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気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

悟りの道標(14)生きること・死ぬこととは?

2016-07-23 08:21:25 | 日記
魂という「わたし」の本質は、時間空間に制約をされていない。

今この地球次元で生活している人々の多くは、その意識の集中する先が、

「波動の粗い」といわれる、いわゆる物質環境レベルに特化していると言うだけの話である。

つまりここは物質次元だけを観ている、あるいは観るような仕掛けの世界であると言えよう。

魂は、簡単に言えば極めて高いところから低いところまでを領域とする、

意識・意図を有する無限層にわたるエネルギー波動であると言って良く、

その低いところの波動は肉体・物質レベルであり、

生体エネルギー、思考や感情などより波動の高いところの層が、いわば高次元の波動帯と言って良いだろう。

いわゆる、こころが美しい人は、波動が低いわけがない・・。


そして通常今までは、3次元などと言われる世界では、低い波動レベルの、範囲の狭い世界だけを観察しているということだ。

これは世間一般が、常識全般と言う、見えるだけのごく小さな波動領域に、その意識を特化していることを示している。

良いとか悪いとか言うべきものではないが、それは極めて狭い範囲のものでしかない。


魂という「わたし」の本質は、時間空間、つまり我々の日常生活環境、地球環境だけにとどまらず、より広範囲の次元で「活きて」いるのである。

多くの人達の意識が狭い世界に固定されていた・・気付きの意識が広がっていなかったともいえようか。

簡単に言えば、何を信じ込んでいるのか、と、そういう話でもある。

・・・

したがって、例えば人が死んでしまう・・という現象は、

その低次元レベル、物質波動レベルの自己層の一部がこの世界との同調を外れ、

最外層の波動帯はその役目を終えて解脱することを意味しており、

本質たる「わたし」が失われることでは決してないのだ。

たとえ青空が曇っても、夜になって何も見えなくなっても、太陽がなくなるわけもない。


だから人間が死んだということは、その魂:本質の、外側の衣服を、単に脱いだだけのことなのである。

生命は多次元層、また多層のエネルギーで構成されているわけで、

昔の十二単(ひとえ)衣装のように、あるいは洋服にしても、季節・環境に応じて頻繁に取り替えるようなものだ。




こういう多次元的な生命としての魂、あるいは「生命の本質」に関して、その側面をよりよく理解できるのはいわゆる「臨死体験者」の経験報告である。
・・・・
下記は、「アニタの臨死体験」というあるサイトの抜粋であり、ここに表現されていることは、多次元的な「わたし」の本質が、生と死の狭間の体験として非常に参考になるものである。

わたし・・という意識主体が、時間空間を超えており、肉体・物質レベルのさらに上位の本質は、エネルギーの多次元層を含み、

その本質は、言わば愛で充満せる空(くう)、あらゆる全ての母体である空(くう)、

そしてそこに生じている無限の可能性を持った意識と意図であるという表現が妥当であることがわかるだろう。

人は進化のプロセスを楽しむ神自身であり、神の子であるというのも、

そう言った事実を示す別の表現なのである。
・・・

アニタの臨死体験


今は、こういう事実報告が多くなされるような稀有な時期でありながら、

常識ではすぐには信じられないのは、常識という「固定」観念からして当たり前であって、

しかしながら、全くそれに気づかず、知らず、あなた任せ、世間任せの意識レベル、

見えない揺りかご的支配に諾々としている状態は、もう既に卒業すべき時にある・・という、

慈愛のこもった宇宙レベルのメッセージとも言えよう。



政治や経済がどうなるこうなる、世界情勢がどうのこうのと言う情報も、

第三次世界大戦がありそうだとか、そういう外の世界の急変事象も、

それ自体大切な観察行為であるものの、

今まで馴染んだ地球という「時間と空間の急変」を察知し、眠っている時間の短くなった今の時点で、


それを観察している・・わたし・・とは、

あなたとは何者なのか、わたしとは何者なのか?


そういう問いかけとその探究、求道こそが、今喫緊のテーマなのである。、


人として、生れていることはどういうことなのか?

人として死ぬということは、どういうことなのか?


