気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

虚空の舟 その2

2008-04-05 17:24:39 | 偉大なる先達の言葉

虚空の舟、第2回目です。

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力もない

何一つ成就することなく、どんな評判もない

誰を裁くこともないゆえ

誰一人彼を裁きはしない

こんな人こそ完璧な人

その舟は空っぽだ

これがあなたの航路となる

自分の舟を空(から)にしなさい

舟の中でみつかるものは

それが何であれ投げ捨てていくがいい

何も残らなくなるまでつづけなさい

何も残さないことだ

あなたの存在はただ空っぽになるだけだ・・

最初にして、最後のこと、それは空っぽになることだ

ひとたび空っぽになったなら、あなたは満たされる

あなたが空っぽのときには

<すべて>があなたの上に降りてくる

虚空だけが

<すべて>を受け取ることができる

ほかのなにものでもない

なぜなら

<すべて>を受けとめるためには

あなたは空っぽに、いっさいの境界線のない

虚空になっていなければならないからだ

そうしてはじめて<すべて>が受けとめられる

あなた方の頭(マインド)はあまりに小さいから

<神性>を受けとめることはできない

あなたがたの部屋は小さすぎて

<神性>を招待することはできない

・・・・・・・・・・・・・・

みじめな気持ち、 怒り、 自我、 嫉妬、 苦しみ、 痛み、 快楽

見つかるものは何でもだ

すべて投げ捨てなさい

どんな区別もしないで

選択などいっさいしないで

ただ自分を空にするがいい

そしてあなたが全面的(トータル)に、空になったとき

突如としてあなたは全体であることを

<すべて>であることを見るだろう

虚空を通じて<全体>が達成される

---------------バグワン・シュリ・ラジニーシ(虚空の舟)

この言葉のなかに、我々がいま必要な真髄が現れています。色々なものに依存している我々は重りを付け合って眠っているのでしょうか。子供のような心をもった自由な存在だけが、「何でもない人」として、「なにももたない人」として、本当に目覚めているのかもしれません。いや、間違いありません。魂のレベルでは決して誰にも依存していない、キラキラした瞳をもった子供達はそれを教えてくれるでしょう。子供達は虚空の舟のようです。

 

 自我(エゴ)というのは、今回生まれてからの一連の記憶と、この社会で生きるために蓄積した、個人個人の一時的な価値観の集合のことでしょう。それにしてもそれぞれ千差万別ですが、いづれにしても一時的な体験集であり、我々が後生大事に、一生を賭けて追いすがるべきものではありません。それらは体験・修行なのです。地位も、名誉も、富も、肉体も、快楽も、怒りも、悲しみも、体験修行でしょう。それを体験する生きとおしの「存在」がいわゆる「真我」であり、それを経験・学習している存在そのものであり、「私」といえるでしょう。外に気を取られている、本当の自分とも言えるでしょうか。

 マインドというのは日常の五感感覚を元にした、心の働きの全てのことを言います。暖かい、冷たい、痛い、気持ちいい、不快な、嫌な、・・ありとあらゆる感覚・感情・考え・思い等のことです。これも生まれてからこれまで、個人個人で蓄積した相対的なものといえます。外の世界への依存は執着であり、いわゆるカルマの要素なのでしょう。外の世界のありとあらゆる体験自体に、なにか神聖なものがあるという錯覚でありそうです。

 外の世界の経験は、それらが仮想のものであるという、気付きを促すためのものでしかありません。神聖なのは体験する内容ではなく、外の世界の移り変わりを体験している「私」であり、あたかも虚空のようです。人生が、どんなものも、結局は全てありがたいというのは、それを経験している本体:真我を思い出すことが出来るからです。その真我は、この相対的な時間・空間のどこにもない・空(くう)であることに気がつくでしょうか。

 その時々で、あれだ、これだと自己同化を繰り返している自分、その自分を生かしている、意識・働きそのものが本当の私であるのでしょう。あれでもない、これでもない・・と言っている私そのものは、不変であり空であるといえるのです。空(くう)は宇宙すべてを含んでいるのがわかれば、自分が全体であることもわかるはずでしょう。 空(くう)は全てを含むから空(くう)であり、どんなことも在り得る無限の可能性のことでしょう。無限に発散して消えてゆくという間違ったイメージは、これまたマインドの幻想です。

 今ここに在る、ということは永遠に在るということであり、そうであれば、一体何を得る必要があるのでしょうか。マインドは物乞いのように、あれこれ求めて築き上げ、いつも虚しく消えてゆきます。いつも後に残るのは、その人生の記憶のみです。

 今が永遠であるということは、言葉の遊びでは決してありません。事実そのとおりであるわけです。理由などないのが永遠の私なのです。必要なことは、今この瞬間、それに本当に気付くことだけなのでしょう。

私は本当にそう思っています。