気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

恐怖から目覚める時

2007-12-16 14:13:06 | 色々な気付き

●目覚めるということ

 目覚めた存在、という表現があります。どういう意味でしょうか。辞書を引かないで自分なりに理解出来るでしょうか。覚醒した意識状態という表現もあります。目覚めと同じ意味でしょうが、どういう意味でしょうか。 悟った精神という表現があります。これはどういう意味でしょうか。悟りを開いた人の精神状態なのでしょうか。

 難しいことだろうと思うのですが、あえて難しくしない方がより理解が進むかもしれません、膨大な知識による見識である・・という風に理解すれば、相当な知識の集積が必要ですし、簡単なものではありません。人間として最高の意識レベルである・・という理解であれば、その高みに上る必要があり、遥かな山を目指すことになり、ちょっとやそっとで到達できるものではないでしょう。永遠の課題を眺めて何もしないより、身近な課題からちょっとづつ近づく方がいいかもしれません。

 目覚めや悟りが遥かに難しいことであるという、自他の刷り込みがあるようです。目覚めや悟りは、釈迦やキリストその他聖賢達の、想像を絶する生涯を再現することではないはずです。実は、彼らが苦労をしたのは、目覚めが身近なものであるということを、いかに理解してもらうかという事に尽きるのだろうとも考えられます。

●恐怖のおもちゃ遊び

 何処か自分の外に支配者たる神がいて、間違いを犯せば罰を与えたり、死んだあとに責め苦があったり、閻魔帳を片手に断罪される、等というイメージが集合無意識に記憶されてレコード針によって常に再生されているようなものです。「罪と罰」はそれを回避するためのものであり、やってはいけないことをさせないための方便としての理解もあるわけですが、なぜやってはいけないのかという理論的な理解が欠けているのが判ります。ダメはダメ・・というわけです。理解出来ない者になにを言ってもダメなので、脅して強制するしかない、従って恐怖が役割としてあちらこちらに登場します。そうして恐怖は我が物顔で人々を支配してゆくようなシステムになっているのでしょう。・・これが今までの我々の歴史の底流に、大きく網を張ってきたものといえます。負ける恐怖、死ぬ恐怖、失敗する恐怖、生活苦の恐怖、孤独の恐怖・・・数え上げたらきりがありません。誰しもすべてを既に経験しているので良くわかります。

はっきり言えばこれらの恐怖は、結構なおもちゃのようなものでしょう。それらを後生大事に生死を繰り返しながら持ってきました。そんなもの持っていたくないのにも関わらずに。そんなもの要らないと言いながら、いつも持っているのです。これも良く考えれば不思議なことです。それとも何者かに無理やり持たされているのでしょうか。

●腹をくくって捨て去る

 腹を決めてしまえばいいのではないかと思われます。心配しても恐れても、何も得られないどころか、がんじがらめになるのが判ったわけですから、少なくともそんなものを手放せばいいんだと思います。・・そんなこといっても、それが出来れば苦労はない・という自分の中から声が聞こえてきそうです。その声でまた繰りかえし再生モードになるのでしょうか。誰かのせいにして。

 腹を決めるというのはさっぱりとあっさりと捨て切ることかも知れません。1つにはすべてを肩から下ろしてしまうこと。1つには、今生きている事実、このシンプルな事実に感謝することに集中することだろうと思います。1つには生死を含む宇宙の仕組みの知識を得ることでしょう。1つにはすべてが根本では愛に基づいたものあるからこそ、こうやって我々は常に生きているのであると感じてみることでしょうか。確かそうだったと実感できれば、ひょっとしてそれが目覚めたことになるのだろうとも思います。

 目覚めや悟りはゴールなんかではなく、新たなスタートラインであり、新たなる歩みの合図でしかないわけです。終わりなき生命を喜んで体験している者にとっては、少なくとも、もう「怖い怖い」死の恐怖というおもちゃ遊びには、飽がきてもいい時期なのでしょう。

私には私自身があることを、いつも忘れて、そして気が付くようです。所詮自分しかいないのだ・・等と、ひねた言葉を吐けるのは、いつもいつも自分がここに在るからなのですよね。