「今までも」そうであり、また「今ここ」でもそうであるように、

その問いかけと自己探求の先に、

その魂:本質にとっての体験の場、

新たな次元が展開して来るのだ。








本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。

次回は勝手ながら「アニタの臨死体験」の補足説明の予定です。



多次元世界の話(2)人も多次元存在

2016-04-08 07:08:28 | 日記
多次元的なこと、それは人間とは異なる何か別の世界の構造のことではなく、

「自己」そのものが、いわゆる多次元構造をしているということを意味している。

本質の自己が多次元構造であるからこそ、その観察する世界が多次元構造で投影されるということでもある。

繰り返しになるが、存在の根本にあるエネルギー、

その無限に連なる波動は・・・様々な周波数帯域を作り出すのだ。

これを明晰性をもって理解するには、物理学上で得られた概念、

全ての存在は波動に帰すということを理解すべきであろう。


その様々な周波数帯域は振動の密度の違いで、様々なスペクトル帯が創られている。

物質世界や死後の世界、幽界や霊界、惑星地球文明や進化した宇宙文明世界も、

全てその多様な、多次元的スペクトル世界のことなのである。

多次元世界の違いはそのように振動密度というか、滑らかさというか、細かさの違いと考えてよく、

いわゆる天と地、天国や地獄等と言う昔からの概念は、そういう世界の真実に無知と恐怖が混ざりこんだ逸話となって重く伝わっているだけの話である。

だから、唯物論者が「天国・地獄、そんなの迷信だ」というのは一面で正しいのだが、

唯物論者は、目の前に見える物質世界、つまり波動の粗い、密度の大まかな、滑らかで優しくない世界、いわゆる低振動のスペクトル帯・・だけを「信じ込んで」いるというわけなのだ。

波動が粗い世界は、情報が少ない、本質の自己の情報さえ少ない世界であるからこそ、

お先真っ暗、手さぐりの「闇の」世界のような感じとなって、大勢の人々が右往左往、あちらにぶつかりこちらに転ぶ、そこで生き残るために、様々な支配や、知らずわからずの暴力も横行しつつ、死んではいつか生まれ変わり、

それすらも情報として思い出せない・・・

そんな3次元的な世界を醸し出してきたというわけだ。

そうではないか。

実際のところ、そういう世界が今終わりを迎えているということなのだ。

世界の出来事を興味を持って追いかけている人々は、

今まで渦巻いていた陰謀や巨悪の構造が、あることない事取り混ぜながら、

気付きや情報として見え隠れしつつ、おどろしくも浮き出している衝撃の現実を観察しているということなのだ。


多次元的世界は神意識の創造の賜物であるわけだが、

神から出た無数の「自発光」である、

無数の意識生命体、もちろん地球の人類も含めたものだが、

あなたや私もそうだが、

その個別とも見える意識のそれぞれの拡大に伴って、

その意識波長に合う様々なスペクトル世界、多次元世界と共感同調してゆくことが、

魂の進化、意識の進化と言われるものである。

現実界、幽界、霊界などや天国と地獄、地球と進化した宇宙文明社会・・そういう様々な概念で示されるものも、

意識の進化・拡大に従って、当然ながら拡大することは、自他一体、いわゆる愛や共感の拡大した、感動多き世界となるのは、火を見るより明らかなのである。

自己に気付いてゆく、そのプロセスは実に楽しくおおらかな事なのだ。

貴方はどう感じるだろうか?






本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。

わたしとは何か(17)五次元とは?

