平川敬治 「魚食から文化を知る ユダヤ教、キリスト教、イスラム文化と日本」読了
タイトルのとおり、この本はユダヤ教系の宗教と魚食の習慣、それが日本にどう根付いてきたかということを書いている。
こ三つの宗教はユダヤ教の旧約聖書が元になっているのは周知の事実だ。
本の始まりは旧約聖書のモーゼの物語からである。エジプト軍に追われて万事休すというとき、モーゼが杖で海岸を叩くと海が割れて道ができたというエピソードは有名だが、その時、海が割れた時に逃げ遅れて体も半分になってしまった魚がいたというのである。その魚は、ボウズガレイという名前の魚だということだが、カレイというのは確かに平べったくて縦に半分に割れたような感じもするが、よく見なくても目玉がふたつ残っているからちょっと話に矛盾がありそうだ。真っ二つに割れたのなら目もひとつだけのはずではないのだろうか・・。まあ、伝説なのだから多少の矛盾には目をつむれということだろうが・・・。
新約聖書の時代になるとガリラヤ湖の魚が登場する。この湖はイスラエルのヨルダン大峡谷帯に位置するが、キリストが布教活動を始めた場所でもある。新約聖書は少しだけ読んだことがあるが、そこには漁師の兄弟が登場する。シモン(ペトロ)、アンデレという兄弟でキリストの一番弟子だ。多分この湖の畔で漁をしていたのだろう。漁師は網で魚を獲るから人々を苦境から救い出す人たちであるという意味も持っていたらしい。
この湖で獲れる魚の主力はティラピアとキレネット・サーディンという魚だ。ティラピアという魚は日本でも外来魚として九州の方では迷惑がられているらしいが、この地方では「ペトロの魚」と呼ばれている。
ペトロが釣り上げたこの魚の口から銀貨が出てきたとか、イエスが5,000人の群集にパンと魚を与える奇跡をおこした時の魚もティラピアだったという。
キレネット・サーディンの漁獲はマグダラというところが有名だが、ここはまた、「マグダラのマリア」が暮らした地としても有名である。
キリスト教徒のシンボルというと、十字架だが、その前は魚の図がそのシンボルだったそうだ。
ギリシャ語で、「イエス・キリスト、神の子、救い主(ΙΗΣΟΥΣ ΧΡΙΣΤΟΣ ΘΕΟΥ ΥΙΟΣ ΣΩΤΗΡ)」の頭文字を並べたΙΧΘΥΣ(Ichthys)という言葉は、魚という意味からだそうだ。迷えるのは子羊ではなく魚であったらしい。

ユダヤ教では魚はどんな扱いを受けていたかというと、戒律ではヒレやウロコがない魚や這いまわる生物(エビやカニなど)を食べてはいけないということで、うなぎやナマズは食べてはいけなかったらしい。これはもったいない話だが、これがヨーロッパに行くと、うなぎは大人気の魚らしい。
うなぎというと日本人だけが蒲焼きで食べるというイメージだが、イタリアなんかではかなりポピュラーな魚で、イタリアでは塩コショウでシンプルに、ベルギーには煮込み料理もあるらしい。
レオナルド・ダヴィンチが描いた「最後の晩餐」の食事風景の中で食べていたのはうなぎであったというのが一般的な解釈となっているそうだ。「最後の晩餐」の舞台はエルサレムだが、描いたのがイタリア人というのでうなぎが登場とするというほどポピュラーな魚であったらしい。
ちなみにその料理の名前は、グーグルで見てみると、「ウナギのオレンジスライス添え」という名前がでてきたのだが、確かに美味そうな料理名である。
同じヌルヌル系でいくと、これはもっと以外で、ウツボもよく食べられていたそうだ。新約聖書の時代を少し遡ったローマ時代、ユリウス・カエサルが市民を招いておこなって宴会では6000匹のウツボが使われたという記録が残っているらしい。ポンペイの遺跡のモザイク画にもウツボが描かれているという。
