(投稿記事 no.2)
投稿者 P
前記事に引き続きです。浅田真生選手云々を取り沙汰しましたが、前提として彼女の余りある才能とそれを導いた前世からをも含む努力に「敬意」を評したいものです。そこまでの努力が、1位になりたいなどの執着によって力が全部出し切れないのは残念ですが、あれだけのミスをして僅差の2位というところに彼女の極限の行に対する神の果報を感じます。そして、失敗は、智慧の宝庫であり、極限の行を積んでの失敗は宝石庫のようなもので、彼女ならそこからいつか「気づき」という「宝石」を得ることでしょう。
かつて柔道男子でYという選手がおりました。何百連勝したそうです。そうして連勝したまま柔道を辞めたそうです。一方でSという選手がなかなかYという選手に勝てませんでした。両者は共にオリンピックで金メダルを取ります。Y選手とS選手の直接対決では、僅差の判定でY選手が勝って、この試合は疑惑の判定だなどと取り沙汰されました。この両者を比較した時に、私の直感ですがSという選手の方が、良い指導者になります。良い指導者になるというだけでなく、多くの有用な人生課題を見つけだすでしょう。私に言わせれば、Y選手のように何百連勝して負けずに引退すると、その高みからしか後進の指導ができなくなる恐れがあります(過去の結果に執着する余り、一方向性からしからしか物事が見えない可能性あること及び結果からの慢心)。それはとても危険なことです。指導にも深みが出てこない、何故相手が練習しても伸びないのか?挫折するのか?理解できなくなる危険性があります。これに対し、才能があって、究極の練習という行を積み、尚負けたり挫折したり、怪我したりする、S選手や浅田真生選手がそうですが、そうした失敗や挫折は、とても大切です。そもそも人間は、他者との相対的相克の中に新たに自分の修行課題を見つけよう、及びその中に「愛」を育もうと生まれてきたように思います。自分の子供を慈しみ育てるように他者にも接することが愛の一部とするなら、他の人の成長に寄与したいと思うのが当然かと思います。他の人が失敗して困っている、執着して引っ掛かっている、これらを救うには、数限りない「失敗の経験」と「失敗から脱却する智慧」が必要となります。及び挫折し失敗して打ちのめされている「意識(心)=モチベーション」をどう持ち直すのか?そこが問われるように思います。「後進の指導」は、引退した選手の「愛」の実践として有用な道となりますが、その時には必ず上記の失敗が有効となるでしょう。
我々は、大いなる失敗をすれば良いと自信を持って歩めばよいように思います。究極の行により限界の壁に頭を打ち付けましょう!壁を見て下さい。「失敗」「挫折」のプレートが貼ってありますが、破壊された壁からは「智慧」の宝石が転がり落ちることでしょう。ちなみに筆者は失敗だらけの人生ですが、しかも拾ったはずの智慧の宝石をたまにトイレに流してしまいます。気をつけたいと思っております。