2015-12-15 08:13:21 | 日記

●時間はどこにある?
今の我々の世界は物理学上では4次元世界とされている。

アインシュタインが示したように、空間と時間、XYZの3つ方向の空間と、時間tで表わされる4次元世界である。

つまり、この世界での現象は全て、あるところ(場所)で、いついつ(時間)何が起きたか、という表現で示される。

物理現象は全て4次元座標軸で示すことが出来るということだが、ところで「時間」というのは視覚化出来ないことに気付けるはずだ。

「おーい、時間はどこにあるのか、見えないけどな~」。
・・・




●時間は観念・概念でしかない

実は「時間」というものは存在せず、それを言うなら「時間」とは、

空間の中の事物の動き、運動の変化のことなのだ。

「時」と「時」の間、<時  間>、つまりある時と次の時の間(あいだ)、

瞬間と瞬間との間(あいだ)であり、その実体はない。

時間とは、

変化のストリーム・変化率とその記憶のことで、時間量t等は、便宜上の座標軸要素であって本来存在しない物理量なのである。

我々が常日頃使っている言葉、時間、それに追いまくられ、あるいは持て余す時間というものは、実際存在していないものなのである。

人間が世界や宇宙の動きを観測する、観察する、知覚するという意識的な働きによって、

その変化の一連の流れ・ストリームを記憶していることが、時間の流れという感覚を生み出して、あたかも時間が流れているように錯覚しているというわけだ。

「時間」とは単なる概念であって、実物として存在していないということ。

●時間は「変化」のこと

ある空間の中で、そこで何も動いていなければ、

それは時間が止まっているという話になるし、そこに時間の経過を感じることなど出来るわけもない。

空間の中で様々な事物が動いているからこそ、

時間の経過などという感覚が生まれるのだが、実際に「時間」単体というものは実在しないのだ。

時間は、原子時計や柱時計の針が「創っている」のではないことは知っているだろう。

そう、時間は、時と時の間・・・、つまり事象と事象の間(あいだ)のことであり、

それ自体は、空(くう)としか言いようがないものである。

・・・

宇宙に在ると観察されるものは、空(間)とその中のエネルギーの動き、変化だけ。

時間など、思考・観念以外、どこにも存在する余地がない、余地がないと言うよりも、変化しかないのだから。


●五次元認識で生じる世界
宇宙を観察する意識、つまり意識的存在であるところの人間は、

そもそも存在しない時間に縛られている・・、という、そういう観念を外すことで、

より自由度が得られるために、ストレスや強迫観念が消滅し、

結果として、寿命なども平均的なものに縛られる必要などなくなるだろう。

在るのは時間でなく単なる観念だということを悟るべきである。


ところで、五次元的世界とは、四次元を超えたものとされるのだが、

新たに1次元追加して4+1=5次元というものではなく、

時間と空間という四次元要素が、・・実在しないものであるという「認識」によって

浮かび上がる世界のことである。

これからの地球のコアとなる存在ステージはそれである。

今までは、時空間という四次元要素の中に、私がいるとしていたわけだが、

そこ、四次元要素の中にはもういない「私」という表現形態が現れてきているということ。


そこでは、局所的な時間や空間という仮想の囲い、檻(おり)、牢獄が存在しない。

身近な表現では、あるいは時空間での自由度が飛躍的に増大するとも言えようか。

・・・

実際、こういう世界は、空(くう)たる無限の宇宙に無数にある。

心霊やら死後の世界やらの説明は、そういう様々な認識世界があるということを意味し、

また宇宙には高度な星間文明やら、宇宙人の文化文明やらがあるとされるのも、同じことを意味しているのだ。

霊的なこと、スピリチュアル、UFO、宇宙人の話等、すべては一つの方向性の話を、

別々の角度から表現しているだけの話である。


多次元世界、霊界、幽界、物理界などという表現をされる場合や、

他の宇宙人文明等という表現をされる場合もあるわけだが、

同じことを別の表現で言っているだけのこと。


人とはそういう多次元世界を観察できる意識的存在のことであり、

宇宙の創造に参加している、あえて様々な無限点から宇宙を観ているところの、

個別の神々と言えようし、

多次元宇宙の中にいるとして、それなら宇宙人だとか、

高次元的な存在観点から言えば、天界人などとも言えるだろう。


枝葉の概念にこだわることで、更に枝葉が出てくるだけのことだ。

意識の進化という、魂の楽しい帰還の道には様々な風景があるように、

<わたし>・・の表現形態がより自由度の高い、「私」表現に移行している姿を示すだけのことである。

・・・

アジアの高地のある地域の人々の平均寿命が異常に高寿命なのは、汚染されていない自然環境のおかげでもあるが、巷の汚染された観念とほぼ無縁であるからだ。

彼らには、何の財産も知識も医療もないように見え、遅れた山岳民族である等と思う「癖」があるかもしれないが、それは物持ちが幸せになれるという「超おバカな観念」から来ている奴隷思考なのである。

