気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

いつもある「私」

2008-04-12 10:53:51 | 今大切な禅の言葉

「求心やむ処、即ち無事」 (臨済禅師)

  外に求める心がなくなり、自分の内なる純粋な魂(仏性)と出会うことが出来れば、その人は無事であり、おのれの尊さに真に目覚めることになる。

 

●いつも今、気付いている存在・「私」

私とは、今この瞬間に気付いている状態を表しています。私は今、いつもの生活空間にいることを知っています。

今日も外は明るく、太陽が出ており、風があり、人々はそれぞれ動き回り、昨日と同じように、そこに存在していることに気づきます。毎日毎日少しづつ変化していながらも、いつもそれを認識するのは、この「私」という存在です。今生きている・・という自覚ともいえます。

環境を認識するのは我々の五感感覚、思考、想像というもので行なわれていますが、それらの働きを通じて、その外の世界を外の世界であると認識しているのは、いつもこの瞬間にある「私」という存在形態です。

このように、いつも在るのは「私」という気付きの状態です。感覚、触覚、思い、想像などは、私というこの瞬間にある存在形態を形作るツールであるとも言えます。心地よい感覚、不快な気持ち、熱い思い、不透明でぼけた思い、昨日の回顧、明日の予定の想像、それらは全て 「私」 が行なっていることに気付くはずです。

●自分の発見とは意識的になること

「気付くこと」は、何かを新たに感じることであり、言葉を変えて言えば、何もないともわれるところから、何かを抽出してくる行為であり、それが日常の出来事にピッタリと当てはまるかどうかは別として、今までにないものを、今ここに描き出す行為とも言えます。道端に咲いている花を意識して見ると言う行為をしなければ、そこにあっても無いがごとくに通り過ぎてしまうでしょう。

我々が今生きている・・ということに、我々は意識的に気付いているでしょうか。そこにあると言われるものでも、無意識的に通り過ぎていないでしょうか。それらは当たり前の事として、自分の背中の方に追いやってしまっていないでしょうか。私という第1義的な気付きを、忘れていないでしょうか。私は今、生きてここにある!ということが忘れ去られていないでしょうか。

●雑踏という外の世界

当たり前のことに飽きてしまい、外の世界の刺激や夢や恐怖ばかりを追いかけていないでしょうか。「私」という第1原因をすっかり忘れてしまい、外の多くの雑多な、ごちゃごちゃした雑踏の中に入り込んでいないでしょうか。雑踏の世界に入り込み、それを理想の世界に変える夢をもっている場合もあれば、その雑踏にがんじがらめになっていると思い込み、泣き叫ぶ場合もあれば、雑踏の中のアブクのような、富や名声にしがみついている場合もあるでしょう。

雑踏というのは、多くの人間が作り上げる共通観念の世界であり、幸せや安心が外の世界にあると信じる集団の作り出すものです。その雑踏の中には、当然「私」という第1義的な原因者などに気付いている人など少ないわけで、全て空虚な中に何かを求めて騒いでいる人達ばかりがいることになります。働き、怒り、嘆き、疲れる経験を繰り返していながら、それを体験している「第1義的な私」を忘れているようです。これに気付くまでは、雑踏の中でもまれ、疲れ果て、心がぼろぼろになりながらも耐え忍んでいる状態が続くでしょう。あたかも苦しいのが誰しも当然であり、それを耐え忍んで、雑草のようにのし上がり、周囲を睥睨するようになることが強い人間であるという、最もらしい暗示の曲も流れています。・・・そうだ、苦しくとも頑張るんだ、それが生きる道である、と言う考えが、雑踏をさらに大きくしていくことに気がつくでしょうか。一見もっともらしい世間的な常識ですが、なぜ苦しい生活をしなければならないのか?という疑問が出るほどの余裕もない異常な状態にいるのだということに、気付く人はそう多くないかもしれません。

●遊び好きな放蕩息子の集団

例えで言えば人類の多くが無意識的に放蕩息子になっているのかもしれません。今ここにある私という第1義的な存在原因を忘れて旅に出て、何処か遠くを探し回る人達の大集団のなかで浮かれ、踊り、悲しみ、苦しむなどの経験しているようです。その集団の中では、いつも誰にもある価値観は「他人」です。人に言われ、人に誉められ、人にいじめられ、人に殺され、人に助けられる、人の政策に問われ、人に騙され、人に貢がされ、人に与えられる。それらの連綿としたシステムの中でもまれているのが見えないでしょうか。

それらの遊びもそろそろ終わりにしていいのだと思いませんか。次から次に参加してくる人々はその人々の必要な経験をしたくてやって来るわけであり、いつもある「私」に気付いた存在は、もうその遊びから外れてもいいのではないかと考えます。気がつけばいつも、無限に近くにあった「私」という存在に戻る時間でしょう。放蕩三昧も良い経験でした。その遊びをする為のキーワード「外の世界」をポケットにしまって、自分というお家に戻る時です。

●五時の帰宅の鐘がなっている

我々は数千年に渡り、放蕩息子の世界を経験してきたようです。考えられることはなんでもありの世界を経験してきました。その世界自体を一瞬に壊すほどのエネルギーも、そのパワーゲームの途中で作り上げています。なんでもありの世界にさらに心までも破壊するエネルギーもボツボツと出来てきています。天地の動きに衝撃を与えるようなおもちゃも出てきました。それらはもうこれ以上の遊びが遊びで無くなることを示しているでしょう。なんでもありの遊びの中から、遊びそれ自体を壊してしまうものが出てきた時点で、そのゲームは終わりになるのは当然の理解ではないでしょうか。

●自分に戻る時間

我々は良く遊びよく学んだのです。いつまでも1つの遊びにこだわる必要はないでしょう。何でもありの遊びの場を提供し続けてくれたのは、この母なる地球です。我々が表層のこの肉体を基点として、多くの時代、時空を認識し、記憶で育てて来れたのも、天地たる父母の許し、宇宙の愛のおかげです。

母なる大地、父なる天はこう言っているようです。

「良く遊び、良く学びました。満点です。父母もおかげで大きく成長できました。父母も変っていきます。皆さんもいったん自分に戻って、新しい学びに行く準備をしてくださいね。いつもあなたはあなたであるので何も心配などありません。ほら、今ここにいつも在るでしょう。それに気付いているでしょう。」