気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

地球という3次元劇場 第1章

2007-12-22 09:07:06 | 新地球文明論

 地球の現状を演劇の催しで例えれば、最後の感動的なフィナーレのステージに近づいているような感じがします。科学や技術の進展、インターネットなどのコミュニケーション網の普及により、イメージの伝達や相互作用が迅速に行われるようになり、人間の表面意識の中では、地球が小さな丸い演劇舞台のように感じることが出来ます。いにしえの時代から今まで、何度もロングランを記録した、宇宙に浮かぶ小さくて丸い、古い経歴を持った演劇場のようです。

 通常の演劇では、1幕2幕という舞台転回が行われ、お話しに合わせた象徴的な背景が用意されます。地球という舞台背景も次第に変わっていくでしょうか。ストーリー展開も次第次第に緊張をはらみ、見方によっては感動をも予感する圧縮された、息詰まる雰囲気を感じられる事態になってきたようです。今までわからなかった色々な仕掛けの謎解きや悪役の登場、主人公達の苦悩と解決への模索、それらを取り巻く群衆のささやきが聞こえます。舞台の照明演出は穏やかな青と白から、風雲急を告げるかのような夕焼けの色になってゆくかも知れません。

 ここの舞台に踊る何十億という登場人物たちの中には、練習したシナリオをどこかで憶えている者や、参加だけのエキストラ、憧れの舞台俳優への夢を持ったやって来た若い俳優のたまご達が大勢います。皆それぞれ真剣に各自の演技をしているようです。それぞれの衣装をまとい、それを引きずるように汗をかきながら動きまわっています。全員真面目な出演者であり、各自のシナリオを思い出そうと努めながら、それなりの役目を毎日という時間枠の中で演じています。あなたや私もその中の1人でしょう。

 この地球劇場で催される出し物のシナリオは観客にも全く公開されていないため、憶測が憶測を呼び人気を博しているようです。照明が暗くされた観客席は、舞台から見えないようになっている為、あたかも暗い漆黒の空間に浮き出た地球のように見えるでしょう。演者たちから見れば、地球劇場は漆黒の宇宙空間に孤独に浮かんでいるように感じています。

 さてこれから、この地球劇場でのお話しはどのように展開してゆくのでしょうか。以前のアトランティスとムーの時代のストーリーと何処が違うのでしょうか。それらの歴史の余韻かもしれないタッシリ・ナジェールに残された緑溢れる沃野の記録、カッパドキアの洞窟、マハーバーラタ・ラーマーヤナの峻烈な愛と戦いの物語等とどう違うのでしょうか。アルプスで氷ったまま発見された古代人はなにを言いたいのでしょう。竹内文書はこの劇場の歴史を案内した古くからのパンフレットなのでしょうか。

 竹取物語のオキナとオウナはかぐや姫を連れて月に還って行きました。古くからの神話や伝説が、新しい神話や伝説に生まれ変わって、次の地球舞台のストーリーとして現れてくるかもしれません。悲しみをも含んだ古き過ぎ去った物語から夢をもらって、新しい物語として生まれ変わってゆくということが1つのヒントになるかも知れません。

今後の地球劇場のストーリーは、登場人物たる我々自身が、自身のシナリオを創っていることに気付く時に、少しづつ解って来るような気がしてなりません。


極限の行から見える真の智慧(投稿)

2007-12-20 20:01:47 | 投稿記事

(投稿記事 no.2)