それは例えば、江戸時代が不幸で、明治以降が素晴らしい等という仕込まれたウソの観念と同じなのだ。

起きている自然のサイクルの中で、ただ在る事、そしてそれなりに変化のサイクルに合わせて表現する事、つまり自然に沿って働きつつ気付きを拡大することのなかに、

どこに追いかけられる時間や、無理に働くことの重さがあるだろうか。

いいや、決して有りはしない。

●3次元的牢獄は崩壊した

超高級スポーツカーや、オール電化の超豪邸を持っているからこその幸せだと・・そんな話は誰もかつて聞いたことはないだろう。

時間に追われ、区切られ、その中でギャーギャーと騒ぎながら、物・銭・金、威力や物的富を集めるように仕向けられている、いわゆる文明人のほうこそ、相当に遅れた存在であることに気付けるだろうか。

急き立てられるような忙しさが、さも立派なことだというウソの観念、「時間という牢獄」に集団で入っていたようなものだ。

お互いの顔色を窺がいながら・・・。

しかしながら、原因側においては既にそれは崩壊した。

後は、崩壊していることに気付けるかどうか・・・だけである。

ここが肝心なところ・・・。

時間を買うために、銭・金・物が与えられる・・とかそんな話ではない。


●時間という幻想の檻(おり)

なんと人間は時間に縛られていたことだろう!

時間で縛られ、社会的なプログラムで追いたてられ、恐怖で一方向に釘つけられてきた。



よけいなお世話だが、ここで笑いが起きるべきであろうか。苦笑いかも知れないが。

しかしながら、人によっては、

古い世界でのこころの淀みの蓄積が、未だ「意識内面の壁」に付着しているかも知れない。

あるいはローン支払いや子育てや、仕事のタスクを終わらせなければ、どうしようもないという観念で突き動かされているのかもしれない。

人々は、時間で区切られ、時間で制約され、時間で労賃が決まり、時間で生命の長さが決まるような世界にいたということ気付く時である。

ある意味で時間とは、国家、社会生活での便宜上の時間割ということなのだが、

いつの間にか「時間」の牢屋に入っていたことに気付けるだろうか。

そうして、「時は金なり」という観念の流布によって、今は「お金」で縛られていたのが人類の基本的現実なのである。


何もここで理想論を言って気休めを得ようとしているわけではなく、現実逃避を試みているわけでもなく、大所高所からみた今までの人類社会の事実、真実を示しているだけだ。

そう・・・、存在しない時間という観念に縛られていたことに、薄々でも、判然とでも、愕然とでも・・まず気付く必要があるということなのだが、あなたはどうだろうか。

I AM THAT I am.

本来、何かにすがりつく必要もない。

なぜなら、わたしの本質は、何でもないものだからだ。


●時間は存在しないゆえに、終わりも始まりもない

死んだら終わりだ・・とする観念さえも、時間の始まりと終わりを想定している。

死んだら終わりなのは、わたしではなく、借り受けている「身体」のこと、

この地球という生命・生態系から借りているところの肉体のことだ。

現象の移り変わりに、そこに大きな変化があることで、

人間の思考は、何かの始まりと終わりという観念を創り上げる。

そして・・私・・が消えるという恐怖におののくわけだ。

しかしながら、わたしとは本来何でもない者であれば、消えるも終わるも始まるもありはしない。

ただ在るのは、変化だけだ。


生とか死とかいうのは、造られた局所的な始まりと終わりの観念でしかない、

変化、変転するのは着替えるわたしのまとう衣装のほう(個人の私)であり、

またそうでなければ面白くないだろう。

いつも同じ服では・・ダサいことこの上なかろう?(笑)


