川端裕人/著 海部陽介/監修 「我々はなぜ我々だけなのか アジアから消えた多様な「人類」たち 」読了
「我々はどこから来て、どこへ行くのか。いつの時代でも、どこにいても、人はそういうことを、その時その場の知識や利用可能な知的道具に応じて問うてきた。」
この本の最初のあたりに書かれている文章だ。
確かにそのとおりで、この歳になってくると、どこから来たのかはともかく、自分がこの世からいなくなったあと、人類はどうなっていくのかということにはものすごい興味がある。そして未来を知るためには過去を知らなければならないのである。
まあ、自分が死んでしまったらあとはどうでもいいじゃないかとも思うのだが・・。
本のタイトルは非情に興味をそそるものだが、そのタイトル通りの部分は最後の1章だけであとは、ジャワ原人についての発掘の物語や人類史の中の位置づけについて書かれている。普通なら肩透かしを食ったんじゃないかと思ってしまうのだが、著者の文章の読みやすさと詳しい解説のおかげでけっこう面白い。これもちゃんとタイトルでわかるといえばわかるのだけれども・・。
主な内容は、国立科学博物館の人類進化学者・海部陽介博士のジャワ原人に関する研究を著者がたどってゆくという内容である。
まず、サルから人類までの進化の道筋を簡単にたどるとこうなる。
初期の猿人→猿人→原人→旧人→新人
初期の猿人というのは教科書にも載っていなかったのではないだろうか。ラミダス猿人というのが有名らしい。450万年くらい前にエチオピアで生活していたそうだ。
次の猿人というのは教科書にも必ず載っていた、アウストラ・ロピテクスという種族だ。これが200万年前くらいまで。最後のほうでは簡単な石器を使っていたそうだ。次に原人。ここから学名に“ホモ”が付く。人類に限りなく近い種族になその中のひとつの種族がホモ・エレクトス=ジャワ原人である。昔、「ピテカントロプス」と言われていたのはこのジャワ原人や北京原人だそうだ。そして旧人はネアンデルタール人が有名、新人はホモ・サピエンスだ。
海部博士は、そのジャワ原人がホモ・サピエンスにどうつながっているのか、どこからやってきたのか、そして、21世紀に入って新たに発見されたフローレス原人という新たな原人(インドネシアのフローレス島で発見されたかなり小型の原人)についての研究をおこなっている。
ジャワ原人や北京原人については頭蓋骨の頭のほうや顎の骨しか出てこないのでわからないことのほうが多いらしく、その情報を補うべく、現代人の骨格を人種を超えてくまなく調べ、それと比較してこの原人は人間の祖先なのか、そしてどこから来たのかということが研究されているのだ。
結論だけまとめると、猿人から新人まですべてはアフリカが起源の別々の種族であり、生まれ出てはアフリカを脱出し、少しずつ勢力範囲を広げてきたが最終的に生き残ったのはホモ・サピエンスだけであった。ということになる。
それぞれの人類が存在した期間はかなり重なっていて、同じ地域に混在していたのは事実のようだ。ホモ・サピエンスも20万年前に誕生して世界に拡散したということだから我々の直系の祖先も彼らと同じ時期に存在していた。では、どうして最後に我々だけが残ったのか。「闘争説」「気候変動説」「噴火説」「疫病説」「異種交雑の結果説」「学習能力の違い設」など色々な説があるらしいが、最もセンセーショナルで説得力がありそのなのが「闘争説」だ。と言ってもそれは世界の歴史=戦争の歴史みたいなものだから先入観的にそう思ってしまうが、後発のより少しだけ環境に適応した生物はその前にいた生物を駆逐してしまうというのは当たり前のように繰り返されてきたことらしい。セイヨウタンポポが在来のタンポポを駆逐したという例が語られている。
それに加えて、海部博士は、あとから広がってきたホモ・サピエンスにそれぞれの地域で限定的とはいえ、元いた人類との混血がおこなわれながら現在の人間が出来上がったと考えているそうだ。
ヨーロッパでは、ネアンデルタール人とホモ・サピエンス(クロマニョン人)との混血の事実が明らかになっていて、オーストラリアのアボリジニにはジャワ原人の骨格の特徴が見られるそうである。
ホモ・サピエンスはどうしてそこまで世界中に広がることができたのか、著者はその答えとして、それまでの人類は環境に適応して体が変化してきた(これは動物と同じ進化の仕方だ。)けれども、ホモ・サピエンスは肉体を進化させずに技術で環境に適応し、また環境自体を変えることができた。だから同じ人々が世界中に広がることができるようになったと言う。
確かにこれは目からうろこというか、言われてみればもっともな考えだ
しかし、タンポポの例では、日本の在来種のタンポポは消滅したわけではない。でも、人類は1種類を残して滅んでしまった。そこにはきっと、神様が決めたのかどうかはわからないけれども、「知性を持つものはひとつの星に1種類しか存在できない。」というような法則がこの宇宙にはあるのではないだろうかと考えてしまう。人工知能がこれから先、どんどん発達してくるとやはり今度は人間がネアンデルタール人のような立場になる日も来るのではないかと思うのは考えすぎだろうか?