投稿者 P

前記事に引き続きです。浅田真生選手云々を取り沙汰しましたが、前提として彼女の余りある才能とそれを導いた前世からをも含む努力に「敬意」を評したいものです。そこまでの努力が、1位になりたいなどの執着によって力が全部出し切れないのは残念ですが、あれだけのミスをして僅差の2位というところに彼女の極限の行に対する神の果報を感じます。そして、失敗は、智慧の宝庫であり、極限の行を積んでの失敗は宝石庫のようなもので、彼女ならそこからいつか「気づき」という「宝石」を得ることでしょう。
かつて柔道男子でYという選手がおりました。何百連勝したそうです。そうして連勝したまま柔道を辞めたそうです。一方でSという選手がなかなかYという選手に勝てませんでした。両者は共にオリンピックで金メダルを取ります。Y選手とS選手の直接対決では、僅差の判定でY選手が勝って、この試合は疑惑の判定だなどと取り沙汰されました。この両者を比較した時に、私の直感ですがSという選手の方が、良い指導者になります。良い指導者になるというだけでなく、多くの有用な人生課題を見つけだすでしょう。私に言わせれば、Y選手のように何百連勝して負けずに引退すると、その高みからしか後進の指導ができなくなる恐れがあります(過去の結果に執着する余り、一方向性からしからしか物事が見えない可能性あること及び結果からの慢心)。それはとても危険なことです。指導にも深みが出てこない、何故相手が練習しても伸びないのか?挫折するのか?理解できなくなる危険性があります。これに対し、才能があって、究極の練習という行を積み、尚負けたり挫折したり、怪我したりする、S選手や浅田真生選手がそうですが、そうした失敗や挫折は、とても大切です。そもそも人間は、他者との相対的相克の中に新たに自分の修行課題を見つけよう、及びその中に「愛」を育もうと生まれてきたように思います。自分の子供を慈しみ育てるように他者にも接することが愛の一部とするなら、他の人の成長に寄与したいと思うのが当然かと思います。他の人が失敗して困っている、執着して引っ掛かっている、これらを救うには、数限りない「失敗の経験」と「失敗から脱却する智慧」が必要となります。及び挫折し失敗して打ちのめされている「意識(心)=モチベーション」をどう持ち直すのか?そこが問われるように思います。「後進の指導」は、引退した選手の「愛」の実践として有用な道となりますが、その時には必ず上記の失敗が有効となるでしょう。
我々は、大いなる失敗をすれば良いと自信を持って歩めばよいように思います。究極の行により限界の壁に頭を打ち付けましょう!壁を見て下さい。「失敗」「挫折」のプレートが貼ってありますが、破壊された壁からは「智慧」の宝石が転がり落ちることでしょう。ちなみに筆者は失敗だらけの人生ですが、しかも拾ったはずの智慧の宝石をたまにトイレに流してしまいます。気をつけたいと思っております。


相対主義と絶対主義(投稿)

2007-12-18 20:35:24 | 投稿記事

<コメントをして頂いている方の了承を得て、たまに記事にさせて頂いています。今という時間を分かち合っているみんなの、ちょっとしたパフォーマンスの空間です。(^^)>

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投稿者:P

 スケートの世界大会を見ていました。浅田真生という天才選手がいますが、最近調子が思わしくないようです。この様子を良く見ていると、努力した結果をどのようにすれば「競技」の「本番」に出せるのかについて一つの「気づき」があるように思えました。そもそも個性も能力もばらばらの者が一同に会してコンペティッションを行うこと、これが、競技であり競争であり、自己を相対化にさらし、一部の者が競争に勝って高い順位を勝ち取ることにより、自己実現を肯定化する「現実」的な「場」であります。しかるに人間の成長の場として捉えるなら、競技の結果は目的ではなくまた一つのプロセスであると言えます。さらに、この競技の場を持って意識レベルの成長の場としたいところです。かつて天真爛漫だった15歳の頃の浅田は、自分の演技にのみ集中していたようです。インタビューでも「自分の演技」が「ミスなく終わりたい」と発言していました。しかるに最近の浅田は、ショートプログラムという前半の競技結果の点数の他者との差から、フリープログラムにて挽回可能かどうかばかりを気にし始めています。彼女の不振の原因はここにあるように思います。前半の点数がこうで、他者との点数差がどうで、よって挽回可能か否か?彼女の意識は相対主義(他者との比較)の中にあって、絶対的自分の中には、なかったようです。つまり意識の焦点が、自己の中になく外部化し、結果として本来の肉体的潜在力を心(意識)が妨げ、現状の潜在力すら出せていない結末に陥っているように思えました。転じて、1位となった韓国のキム・ヨナですが、彼女の意識は「自分」がどこまでできるか?により集中できていたようです。また自分らしくない「大人の女性」をきどったりもしません。他の選手が演技中もその結果を一顧だにしないように見えました。彼女は、他でもない「今の自己」の中に「安立」していたのです。スケートを滑る能力において甲乙つけがたい二人ですが、両者の違いは、これだけであり、そしてその差が全てであったように思われます。
上記を教訓に、個々人が、このかけがえのない今の3次元において、内在神たる意識の発露を見出すにはどうすれば良いでしょうか。他者からの相対的情報それも特に個々の能力を階層化し否定するような情報に圧倒されるのではなく、絶対的な自己の位相を「今」に見極め、その少し先の意識進化した自分をイメージし、誘導することにより、意識次元をより速やかに高める結果が得られるのではないでしょうか。我々は、魂の「経験」から来る「力の発露の有限性」ではなく、「智慧」から来る「力の発露の無限性」に「今」の「自己」の存在軸をシフトしたいものです。