私個人とはその時々の衣装のようなもの、

それを意識している働き、気づいている「今のそれ」が・・真正の「わたし」である。

わたしとは、一過性の特定の個人そのものではなく、

それらを幾らでも演じるところの、何でもない者である。


何でもないから、何にでもなる。

何でもないから、いつでもどこでも現れることができる。

また空(くう)であるからこそ、どんなエネルギーも物質もそこに存在出来る。


大宇宙はただ調和と変化がありながら、

そこに始まりと終わりというものがどこにも無いことは明白である。

始まりとか、終わりとかは観念、概念でしかなく、永遠なる変化の一部を観念で切り取って、

ここから始まり、ここで終わると言っているだけのことなのだ。


人にあっては・・わたしが・・今在ることのなかに在る永遠に、既に気付けるではないか。

今までも、今も、今からも在る・・事実は、今この瞬間にある。







本日も拙い記事を御覧いただきまして、誠に有難うございました。

わたしとは何か (7)人間本来無一物

2015-10-12 07:18:54 | 日記
人間は意識(魂)、こころ、肉体で構成されている。


「肉体」は何かといえば、それはまさしく地球の素材で造られている。

その地球の素材を組み上げるのが、いわゆるDNAという「設計図」と言えよう。

その設計図が偶然にランダムに出来てしまった・・ものだ等という愚かな科学徒がいるが、

それは「宇宙」の意識や意図を、受け入れたくない者たちの苦し紛れの粉飾であろう。

またそれに簡単に騙される、いわゆる一般大衆も、それに変わりはない。


微細に、念入りに設計された生物種のDNA、言わば「設計図」が、

偶然に、勝手に出来る訳が・・・ない・・!ではないか。

「肉体」は何かといえば、それはまさしく地球の素材で造られている。

気付くべきは、肉体も、実際あなたの所有物等ではない・・ということだ。




人間は、息をして、飯を食べて、老廃物を排出して生きているが、

そのプロセス自体も、わたしたちは関与していない・・、ほとんど自動である。

地球という時空間での、地球内システムによって生存・維持出来ているのだ。


あなたの人体は、あなたが生かしているわけではない。

わたしの人体は、わたしの手でこねて作った物ではない。

あなたの子供も、あなたが造ったわけではないのだ。


地上全ての生命は、この地球の生態系システムによって働いている。

人間がやることは、ほんの少しだけ・・、

生命を生み出すトリガーとしての性行為や、

お腹にいれる食物の確保くらいのものである。

ああ、たったそれだけのことなのだ。



人体のごく一部の随意筋のみが、かろうじて、「わたし」たちの動かせるものである。

その随意筋で手を動かし、足で歩き回ることができる為に、

あたかも自分が「個別の肉体である」・・という錯覚をもたらすのである。


そして人体に備え付けられた五感感覚、見る・聞く・嗅ぐ・味わう・触れるという、

皮膚表面でのセンシング機能によって、「外界」と「自分」という感覚が生まれてくる。

皮膚表面以内が「自分」で、その外側が「世界」・・という感覚だ。

そうではないか?



・・・
しかしながら、

50兆とも言われる自分の人体の細胞が、つねに完璧に働いている姿さえ、

あなたは見たことも聞いたこともないだろう。

50兆の細胞を構成する様々な「分子」、そしてその構成要素である「原子」が、

どのように連結し働いているのかさえ、全く気付いていない。


わたしたちは、肉体のほんのごくごく一部のみを知っているに過ぎないのに、

わたしが肉体である・・という信念があるとは、

これは一体全体?・・何なのだろうか。

またぞろ、西洋科学に騙されているのか? あるいは無知のままだからなのか?