かなり獰猛な魚だというので、兵士はその強さにあやかろうという気持ちもあったのではないかと著者は想像している。
イスラム教もけっこう食べるものに制限があるが魚に関しては以外にも食べてはいけない魚というものがないらしく、どうやって処理をしたかということだけだそうだ。
また少し時代をさかのぼり、聖書の前のギリシャ神話の時代。ポセイドンが持っている三又の槍だが、あれは武器ではなく、魚を獲る銛なのだそうだ。
マグロやイルカなど、銛で突くのは大型の魚類などだが、マグロは女神アルテミスへの捧げものとされ、当時から人気のある魚であったらしい。
再び新約聖書の時代の時代に戻ると、イエスが十字架に架けられた金曜日は質素な食事を摂るというのがキリスト教の習慣だそうだ。その時には何を食べているかというと、これが魚らしい。ということは、やはり西洋ではどちらかというと肉はハレの食べ物で魚はケの食べ物という認識ができているようである。
そこはちょっと残念には思うのだ。
イースターの前は特に質素な食事になるという。そしてイースターの時にはカタツムリを食べる習慣がある。これは、春のこの時期、カタツムリが土の中からどんどん這い出してくるという季節と重なっているということもあるらしいが、カタツムリは多産で縁起を担ぐという意味も込められているらしい。こういう縁起かつぎは世界中どこに行っても同じらしい。
貝類についていうと、ホタテ貝は巡礼者が食器の代わりに持ち歩いていたということで「ヤコブの貝」と呼ばれその象徴となっている一方で、ビーナスが誕生したときに乗っていたというのでエロスの象徴ともなっている。まあ、それだけ人々の身近にこういたものがあったということだろう。
魚はケの食べ物だと言われながらも、ヨーロッパ、特に地中海沿岸では多彩な海産物が食べられている。干しダラ、サバサンド、エイ、サメ、タチウオ、ウニなどなど。日本とそん色ないほどの多彩ぶりだ。やはり海産物というのは食材としては貴重なものであったに違いない。
そして、日本に渡ったキリスト教と魚の関係はどうだろう。
禁教となった後も最後まで信仰を守り抜いた人々は長崎の漁村の人たちであったのだが、最初の弟子が漁師であったということが関連しているのか、生活の辛さの癒しをどこかに求めなければならないほど過酷な生活だったのだろうか・・。
日本でのキリスト教と魚介類の関係はフランシスコ・ザビエルとカニが有名だそうだ。シマイシガニというカニだが、茹でると甲羅に十字架の文様が浮かび上がってくるそうだ。
ザビエルがマラッカに到着し、艀にのって上陸しようとしたとき岩礁に乗り上げてしまい、船に孔が開いてしまった。そうしたら、一匹のカニが現れて甲羅を孔に押し当て浸水を防いだという。カニはあえなく絶命したが、ザビエルが感謝して祈ったら、この辺りで獲れるカニの甲羅には十字架が浮かんで見えるようになったというのである。別名、ザビエルガニと呼ばれているそうだ。平家ガニも同じような謂れを持っているが、カニはなんだか霊的なものでも持っているのだろか・・。
ザビエルとカニにはもうひとつエピソードがあって、航海途上に嵐に出くわし、十字架を掲げて祈ったが波にさらわれてしまう。無事に嵐を切り抜け、翌朝海岸を歩いていたらカニがその十字架を届けてくれたという。それ以来カニはザビエルの象徴となった。というお話だ。
それ以外はさすがにネタがないようで、逆に日本という国は宗教的な制約がなく様々なかたちで魚介類が食べられる特異的で素晴らしい国だということになっている。
しかし、世界中にあるそういった制約は季節に応じて旬のものを一番美味しい時に食べようという気持ちから始まったものではないのかと思う。今、この国ではそういった季節感がまったくなくなっているは確かだ。宗教的な儀式に応じて食べるものというのも無くなってしまっている。はたしてそれが幸せなのかどうか、僕は疑問に思うのだ。