「食べることは生きること。」これは朝の連ドラ「ごちそうさん」のテーマになっている言葉だが、ほんの数十年前まで、まさに食べること=生きることであったはずである。飢えることが一番の難儀だったはずだ。だから豊かな時代になっても人は食べることにこだわり、時間を費やしてきた。しかし、そんな人間の本質を悪い意味で覆してしまったのがインスタント食品ではないのかと「まんぷく」を見ながらふと考える。勤務先が近くなったのでこのところ、まんぷくヌードルの開発物語を見ている。
ふくさんのへんな大阪弁も気になるが、まんぷくラーメンとまんぷくヌードルが日本の、世界の人々の生活を変える画期的な発明品だと豪語する萬平さんの言葉にも引っかかるものがある。
確かに日本人の生活を変えてしまったかもしれないが、それはよい方向だったのか、悪い方向だったのかといえば、それはきっと悪い方向であったのではないだろうか。インスタントに続いてレトルト、中食というような惣菜。便利にはなったけれども自分の食べるものを自分で作らなくなった人がかなりの部分を占めるようになったころからこの国はおかしくなってきたのではないだろうか。
その究極が、それらが大量に売られているコンビニだろう。僕が偉そうなことを言えるものではないけれども、自ら食料を調達し、そしてそれを作ることが人と人をつなぎとめ、世代をつなげていくものではないのだろうか。それを他者にゆだねてしまったのが今の日本の姿のように見える。今では僕も含めて、スーパーで売られている食材が、どこか来てどんな過程を経てここに並んでいるかを知っている人はほぼゼロではないろうか。
コンビニでしか食べるものを買わない人間にはろくな奴がいないと僕は常々思っている。そして、夜明け前のスーパーの中をうろついている奴は僕を含めてどう見ても怪しい奴ばかりだ。
この本を読んでいても、“ホモ”がついた我々の仲間は今まで200万年は生き続けてきたことになっている。それは食べるものを自ら見つけ、食べる方法を自ら見つけてきた結果に他ならない。そこに知恵を絞り続けたものが人類の系譜であると言えるかもしれないではないか。しかし、これから先、ホモ・サピエンスはどれだけの年数を生きながらえることができるのだろうか。人工知能とのせめぎあいのその前に、ごはんを作らなくなったからという理由で絶滅してしまうのだということになってしまうのではないだろうかといらぬ心配をするのである。
「我々はどこから来て、どこへ行くのか。いつの時代でも、どこにいても、人はそういうことを、その時その場の知識や利用可能な知的道具に応じて問うてきた。」
この本の最初のあたりに書かれている文章だ。
確かにそのとおりで、この歳になってくると、どこから来たのかはともかく、自分がこの世からいなくなったあと、人類はどうなっていくのかということにはものすごい興味がある。そして未来を知るためには過去を知らなければならないのである。
まあ、自分が死んでしまったらあとはどうでもいいじゃないかとも思うのだが・・。
本のタイトルは非情に興味をそそるものだが、そのタイトル通りの部分は最後の1章だけであとは、ジャワ原人についての発掘の物語や人類史の中の位置づけについて書かれている。普通なら肩透かしを食ったんじゃないかと思ってしまうのだが、著者の文章の読みやすさと詳しい解説のおかげでけっこう面白い。これもちゃんとタイトルでわかるといえばわかるのだけれども・・。
主な内容は、国立科学博物館の人類進化学者・海部陽介博士のジャワ原人に関する研究を著者がたどってゆくという内容である。
まず、サルから人類までの進化の道筋を簡単にたどるとこうなる。
初期の猿人→猿人→原人→旧人→新人
初期の猿人というのは教科書にも載っていなかったのではないだろうか。ラミダス猿人というのが有名らしい。450万年くらい前にエチオピアで生活していたそうだ。
次の猿人というのは教科書にも必ず載っていた、アウストラ・ロピテクスという種族だ。これが200万年前くらいまで。最後のほうでは簡単な石器を使っていたそうだ。次に原人。ここから学名に“ホモ”が付く。人類に限りなく近い種族になその中のひとつの種族がホモ・エレクトス=ジャワ原人である。昔、「ピテカントロプス」と言われていたのはこのジャワ原人や北京原人だそうだ。そして旧人はネアンデルタール人が有名、新人はホモ・サピエンスだ。
海部博士は、そのジャワ原人がホモ・サピエンスにどうつながっているのか、どこからやってきたのか、そして、21世紀に入って新たに発見されたフローレス原人という新たな原人(インドネシアのフローレス島で発見されたかなり小型の原人)についての研究をおこなっている。
ジャワ原人や北京原人については頭蓋骨の頭のほうや顎の骨しか出てこないのでわからないことのほうが多いらしく、その情報を補うべく、現代人の骨格を人種を超えてくまなく調べ、それと比較してこの原人は人間の祖先なのか、そしてどこから来たのかということが研究されているのだ。
