吉村青春ブログ『津屋崎センゲン』

“A Quaint Town(古風な趣のある町)・ Tsuyazaki-sengen”の良かとこ情報を発信します。

2016年3月21日/〈福岡・町歩き〉016・「大己貴神社」界隈

2016-03-21 05:04:54 | 福岡・町歩き

 

写真①:松尾芭蕉の句碑と平成23年に筑前町教育委員会が立てた解説板

     =福岡県筑前町弥永字大神屋敷の「大己貴神社」で、2016年3月15日午前11時20分撮影

 〈福岡・町歩き〉016

 :「大己貴神社」界隈

  3月15日初参拝した福岡県筑前町弥永(いやなが)字大神(おんが)屋敷の「大己貴(おおなむち)神社」境内に、松尾芭蕉の句碑=写真①=が建てられていました。

  石の句碑には、芭蕉が江戸深川のご本松で詠んだ〈川上と この川下や 月の友〉という句が記されています。そばにある筑前町教育委員会の解説板によると、願主は弥永の柳絮庵五滴(りゅうじょあんごてき)といい、江戸後期の文化5年(1805年)に建てられたとありますが、文化5年は正しくは1808年なので、あるいは文化5年は文化2年(1805年)の誤記かもしれないですね。

  解説板には〈世話人は、弥永の蘭稲(らんとう)、扇路(せんじ)、芝風(しふう)、下淵(したぶち)の淵魚(えんぎょ)、天民(てんみん)の五人で、柳絮庵五滴とは柳絮庵で五人の弟子(五滴)が育ったという意味でしょうか。このころ、当地方にも俳句をたしなむ文化人が集い、芭蕉を俳聖とあがめていたのでしょう。芭蕉は、江戸時代の正保元(1644)年に伊賀上野で生まれ、江戸に下って桃青(とうせい)と号しました〉と書かれています。句碑には、俳聖とあがめたことがうかがえる「桃青神」の文字も見えます。

  「大己貴神社」そばの駐車場の東側には、同神社の祭神・大己貴神(おおなむちのかみ。別名大国主神)説話のイメージをもとに、『古事記』に載せられている「因幡の白兎」や「ヤマタノオロチ」などの神話にちなんだ遊具を設置した「筑前町歴史の里公園」=写真②=がありました。

  

写真②:「筑前町歴史の里公園」の案内板

     =筑前町弥永谷口で撮影

  駐車場の隅には、平成23年に筑前町教育委員会が立てた「神功皇后と羽白熊鷲(説話)」の解説板もあります=写真③=。それによると、羽白熊鷲(はじろくまわし)は昔、筑前町一帯を支配していた豪族で、朝倉市秋月の「荷持(のとり)」(野鳥)に本拠を構え、白い鳥の羽根を付けて鷺舞いを演じ、まつりごとを行う鳥装の司祭者でした。ある年、九州に来て香椎(福岡市東区香椎)に宮を定めた神功皇后が、朝鮮半島の新羅と戦うため各地の豪族に命令して多くの兵を集めた際、熊鷲は命令に従わなかったことから、皇后軍に征服されたという。

  解説板には〈皇后は熊鷲を征服し、「我が心安し」(私は安心した)と語りました。この「安」が当地方の郡名起源とされ、後に「夜須(やす)」(郡)の二文字に改められました〉と記載。私は福岡県警担当の事件記者時代、汚職事件の内偵取材で夜須町の有力者宅に朝駆けしたことがあり、「夜須町」って妙な町名だなと思った記憶が残っており、この説話で町名のいわれに納得がいくとともに、夜討朝駆けに明け暮れた若かりし察回り記者のころを懐かしく思い出しました。

 

写真③:「神功皇后と羽白熊鷲(説話)」の解説板

     =「筑前町歴史の里公園」で撮影

  さらに、解説板は〈熊鷲平定後、新羅出兵の兵士はなかなか集まらず、皇后は「大己貴神社」(大神屋敷=おんがやしき)に社を建て、矛をささげました。これは、勝者が打ち込んだ楔、あるいは熊鷲への鎮魂だったのでしょうか。いずれにしても、熊鷲という在地豪族がヤマト(中央)政権に組み込まれていく過程を物語るのでしょう〉と感慨深く説明。途中下車気分で立ち寄った筑前町で「大己貴神社」や羽白熊鷲の説話に思いがけなく触れ、興味深い小旅行となりました。

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