自分が、それについてほとんど知らない、

その肉体のことを「自分」である・・と断定しているのであるが、

それは、みんながそう「思って」いる・・らしい・・からだ。

そうではないか?
・・・

自分は単に肉体である・・・等という世間的観念が、

どれほどの誤解であるか、理解可能だろうか。


土地や財産も当然ながら誰の所有でもなく、

わたしたちの人体さえも・・、

この地球という生命体、意識体の提供しているものであり、

わたしたちの所有物等ではないのである。


肉体も、自分自身などではなく、時空からの拝借物ということだ。

俺の物だ、儂の所有だ、おれが!、私が!・~・・ほど、お馬鹿なことはない。

「こっ、この野郎!」 も面白いけれども、もう十分だと感じないか。

もう、そういう世界は終わらせようか。


いや、それは他人事ではなく、外の世界の捻じ曲げでもなく、

わたしたちと、わたしたちの知覚できる周囲の時空間から変えてゆくということなのだ。


自らの思い、想念、そして言葉、表現、行為の数々が、

それぞれの「時空」を作り出して、共感共鳴によって、相互の共通世界が出来ている。

肉体とはその学びのための、無条件な拝借物なのだ。


さらに、今の時期は生命サイクル上でも稀有な時期であり、

時空のベース周波数ともいえるものが、より高い振動帯域に移行している。

それは、人の意識が共振できる帯域が、より繊細になってきたとも言えるだろう。

今までにない、世界の様々な異変はそれが原因で起きてきているわけだし、

そのベースバンド周波数に同調しない、旧来の低周波なものは、必然的に消えてゆくことにもなるだろう。


一段進化せる世界とは、

宇宙・大自然のあらゆるものが支え、支えられていることを、

知っている人達の住まう世界であり、そこでは、

生かされていることに、ただ、ただ有難う・・が、基本にある。


調べればわかると思うのだが、

実際に、江戸時代までは、無意識的要素が強いものの、

日本にはそれに近い文化があったのである。






本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。font>

今起きている事(12)魂の無限性に気付くこと

2015-07-20 14:40:10 | 日記

●今起きているのは「次元」という存在展開舞台の転換
思慮深い人ならば、人間が「身体」と「こころ」と、そして「魂」で出来ていることに気付けるだろう。

言わばこれは人の三位一体であるが、「魂」「魂・意識」に気付けるかどうかが、これからの一大世界変転時への対処のカギとなるのである。

あなたは、「身体」と「こころ」と、そして「魂」のどのレベルまで<自覚>しているだろうか?

自覚とは自己認識であり、そうかもしれない・・ような単なる「知識」ではない。

また自己認識とは、物的証拠によって裏付けされるような、「代物」ではない。

みんながそう言うから等の意見や「情報」でもない。

魂に関しては、・・それ自ら・・気付く・・ことである。

●肉体が人間だというのは思い込み
世間一般では、主に自分が肉体・身体だと思い込んでいるだろうが、

それはまさに無意識的な「思い込み」であることに気付かなければならない。

世間ではそう云っているから、それが常識であるから、・・とそう思い込まされている。

要は、そういう「認識」なのである。

自分が肉体でしかないという思い込みにより、

死んだら何もないという刹那的な思い込みが幅を利かせてきたわけだ。

今、そういう風な物質的な自己認識のままで死んだ魂たちが、

自己が魂レベルの意識存在であることを思い出すプロセスを提供していた、

この地球の周囲世界、霊的待機場所が浄化された。

●天へ続くエスカレータ
つまりいわゆる3次元周囲の4次元世界は、既に浄化されたということである。

死んだ、つまり肉体から意識を外した魂・意識が、取り合えず一時待機することが出来る、フォーカスレベルあるいは階層的、霊的時空間が既に浄化され無くなっているということだ。

ヘミシンクの坂本正道さんは、今迄のフォーカスレベルには「エスカレータ」が出来ており、魂が引き込まれる途中の信念体系世界はバイパスされていると言っている。わたし自身も内面のビジョンで観えたのは、天へ続く複数の斜めのルート・道だった。

要は下次元(現界)から上次元(5次元)の間の途中でお遊びできる階層、あるいは地球の物理層へのバッファー領域が、きれいにお掃除されている?ということかもしれない。

従ってそうであれば、今までのようにこの世界の毒気に当たり、無知のままでこの世界から去った、つまり死んだ場合に、魂が勝手な信念を解除するまで一時まどろむことの出来る中間世界はもう存在せず、

