写真①:渡宋天神伝説にちなむ「伝衣塔」(解説板の右側)
=太宰府市・「国博通り」沿いで、2013年3月2日午前11時30分撮影
〈福岡・町歩き〉・「太宰府天満宮」参道探訪 4
:伝衣塔と梅壺侍従蘇生の碑
「光明禅寺(こうみょうぜんじ)」の近くの国博通り沿いに、同寺を創建した菅家(菅原道真家)の生まれとされる鉄牛円心(てつぎゅうえんしん)和尚にまつわる渡宋天神(とそうてんじん)伝説の「伝衣塔(でんえとう)」=写真①=がありました。鉄牛円心和尚は、博多の「承天寺」や、京都の「東福寺」を開山した「聖一国師(しょういちこくし)」の弟子で、国師の伝記・『聖一国師年譜』を執筆したことでも知られています。
「伝衣塔」そばに太宰府市が建てた解説板には「鎌倉時代のこと、大宰府横岳の崇福寺(そうふくじ)にいた聖一国師の夢枕に菅神(かんしん=菅原道真公)が現われ禅の教えを問うた。そこで国師が宋(中国)の仏鑑(ぶっかん)禅師を紹介したところ、菅神は一夜のうちに宋に渡り、忽ちに悟りを開いて戻って来られたという。渡宋天神の話であるが悟りの証にもらった法衣を聖一国師の弟子の鉄牛円心和尚が納めて建てた塔が伝衣塔であり、その時創建された寺が光明禅寺と伝えられる」と書かれています。
この「菅神は一夜のうちに宋に渡り、戻って来られた」伝説にあやかりたいと、昭和の出征兵士に贈る千人針に「伝衣塔」の苔を取って縫い込んだため、苔が無くなったという悲しい戦時の逸話も伝えられています。
「伝衣塔」の近くの藍染川には、「梅壺侍従蘇生の碑」という伝説の石碑=写真②=もありました。太宰府天満宮の神官中務頼澄(なかつかさよりずみ)を慕い、筑紫に下った京女梅壺が頼澄に会えないのを嘆いて「光明禅寺」の前を流れる藍染川に身を投げたため、頼澄が天神様に祈ったら蘇生したという。
写真②:蘇生伝説ゆかりの「梅壺侍従蘇生の碑」
=2日午前11時30分撮影
藍染川という雅な名前には、なにやら謂れがありそうだな、と思って調べてみましたら、古くは「愛染川」とも書かれ、古来、和歌や謡曲にも詠われたそうで、梅壺が身を投げる舞台にふさわしい川でした。「藍染川」の案内石注=写真③=が「光明禅寺」の山門前に建っています。表通りの太宰府天満宮参道を外れ、九州国立博物館へ通じる裏通りの「国博通り」で、こうした「伝衣塔」や「梅壺侍従蘇生の碑」のミステリアスでロマンあふれる伝説に巡りあえるのが、町歩きの楽しみです。
写真③:「藍染川」の案内石注
=「光明禅寺」の山門前で、2日午前11時35分撮影