとってきた。ある程度知能の発達した動物は血のつながりのある同士は助け合うことがあるが、人間は赤の他人同士でも協力し助け合う。そこに思いやりややさしさという感情が現れてくる。そして、そこに人間特有の悩みが現れてくるというのである。少産少死の究極は少なく生まれた命はものすごくコストがかかるのでその命を大切にしなければならないという考えが生まれる。言い換えれば死ぬのが怖いという考えだ。
『人間が生来持っている強い感情や価値観(たとえば「死にたくない」「子供が大事」など)、言い換えると「本能」をなぜ私たちが持っているかを認識することは、現代を生きていく上で役に立つ』という。こうした人間が持つ生来もつ感情や価値観を認識することで、そうした本能から自由になれることができるというのである。
それらは結局、人間のとってきた生存戦略に付随する現象であり、私たち自身が選んだものではないのであるから、必ず従わなければならないというものではなく、個人が自由に決めればよいのであるというのである。
病気がつらい。身体が思うように動かない。休みが少ない。生殖上の問題である、子供ができない。はたまた、相手がいない。もしくは最近とかく問題になっているLGBTQも、それは人間の進化の結果であって自分の責任ではないと思えばよいというのである。
仏教では「五蘊盛苦」の問題に近いのだと思うが、こう考えれば納得できるし悩まなくても済むのではないかというのである。
自分の生存に関わる問題にはもうひとつある。それは人間の中にある2種類の命の問題である。
この2種類とは、個体としての命と、生殖細胞として受け継がれていく命である。その説明は必要がないと思うが、前者は生物としての命、後者は遺伝情報としての命である。特に後者は未来永劫受け継がれていくものである。本来、生物が「増えるもの」であるのが目的ならば後者が永遠に続いてゆけば永遠に増えることができるので後者のほうが大切であるとなる。事実、昆虫のハサミムシは子供たちをできるだけ確実に未来に残すため生まれた子供に自分の体を食わせるという。遺伝子だけが残ればよいという考えがそこにある。
人間もかつては生殖の寿命と人体としての寿命はほぼ一致していたので自分の遺伝情報が後世に残ればそれでよいという人生であったが、化学肥料の開発や医療の発達で人体としての寿命が生殖寿命をはるかに上回ってしまった。増えることができなくなった個体が生き延びるということは「増えるもの」であるという生物の定義からは逸脱している。この矛盾が、「私たちは幸せになれるのか」という、三つの悩みを統合したような問題に大きくかかわってくる。
その前に、『他者との関わりにおける問題』について考えると、それは人間社会における協力関係である。人間以外の生物のほとんどは同類同士が鉢合わせすると必ずといっていいほど戦いが始まる。血縁関係で群れを作るオオカミやライオンでも他の群れと鉢合わせするとそこでは縄張り争いが起こる。
しかし、人間少産少死を極める中で社会生活というものを作り出し、分業体制が生まれ社会の中に組み込まれていった。それは安全に生きることの保障の代わりに、協力は良いものでありそれを強いることになった。人間が協力関係を増やすことによって他社との関わりの悩みを生み出してしまったのである。仏教では「怨憎会苦」というものに当てはまるだろうか。
このような考え方の基本は狩猟採集時代の平等性の維持から来ているいという。どんなに大きな獲物を獲ってきても独り占めせず、公平に分配することで自分が獲れなかったときにも分け前をもらえるような社会が「増えるもの」には必要であった。大きな獲物は自慢をしたいがその気持ちをグッと抑えるという謙遜の心が醸成されたのである。
著者はそれに対して、現代社会の協力関係は洗練されているので、個人の好き嫌いにはあまり影響されない。現代社会のまっとうな企業であれば、そのような個人的な好き嫌いで仕事が滞ることは避けられるような仕組みになっている。つまり仲が悪いからといって協力関係が崩れてしまうわけではないという。だから、仕事を円滑に行うために必要な程度に協力的でいればそれでよいというのである。
生物としての進化のスピードは社会の進化に比べて圧倒的に遅い。今では人間関係などを気にしなくても生きてゆく権利が保障されているのだから、人間関係にまつわる悩みのほとんどは生死に関係なくなり、それは学ぶことで変えることができる。理性によって本能に逆らうことができる。すなわち気持ちの問題だけなのであるというのだが、僕が所属してきた会社についてはまだまだ進化の程度が原始時代以下だったようである。
一方で人間の協力性を可能にしたのは「共感能力」であると考えられている。その「共感能力」は人間社会の中でますます強化され人間以外のものに対しても向けられるようになってきた。例えば肉食に対する倫理的な問題も浮かび上がってくる要因になっている。「やさしさ」という感情が生まれてきたのである。