そういう場合は親身な魂の教師たちの教導で、地球とは違う生命圏に転生するということになるようである。

なるほど宇宙は無限であり、その魂・意識のレベルに沿った転移先は無数に存在するのであり、今までのような地球周囲の信念体系世界のような閉じた時空間ではなくなったということである。

従って現界は、今迄スピリチュアルで噂されて来た「五次元」世界の幕開けとなっていると言えようか。

●無知の知までも知らぬ欧米物質文化
欧米流の文化は、近代以降の物的な発展や便利さにその威力を感じて、物質的な面ばかりを追求しつつ、それも正々堂々とその無知をやっていたわけである。

物・銭・金をコントロールする知力ばかりに長け、世界を席巻したわけであるが、精神レベルが追い付いていかないために、世界は今・・核での破滅の瀬戸際にある。

ある意味で、地球が3(4)次元から、順次5次元へと移行しているからには、いつかどこかで・・古い3次元的文明世界は消え去る定めなのだ。

そういう高次元的仕組みの変化と、今の3次元的な世界の終末様相は、実は同じ方向であり、その次元変化の内容が自然なものか、あるいは悲惨なものか・・の違いでしかなく、それを選ぶのはそれぞれの魂達の選択だけによっているということだ。

こころすべし!

魂レベルであっても、選択は常に「われに在り」である。

無意識的依存や、その他大勢の無意識集合体では如何ともしがたい事になるだろうが、それも無意識的集合意識が故である。

●こころの統御なしの垂れ流し
自己という自覚の前には既に、「身体」と「こころ」が在るのだが、

物質レベルで終始していると、その意識の向ける先が肉体・五感レベルで止まっている場合が多く、

肉体の上位である「こころ」精神作用に関して全くと言って良いほど無頓着であり、

常日頃、自分の心がどう反応しているのかすら、無チェックの段階の人も多いだろう。


そういう場合、往々にして、喜・怒・哀・楽、怒りや怖れを、単純に起きるに任せた言動に終始して軋轢や闘争を招いたり、

逆にそれをギュッと押さえつけるような、抑圧的な意識姿勢が多いかもしれず、結局はカルマの自己量産に気付いていないということにもなる。

それはつまり、無意識的意識、ある意味で幼い意識であり、想念を「まんま」垂れ流しているということでもある。

●自己のこころを・・対象化する・・こと
赤子の排せつ物の垂れ流しはまだかわいいが、大人の歪んだ思考や感情の自己主張、闘争・戦争等という名の、汚濁した想念・行為の垂れ流しは、宇宙で最も幼いないと言う表現も決して言い過ぎで無い。

いや自己主張も、自己卑下も、優越感も劣等感も、また思考や感情行為の垂れ流しの癖から出来る、個人的、民族的、宗教的な「こころの歪パターン」なのである。

そう、

そのようなこころのパターンを解消するためにはそれに気づくことから始め、

こころ・・・そのものを「対象化」しなければならないはずである。

自己の「こころ」の観察である。

外の世界でワーワー行なっている、他人の批判、評価、審判ではなく・・自己の意識内容を「観察する」ことなのだ。

物・銭・金、世間や他人、外の現象に振り回されては、騙されては、あるいは騙しては右往左往する、条件反射的意識レベルではなく、

そういう面白可笑しきものを流し続けるメディアを追いまわすことを止め、

展開する外の世界によって自己内面に起きるところの「こころの反応」をしっかりと自己観察し、

あるものは・あるものへ、それは・それへという、

落ち着いた大人の意識レベルに、自ら意識を持ちあげなければならないのだ。

●公園で遊ぶ子供を観る親はだれか
例えば、こころを、それを「動き回る子供」のように観察・観るという事だ。

公園で、あちらこちら動き回る子供を観ている者は、誰か?

