「あるヨギの自叙伝」(パラマハンサ・ヨガナンダ著)p443~
私は、先生がこのすばらしい説明をしてくれている間、先生のからだをあちこち観察した。
「天使のような先生、先生のおからだは、私がプリの僧院で涙とともにお別れしたあのおからだとほんとうにそっくりでございますね」
「そうだとも、この新しいからだは、前の古いからだと全く同じに出来ている。わたしはこのからだを、いつでも自由に、しかも地上にいたときよりもずっと頻繁に、物質化したり解体したりしている。からだを急速に解体することによって、わたしは今では、一つの星から他の星へ、あるいは、幽界から観念界から物質界へ、光という特急であっという間に旅行することができるのだ」 (注釈1)
神のようなわが師(グル)はほほえまれた。
(注釈1)びっくりするような内容だが、例えばテレポーテーションという概念を知っているだろう。テレポーテーションは、”こちら”で身体組成を「分解」して、あちらに「再生する」ということであり、二次元画面ではすでに画像の伝送等で行っていることだ。これを3次元的に行う事で、肉体の分解・再生がすでに先端科学では議論されている。肉体を構成する素粒子はまた波動であり、解体も、伝送も、再生も可能ということである。
ならば聞こう・・、わたし・・意識とは、解体されまた再生される肉体だろうか?
あちらにもこちらにも存在することが出来る者、時空を超えた者はだれなのか?
「お前は近ごろ、だいぶ忙しく動きまわっているようだが、わたしはお前をボンベイに見つけ出すのに何のぞうさもなかったよ」
「先生、私は先生がお亡くなりになって、ほんとうに悲嘆にくれていました」
「わたしがいったいどこへなくなったというのだね?それは必ずしも事実とは言えないようだね」
先生は優しいまなざしを愉快そうに耀かされた。
「お前は、地上で夢を見ていただけ(注釈2)なのだ。そこでお前が見たのは、わたしの夢のからだだ」
先生はつづけられた。
「そしてお前は、その夢の像を埋葬したのだ。だが今、それと同じ姿でそれよりももっと精妙なわたしのからだが、--今現にお前の目の前にあって、お前がしっかりと抱いているこのからだが、--別の精妙な夢の星に復活したのだ。この精妙な夢のからだも、精妙な星も、結局いつかは消え去ってゆくだろう。これらもまた永遠のものではないからだ。
(注釈2)夢は見ている時には、それが夢とは思わずに真剣になっているだろう。そしてそれが夢だと知ることを目覚めるという。我々は、あまりにも体の五感を激しく感じるために、現実という世界にいると信じ込んでいる。しかしながら、現実とは・・そこに勝手にあるものではなく・・意識があり・・観察しているから、存在している・・ように見えるのである。
あらゆる夢の泡粒は、結局は最後の目覚めとともに、消え去ってしまうのだ。わが子ヨガナンダよ、夢と真実を区別しなさい」
このベーダーンタの復活の思想(15)は私を驚嘆させた。私はプりで生命のなくなった先生のからだを見ていたましいと思った自分を恥じた。私は先生が、ご自分の地上における生命も、死も、また現在の復活も、神が宇宙夢の中で演じておられる観念の相対的表現にすぎないことを意識しながら、常に神の中に完全に目覚めておられることをついに理解した。
(15)本文注解(p446末)
生死は想念の相対性によって映し出されたかりそめの姿にすぎないという思想。ベーダーンタは、神のみが唯一の実体であって、あらゆる被造物すなわち個々の存在はすべて幻覚(マーヤ)であると指摘している。この一元論の哲学は、シャンカラのウパニシャッド注解にもっとも高度に表現されている。
「ヨガナンダ、わたしは今お前に、わたしの生と死と復活に関する事実を語った。
もうわたしのために嘆くのはやめて、わたしが肉体人間の住むこの神の夢にすぎない地上界から、幽体をまとった魂たちの住む、同じ神の夢である幽界の星に復活したことを、広く人々に伝えなさい。そうすれば、夢の死におびえたり、嘆き悲しんでいる人たちの心に、新しい希望が湧くだろう」
「はい、先生!」復活された先生に会えたこの喜びを人々に分かち与えられることは、私にとっても何とうれしい事であろう。