ここにも科学技術の進歩が解決策の鍵を握っていると著者はいう。著者自身の研究テーマのひとつらしいのであるが、現代のバイオテクノロジーをもってすれば生物を使わなくてもタンパク質などの栄養を作ることができ、そのタンパク質をつくる装置自体も生物を使わずになりつつあるという。生物の命を奪わずに食料を確保できるという世界はある意味人間の「やさしさ」の究極ではないのかと著者は考えているのである。
そして、「やさしさ」は、「命は大切である。」とか、「死にたくない。」という感情が生まれることにつながってゆく。これも、三つの悩みを統合したような問題に大きくかかわっていく。
『親子や生殖に関わる問題』についても著者はテクノロジーが解決してくれるのではないかと考えている。この悩みはさすがに仏教には類似のものがない。もともと愛欲は禁じられているのだから俗世界にしか存在しない悩みであるのだろう。
そもそも、生物の中で厳密に性が存在する種類はマイノリティである。単為生殖や雌雄同体は一般的だし、「増えるもの」としてはそういった増え方のほうが合理的である。環境の変化によって生き延びることができなくなった場面でのみ有性生殖によって新たな形質を獲得すればよいはずなのであるが、この辺りの、どうして有性生殖がぞんざいするのかという本当の理由については解明されていないのだそうだ。
僕はこれを書きながら、それはきっと常に環境変化に備えておくために、少産少死の生物は常に有性生殖をおこなって新たな形質を獲得し続けているのではないかと思うのだがそうではないのだろうか。
まあ、人間は有性生殖で子孫を残す生物であるから、恋人がいない。とか、意中の異性が振り向いてくれない。子供ができない。などという悩みが生まれるのである。
こんな悩みに対しても、今では人工授精や精子や卵子の凍結保存などによって生殖をコントロールできるようになっている。性差がもたらす不平等が問題視されている以上、人工子宮というようなもので女性だけが子供を産まなくてはならないという世界がなくなるのかもしれない。ほとんどマクロスの世界のようでありSF感が極まりないが、科学技術を発展させた生物としては自然な成り行きではないかと著者は考えている。
元々、子孫を残すことはこれも先祖代々受け継がれた欲求であり、時代遅れの本能を持っているにすぎないのである。現代に生きる私たちがこの時代遅れの本能に従うか無視するかは個人で判断すればよいというのである。
そして、最後の問題は、やさしさや共感能力と、テクノロジーの進歩は不老不死の望みへと向かう。しかし、それはコストが高すぎて人間の本能である公平というものから逸脱してしまう。どれだけおカネがあるかで寿命が決まるという社会がやってくるというのである。
そんな世界で人は幸せになれるのか。というのが最後の悩みなのである。
著者はそれまでの主張と同じように、「幸せになりたい」とか、「死にたくない」「仲間はずれにされたくない」というような欲求は先祖から与えられた刷り込みに過ぎないのだから気にしてはいけないという結論に達する。
人間に対する過度な期待をしてはいけない。生きている目的などを考えてはいけない。人間という存在自体が貴重なものなのだから生きているだけで価値があるのであるというのである。
なんだか最後の結論は釈迦が教える諦観に似てきているようにみえるが、きっとそれは正しいことだと思う。
正しいことだとは思うが、それが最も難しいというのはどの時代も一番難しいのだから結局はあまり救いにはなっていないのである。
そして、最後の締めくくりは科学者らしく、人類の貴重さとその未来はどうあるべきかということを語っている。
現代の宇宙論では生命が存在している惑星は地球だけではないと考えられているが、文明の持続期間が1万年しかないと考えると、現在この瞬間に宇宙に存在している文明はここにしかないかもしれない。それほどこの社会は貴重であるというのである。
それを持続させるということが私たちがすべきことであるという。
そのためにはまず、社会の中で自分の果たすべき役割を果たすこと、そして、今、起こっている様々な問題を解決する人材を輩出することであるという。アインシュタインの時代に比べると人口は5倍近くになっている。天才が現れる確率も上がる。それだけの天才がいれば不可能に思える困難も乗り越えられるというのだ。
なんだか他力本願のようだが、元々人間社会自体が協力し合うことで成り立っているのだから他力本願は正しいありかたであるというのだからある意味、痛快でもある。
そして、もっとも人間らしい進化として「ミーム」を取り上げる。「ミーム」とは、人間の脳に広がる考え方やアイデアのことであるが、要は、遺伝子に頼らずに「増えるもの」である。そう、著者はDNA(=遺伝子=本能)に頼らない生き方こそ人間らしい幸せを勝ち取る道であるというのである。
う~ん。奥が深い・・。
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