タイトルのとおり、この本はユダヤ教系の宗教と魚食の習慣、それが日本にどう根付いてきたかということを書いている。
こ三つの宗教はユダヤ教の旧約聖書が元になっているのは周知の事実だ。
本の始まりは旧約聖書のモーゼの物語からである。エジプト軍に追われて万事休すというとき、モーゼが杖で海岸を叩くと海が割れて道ができたというエピソードは有名だが、その時、海が割れた時に逃げ遅れて体も半分になってしまった魚がいたというのである。その魚は、ボウズガレイという名前の魚だということだが、カレイというのは確かに平べったくて縦に半分に割れたような感じもするが、よく見なくても目玉がふたつ残っているからちょっと話に矛盾がありそうだ。真っ二つに割れたのなら目もひとつだけのはずではないのだろうか・・。まあ、伝説なのだから多少の矛盾には目をつむれということだろうが・・・。
新約聖書の時代になるとガリラヤ湖の魚が登場する。この湖はイスラエルのヨルダン大峡谷帯に位置するが、キリストが布教活動を始めた場所でもある。新約聖書は少しだけ読んだことがあるが、そこには漁師の兄弟が登場する。シモン(ペトロ)、アンデレという兄弟でキリストの一番弟子だ。多分この湖の畔で漁をしていたのだろう。漁師は網で魚を獲るから人々を苦境から救い出す人たちであるという意味も持っていたらしい。
この湖で獲れる魚の主力はティラピアとキレネット・サーディンという魚だ。ティラピアという魚は日本でも外来魚として九州の方では迷惑がられているらしいが、この地方では「ペトロの魚」と呼ばれている。
ペトロが釣り上げたこの魚の口から銀貨が出てきたとか、イエスが5,000人の群集にパンと魚を与える奇跡をおこした時の魚もティラピアだったという。
キレネット・サーディンの漁獲はマグダラというところが有名だが、ここはまた、「マグダラのマリア」が暮らした地としても有名である。
キリスト教徒のシンボルというと、十字架だが、その前は魚の図がそのシンボルだったそうだ。
ギリシャ語で、「イエス・キリスト、神の子、救い主(ΙΗΣΟΥΣ ΧΡΙΣΤΟΣ ΘΕΟΥ ΥΙΟΣ ΣΩΤΗΡ)」の頭文字を並べたΙΧΘΥΣ(Ichthys)という言葉は、魚という意味からだそうだ。迷えるのは子羊ではなく魚であったらしい。

ユダヤ教では魚はどんな扱いを受けていたかというと、戒律ではヒレやウロコがない魚や這いまわる生物(エビやカニなど)を食べてはいけないということで、うなぎやナマズは食べてはいけなかったらしい。これはもったいない話だが、これがヨーロッパに行くと、うなぎは大人気の魚らしい。
うなぎというと日本人だけが蒲焼きで食べるというイメージだが、イタリアなんかではかなりポピュラーな魚で、イタリアでは塩コショウでシンプルに、ベルギーには煮込み料理もあるらしい。
レオナルド・ダヴィンチが描いた「最後の晩餐」の食事風景の中で食べていたのはうなぎであったというのが一般的な解釈となっているそうだ。「最後の晩餐」の舞台はエルサレムだが、描いたのがイタリア人というのでうなぎが登場とするというほどポピュラーな魚であったらしい。
ちなみにその料理の名前は、グーグルで見てみると、「ウナギのオレンジスライス添え」という名前がでてきたのだが、確かに美味そうな料理名である。
同じヌルヌル系でいくと、これはもっと以外で、ウツボもよく食べられていたそうだ。新約聖書の時代を少し遡ったローマ時代、ユリウス・カエサルが市民を招いておこなって宴会では6000匹のウツボが使われたという記録が残っているらしい。ポンペイの遺跡のモザイク画にもウツボが描かれているという。
かなり獰猛な魚だというので、兵士はその強さにあやかろうという気持ちもあったのではないかと著者は想像している。