結論だけまとめると、猿人から新人まですべてはアフリカが起源の別々の種族であり、生まれ出てはアフリカを脱出し、少しずつ勢力範囲を広げてきたが最終的に生き残ったのはホモ・サピエンスだけであった。ということになる。
それぞれの人類が存在した期間はかなり重なっていて、同じ地域に混在していたのは事実のようだ。ホモ・サピエンスも20万年前に誕生して世界に拡散したということだから我々の直系の祖先も彼らと同じ時期に存在していた。では、どうして最後に我々だけが残ったのか。「闘争説」「気候変動説」「噴火説」「疫病説」「異種交雑の結果説」「学習能力の違い設」など色々な説があるらしいが、最もセンセーショナルで説得力がありそのなのが「闘争説」だ。と言ってもそれは世界の歴史=戦争の歴史みたいなものだから先入観的にそう思ってしまうが、後発のより少しだけ環境に適応した生物はその前にいた生物を駆逐してしまうというのは当たり前のように繰り返されてきたことらしい。セイヨウタンポポが在来のタンポポを駆逐したという例が語られている。
それに加えて、海部博士は、あとから広がってきたホモ・サピエンスにそれぞれの地域で限定的とはいえ、元いた人類との混血がおこなわれながら現在の人間が出来上がったと考えているそうだ。
ヨーロッパでは、ネアンデルタール人とホモ・サピエンス(クロマニョン人)との混血の事実が明らかになっていて、オーストラリアのアボリジニにはジャワ原人の骨格の特徴が見られるそうである。
ホモ・サピエンスはどうしてそこまで世界中に広がることができたのか、著者はその答えとして、それまでの人類は環境に適応して体が変化してきた(これは動物と同じ進化の仕方だ。)けれども、ホモ・サピエンスは肉体を進化させずに技術で環境に適応し、また環境自体を変えることができた。だから同じ人々が世界中に広がることができるようになったと言う。
確かにこれは目からうろこというか、言われてみればもっともな考えだ
しかし、タンポポの例では、日本の在来種のタンポポは消滅したわけではない。でも、人類は1種類を残して滅んでしまった。そこにはきっと、神様が決めたのかどうかはわからないけれども、「知性を持つものはひとつの星に1種類しか存在できない。」というような法則がこの宇宙にはあるのではないだろうかと考えてしまう。人工知能がこれから先、どんどん発達してくるとやはり今度は人間がネアンデルタール人のような立場になる日も来るのではないかと思うのは考えすぎだろうか?
「食べることは生きること。」これは朝の連ドラ「ごちそうさん」のテーマになっている言葉だが、ほんの数十年前まで、まさに食べること=生きることであったはずである。飢えることが一番の難儀だったはずだ。だから豊かな時代になっても人は食べることにこだわり、時間を費やしてきた。しかし、そんな人間の本質を悪い意味で覆してしまったのがインスタント食品ではないのかと「まんぷく」を見ながらふと考える。勤務先が近くなったのでこのところ、まんぷくヌードルの開発物語を見ている。
ふくさんのへんな大阪弁も気になるが、まんぷくラーメンとまんぷくヌードルが日本の、世界の人々の生活を変える画期的な発明品だと豪語する萬平さんの言葉にも引っかかるものがある。
確かに日本人の生活を変えてしまったかもしれないが、それはよい方向だったのか、悪い方向だったのかといえば、それはきっと悪い方向であったのではないだろうか。インスタントに続いてレトルト、中食というような惣菜。便利にはなったけれども自分の食べるものを自分で作らなくなった人がかなりの部分を占めるようになったころからこの国はおかしくなってきたのではないだろうか。
その究極が、それらが大量に売られているコンビニだろう。僕が偉そうなことを言えるものではないけれども、自ら食料を調達し、そしてそれを作ることが人と人をつなぎとめ、世代をつなげていくものではないのだろうか。それを他者にゆだねてしまったのが今の日本の姿のように見える。今では僕も含めて、スーパーで売られている食材が、どこか来てどんな過程を経てここに並んでいるかを知っている人はほぼゼロではないろうか。
コンビニでしか食べるものを買わない人間にはろくな奴がいないと僕は常々思っている。そして、夜明け前のスーパーの中をうろついている奴は僕を含めてどう見ても怪しい奴ばかりだ。
この本を読んでいても、“ホモ”がついた我々の仲間は今まで200万年は生き続けてきたことになっている。それは食べるものを自ら見つけ、食べる方法を自ら見つけてきた結果に他ならない。そこに知恵を絞り続けたものが人類の系譜であると言えるかもしれないではないか。しかし、これから先、ホモ・サピエンスはどれだけの年数を生きながらえることができるのだろうか。人工知能とのせめぎあいのその前に、ごはんを作らなくなったからという理由で絶滅してしまうのだということになってしまうのではないだろうかといらぬ心配をするのである。