恐怖から目覚める時

2007-12-16 14:13:06 | 色々な気付き

●目覚めるということ

 目覚めた存在、という表現があります。どういう意味でしょうか。辞書を引かないで自分なりに理解出来るでしょうか。覚醒した意識状態という表現もあります。目覚めと同じ意味でしょうが、どういう意味でしょうか。 悟った精神という表現があります。これはどういう意味でしょうか。悟りを開いた人の精神状態なのでしょうか。

 難しいことだろうと思うのですが、あえて難しくしない方がより理解が進むかもしれません、膨大な知識による見識である・・という風に理解すれば、相当な知識の集積が必要ですし、簡単なものではありません。人間として最高の意識レベルである・・という理解であれば、その高みに上る必要があり、遥かな山を目指すことになり、ちょっとやそっとで到達できるものではないでしょう。永遠の課題を眺めて何もしないより、身近な課題からちょっとづつ近づく方がいいかもしれません。

 目覚めや悟りが遥かに難しいことであるという、自他の刷り込みがあるようです。目覚めや悟りは、釈迦やキリストその他聖賢達の、想像を絶する生涯を再現することではないはずです。実は、彼らが苦労をしたのは、目覚めが身近なものであるということを、いかに理解してもらうかという事に尽きるのだろうとも考えられます。

●恐怖のおもちゃ遊び

 何処か自分の外に支配者たる神がいて、間違いを犯せば罰を与えたり、死んだあとに責め苦があったり、閻魔帳を片手に断罪される、等というイメージが集合無意識に記憶されてレコード針によって常に再生されているようなものです。「罪と罰」はそれを回避するためのものであり、やってはいけないことをさせないための方便としての理解もあるわけですが、なぜやってはいけないのかという理論的な理解が欠けているのが判ります。ダメはダメ・・というわけです。理解出来ない者になにを言ってもダメなので、脅して強制するしかない、従って恐怖が役割としてあちらこちらに登場します。そうして恐怖は我が物顔で人々を支配してゆくようなシステムになっているのでしょう。・・これが今までの我々の歴史の底流に、大きく網を張ってきたものといえます。負ける恐怖、死ぬ恐怖、失敗する恐怖、生活苦の恐怖、孤独の恐怖・・・数え上げたらきりがありません。誰しもすべてを既に経験しているので良くわかります。

はっきり言えばこれらの恐怖は、結構なおもちゃのようなものでしょう。それらを後生大事に生死を繰り返しながら持ってきました。そんなもの持っていたくないのにも関わらずに。そんなもの要らないと言いながら、いつも持っているのです。これも良く考えれば不思議なことです。それとも何者かに無理やり持たされているのでしょうか。

●腹をくくって捨て去る

 腹を決めてしまえばいいのではないかと思われます。心配しても恐れても、何も得られないどころか、がんじがらめになるのが判ったわけですから、少なくともそんなものを手放せばいいんだと思います。・・そんなこといっても、それが出来れば苦労はない・という自分の中から声が聞こえてきそうです。その声でまた繰りかえし再生モードになるのでしょうか。誰かのせいにして。

 腹を決めるというのはさっぱりとあっさりと捨て切ることかも知れません。1つにはすべてを肩から下ろしてしまうこと。1つには、今生きている事実、このシンプルな事実に感謝することに集中することだろうと思います。1つには生死を含む宇宙の仕組みの知識を得ることでしょう。1つにはすべてが根本では愛に基づいたものあるからこそ、こうやって我々は常に生きているのであると感じてみることでしょうか。確かそうだったと実感できれば、ひょっとしてそれが目覚めたことになるのだろうとも思います。

 目覚めや悟りはゴールなんかではなく、新たなスタートラインであり、新たなる歩みの合図でしかないわけです。終わりなき生命を喜んで体験している者にとっては、少なくとも、もう「怖い怖い」死の恐怖というおもちゃ遊びには、飽がきてもいい時期なのでしょう。

私には私自身があることを、いつも忘れて、そして気が付くようです。所詮自分しかいないのだ・・等と、ひねた言葉を吐けるのは、いつもいつも自分がここに在るからなのですよね。


1秒以内の宇宙体験

2007-12-15 19:52:48 | 夢及び半覚醒時の体験記録

(コメントで貴重な体験談をお聞きしましたので、それに関連して同じような体験をご披露します)