イスラム教もけっこう食べるものに制限があるが魚に関しては以外にも食べてはいけない魚というものがないらしく、どうやって処理をしたかということだけだそうだ。
また少し時代をさかのぼり、聖書の前のギリシャ神話の時代。ポセイドンが持っている三又の槍だが、あれは武器ではなく、魚を獲る銛なのだそうだ。
マグロやイルカなど、銛で突くのは大型の魚類などだが、マグロは女神アルテミスへの捧げものとされ、当時から人気のある魚であったらしい。
再び新約聖書の時代の時代に戻ると、イエスが十字架に架けられた金曜日は質素な食事を摂るというのがキリスト教の習慣だそうだ。その時には何を食べているかというと、これが魚らしい。ということは、やはり西洋ではどちらかというと肉はハレの食べ物で魚はケの食べ物という認識ができているようである。
そこはちょっと残念には思うのだ。
イースターの前は特に質素な食事になるという。そしてイースターの時にはカタツムリを食べる習慣がある。これは、春のこの時期、カタツムリが土の中からどんどん這い出してくるという季節と重なっているということもあるらしいが、カタツムリは多産で縁起を担ぐという意味も込められているらしい。こういう縁起かつぎは世界中どこに行っても同じらしい。
貝類についていうと、ホタテ貝は巡礼者が食器の代わりに持ち歩いていたということで「ヤコブの貝」と呼ばれその象徴となっている一方で、ビーナスが誕生したときに乗っていたというのでエロスの象徴ともなっている。まあ、それだけ人々の身近にこういたものがあったということだろう。
魚はケの食べ物だと言われながらも、ヨーロッパ、特に地中海沿岸では多彩な海産物が食べられている。干しダラ、サバサンド、エイ、サメ、タチウオ、ウニなどなど。日本とそん色ないほどの多彩ぶりだ。やはり海産物というのは食材としては貴重なものであったに違いない。
そして、日本に渡ったキリスト教と魚の関係はどうだろう。
禁教となった後も最後まで信仰を守り抜いた人々は長崎の漁村の人たちであったのだが、最初の弟子が漁師であったということが関連しているのか、生活の辛さの癒しをどこかに求めなければならないほど過酷な生活だったのだろうか・・。
日本でのキリスト教と魚介類の関係はフランシスコ・ザビエルとカニが有名だそうだ。シマイシガニというカニだが、茹でると甲羅に十字架の文様が浮かび上がってくるそうだ。
ザビエルがマラッカに到着し、艀にのって上陸しようとしたとき岩礁に乗り上げてしまい、船に孔が開いてしまった。そうしたら、一匹のカニが現れて甲羅を孔に押し当て浸水を防いだという。カニはあえなく絶命したが、ザビエルが感謝して祈ったら、この辺りで獲れるカニの甲羅には十字架が浮かんで見えるようになったというのである。別名、ザビエルガニと呼ばれているそうだ。平家ガニも同じような謂れを持っているが、カニはなんだか霊的なものでも持っているのだろか・・。
ザビエルとカニにはもうひとつエピソードがあって、航海途上に嵐に出くわし、十字架を掲げて祈ったが波にさらわれてしまう。無事に嵐を切り抜け、翌朝海岸を歩いていたらカニがその十字架を届けてくれたという。それ以来カニはザビエルの象徴となった。というお話だ。
それ以外はさすがにネタがないようで、逆に日本という国は宗教的な制約がなく様々なかたちで魚介類が食べられる特異的で素晴らしい国だということになっている。
しかし、世界中にあるそういった制約は季節に応じて旬のものを一番美味しい時に食べようという気持ちから始まったものではないのかと思う。今、この国ではそういった季節感がまったくなくなっているは確かだ。宗教的な儀式に応じて食べるものというのも無くなってしまっている。はたしてそれが幸せなのかどうか、僕は疑問に思うのだ。