その人は・・・愛深い親・・であるはずだ。

それも既に経験しているだろう。

こころの観察が出来るようになると、

「親」が現れてくる・・つまり愛深い本体・魂意識が顕れてくるということなのだ。

理解可能だろうか。


しかしながら、これは意識的に・・・実践しなければわからない。

知識では水辺にしか行けず、泉の水を飲むことができない。

自らが・・そう・・在らねばならない・・と言うことでもある。

誰のせいでも、相談でもない。


自己観察は、自己が「肉体」にあらず、また「こころ」でもないという事実に気付くためであり、

またそれは、いわゆる「波動を上げる」「意識レベルを上げる」と言っていること、「こころを浄化する」とも言っていることである。

魂は、体と、そしてその上位の「こころ」の上にあるそれ、観ているそれ、身体とこころを次元的に包含しているそれだ。

●こころを認め、それを観察すべし
今起きている地球の変容は、今まで、善悪・優劣・白黒・生死等、そのような2元性で遊んで学んでいることが出来たこの世界が、

その遊びや学びが質的により深く広くなり、あたかも幼稚園から小学校になるようなものである。

幼稚園での何でもありのお遊戯遊び、あどけなく幼く無知な自己意識、そういう経験していないだろうか。

そういう幼いあどけない意識が、物質優先の世間に入るまでに、人類の様々な歪を記憶せざるを得ないのだ。

常識という中の、歪で固まったマインドが主流であれば、

起きる感情や思考に条件反応的に対応することになる為、

感情や思考の揺れや爆発が起き、人間関係や人生そのものをぶち壊すことにもなり、後で後悔したり嘆いたりすることになるわけだ。

誰でも経験していることであるが、要は、こころの重要さを社会全体が教えることがないために、多くの人がこころや感情反応の統御が出来ていないということであり、

生活の中の様々な不都合な事象に対しては、誤魔化したり、嘘をついたり、逃げたりして回避しようとするものである。

いま世界中で騒いでいるのは要はそういう類のことだ。

●現代文明は欲望と恐怖の砂場遊び
現代は、最大限の欲望を追究する資本主義的活動が推奨され、こころの話よりも、贅沢や快楽、安楽を探し求めることが吹聴され、

知力を駆使した自己主張同士を裁判や金や、戦争で片付けようとする「エゴ」が主人公の文化・文明であったわけである。

そして、その最先端を行ったのが、あのアメリカという国であった。

ある意味で、今迄の人類の歪の学び、カルマの蓄積、そしてそれを人類的に解消するためでもあろうか。

●スピリチュアルの流行は一時の道標(みちしるべ)
こころは主観的であり、画一化した量産販売商品にはなりにくく、それゆえ用をなさない代物に貶められてきたのだが、

それが故にこそ、人生や環境のプログラムであるはずの「精神」よりも、銭・金・物・道路や車、ビルや都会、科学技術を使った先端利器などが優先された、

少なくとも庶民にはそういうものしかないという宣伝をずーっと流してきたのだ。

「金や金や!、こころがなんぼのもんや?」てなもんである。

昨今ではスピリチュアルワーク・グッズなどが商品化されているが、それはあくまでも商品としてのなじみやすさや、一定の霊的知識に触れるためであって、そういう知識だけではこころの浄化はこころもとない。

美しいイメージだけをこころに植えつけるだけでは心もとないのである。

●心ここに在りて、それを観る<吾>あり
こころを統御するには、古代(いにしえ)からも様々な方法があるのだが、実際には自己観想、想念観察、こころの対象化は避けて通れないのである。

普通の生活の中で、思い出す限りいつでも、自己のこころの動きを観ることだ。

こころの内容に入り込むのではなく、それらの動き・働き自体を観る・・こと。

こころを観るものは、あなたという小我の親であるあなたと言えよう。

親であれば、子には無条件の愛を感じるはずである。そうではないか?

その愛は、単なる感情的な愛などではなく、宇宙の全ては調和であることを真に理解し、お互いをお互いの写し絵であるという悟りのもとに、お互いを高める行為を言う。

こころある者は気付くべきである。

世間がどうだとか、社会がどうだとか、どの国が良いとか悪いとか、制度がどうしたとか、競争に勝つとか負けるとか、

今更どうでも良いものは、棄て去らねばならない時期にあるということだ。

気付くべきは、自己とは何か?ということである。

単なる肉体なのか。

肉体と、それに気づいている「こころ」のことなのか。

そして、さらにそれを観ている高次の「あなた」は、既にそこに在るはずである。





本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。