 下記の記事は自分の身内の体験談です。実は家内の1年ちょっと前の変わった体験です。私個人でも、変性意識(半夢?)での不思議な経験が多くあるため、どんな事も頭から否定などしないわけですが、やはり「それは夢でないの?」という言葉を最初に言ってしまいます。但し、経験されている方はお分かりとも思いますが、いわゆる夢と、そうでない夢のような状態での意識体験はちょっと違う感じがあります。

<聞いた内容>

 彼女曰く、夜中に目が覚めるかどうかという状態での、浅い睡眠状態でまどろんでいるとき、就寝している部屋の障子が震えるバタバタという振動がしたそうです。何かが家の外?近くに降りて来た?ような感じだったとのことで、怖くなって私を起こそうとしてとしたらしいのですが、グーグーというイビキ状態であったとのことです。(頼りにならん・と後で言われました)

以降は、私が聞いたことを簡単にご紹介します。 Rは妻のイニシアルです。

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R 「そういえば昨日なにかが来て、宇宙旅行に行ったみたい・・」

私 「なにそれっ?宇宙行ったっての?」

R 「夜寝ていてー、夜中に目が覚めかけたときだと思うけど、障子や窓がなんかバタバタしてね。その後宇宙に行ったみたい。」

私 「おもしろい夢だねー」

R 「あれは夢じゃないわよ!絶対」  (結構真剣)

私 「あーそう。で、なにかが来たって、宇宙船・UFOみたいなもの?」 (私は実はUFOに詳しいため、すぐ連想は出来たが信じてはいない感覚)

R 「良くわからないけど、多分そんなものかもしれない・・」

私 「・・で、宇宙船みたいなもの??」

R 「何か乗り物に入ったという感じはわからない・・、あまり良く憶えていないけれど、ある場所で自分がなにか自分の全体を見られているような(見透かされてという感触らしい)、恥ずかしい感じだった。でも女性もいたらしく、ちょっと安心した。男2人女1人のような・・・、女の人は黒人みたい。あの「風とともに去りぬ」の映画で出てきた、太ったメイドさんのような、やさしい感じだった。それで、その黒人?の女性が、わたしを見て、「きれいね」といったのよー。みんな優しい感じだった。

私 「なにをきれいねーって言ったのかな。」 (きれいは顔形ではなさそう・・・)「でっどうしたの、どっか行ったとか?」

R「結構なもの沢山見て来たみたいね。1つ1つは細かく憶えていないけれど・・・」

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 家内はその宇宙旅行?なるもので、どうも色々な惑星みたいなものを見せられたようでした。新しい文明以前の惑星や、地球に似た感じのもの、大変な深刻な状態の惑星、彫刻のような建物?が沢山ある星・・などを相当数見たらしいが、残念ながら詳細は憶えていないとのことです。

 これが夢でなければ、単純発想では・・UFOなのか、または自分の高次レベルの意識存在が関係しているのではないかとも思われます。何かの空間でまずサーチ?スキャンされたあと、問題なしということで、前世か来世かの映像を見せられたのだとも考えられます。または実際の宇宙旅行をしたのかもしれない。ただし肉体レベルでなく、7つあるといわれる?高次の身体を通してだろうと思います。色々聞きだそうとしたが、あまり詳細は憶えていないようでした。結構な量の経験をした記憶があるようですが、ほんの一瞬であったとも言っています。一般的には単なる変わった夢と言えばそれでもいいのでしょうが。

<1つの解釈>

珍しい内容の夢とも思えますが、本人が夢ではないと言い張っているので夢ではないでしょう。夢を見る状態ではあるが、なにか意識周波数がちょっと異なる状態での実体験かも知れません。自分の場合は、先の記事でご紹介した某M研セミナーでの音声波動誘導でのビジョン体験や、その他の変性意識での体験といえるものが、朝方の目覚めるかどうかの状態で起きることが多いのですが、やはり顕在意識が邪魔をしない精神状態での出来事であることは共通しているようです。

百歩譲り、世間一般の解釈をしてこれがいわゆる夢だとしても、夢とは顕在意識がこの3次元世界の何かにフォーカスしていない状態での、潜在意識・超意識を含んだ意識体験であるとも考えられます。夢であるとしても、そこで得られる情報は、この3次元世界とそう変わらないとも思えます。この3次元世界はわかりやすくお膳立てされた「夢」と言えるかもしれません。