気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

今起きている事(12)魂の無限性に気付くこと

2015-07-20 14:40:10 | 日記

●今起きているのは「次元」という存在展開舞台の転換
思慮深い人ならば、人間が「身体」と「こころ」と、そして「魂」で出来ていることに気付けるだろう。

言わばこれは人の三位一体であるが、「魂」「魂・意識」に気付けるかどうかが、これからの一大世界変転時への対処のカギとなるのである。

あなたは、「身体」と「こころ」と、そして「魂」のどのレベルまで<自覚>しているだろうか?

自覚とは自己認識であり、そうかもしれない・・ような単なる「知識」ではない。

また自己認識とは、物的証拠によって裏付けされるような、「代物」ではない。

みんながそう言うから等の意見や「情報」でもない。

魂に関しては、・・それ自ら・・気付く・・ことである。

●肉体が人間だというのは思い込み
世間一般では、主に自分が肉体・身体だと思い込んでいるだろうが、

それはまさに無意識的な「思い込み」であることに気付かなければならない。

世間ではそう云っているから、それが常識であるから、・・とそう思い込まされている。

要は、そういう「認識」なのである。

自分が肉体でしかないという思い込みにより、

死んだら何もないという刹那的な思い込みが幅を利かせてきたわけだ。

今、そういう風な物質的な自己認識のままで死んだ魂たちが、

自己が魂レベルの意識存在であることを思い出すプロセスを提供していた、

この地球の周囲世界、霊的待機場所が浄化された。

●天へ続くエスカレータ
つまりいわゆる3次元周囲の4次元世界は、既に浄化されたということである。

死んだ、つまり肉体から意識を外した魂・意識が、取り合えず一時待機することが出来る、フォーカスレベルあるいは階層的、霊的時空間が既に浄化され無くなっているということだ。

ヘミシンクの坂本正道さんは、今迄のフォーカスレベルには「エスカレータ」が出来ており、魂が引き込まれる途中の信念体系世界はバイパスされていると言っている。わたし自身も内面のビジョンで観えたのは、天へ続く複数の斜めのルート・道だった。

要は下次元(現界)から上次元(5次元)の間の途中でお遊びできる階層、あるいは地球の物理層へのバッファー領域が、きれいにお掃除されている?ということかもしれない。

従ってそうであれば、今までのようにこの世界の毒気に当たり、無知のままでこの世界から去った、つまり死んだ場合に、魂が勝手な信念を解除するまで一時まどろむことの出来る中間世界はもう存在せず、

そういう場合は親身な魂の教師たちの教導で、地球とは違う生命圏に転生するということになるようである。

なるほど宇宙は無限であり、その魂・意識のレベルに沿った転移先は無数に存在するのであり、今までのような地球周囲の信念体系世界のような閉じた時空間ではなくなったということである。

従って現界は、今迄スピリチュアルで噂されて来た「五次元」世界の幕開けとなっていると言えようか。

●無知の知までも知らぬ欧米物質文化
欧米流の文化は、近代以降の物的な発展や便利さにその威力を感じて、物質的な面ばかりを追求しつつ、それも正々堂々とその無知をやっていたわけである。

物・銭・金をコントロールする知力ばかりに長け、世界を席巻したわけであるが、精神レベルが追い付いていかないために、世界は今・・核での破滅の瀬戸際にある。

ある意味で、地球が3(4)次元から、順次5次元へと移行しているからには、いつかどこかで・・古い3次元的文明世界は消え去る定めなのだ。

そういう高次元的仕組みの変化と、今の3次元的な世界の終末様相は、実は同じ方向であり、その次元変化の内容が自然なものか、あるいは悲惨なものか・・の違いでしかなく、それを選ぶのはそれぞれの魂達の選択だけによっているということだ。

こころすべし!

魂レベルであっても、選択は常に「われに在り」である。

無意識的依存や、その他大勢の無意識集合体では如何ともしがたい事になるだろうが、それも無意識的集合意識が故である。

●こころの統御なしの垂れ流し
自己という自覚の前には既に、「身体」と「こころ」が在るのだが、

物質レベルで終始していると、その意識の向ける先が肉体・五感レベルで止まっている場合が多く、

肉体の上位である「こころ」精神作用に関して全くと言って良いほど無頓着であり、

常日頃、自分の心がどう反応しているのかすら、無チェックの段階の人も多いだろう。


そういう場合、往々にして、喜・怒・哀・楽、怒りや怖れを、単純に起きるに任せた言動に終始して軋轢や闘争を招いたり、

逆にそれをギュッと押さえつけるような、抑圧的な意識姿勢が多いかもしれず、結局はカルマの自己量産に気付いていないということにもなる。

それはつまり、無意識的意識、ある意味で幼い意識であり、想念を「まんま」垂れ流しているということでもある。

●自己のこころを・・対象化する・・こと
赤子の排せつ物の垂れ流しはまだかわいいが、大人の歪んだ思考や感情の自己主張、闘争・戦争等という名の、汚濁した想念・行為の垂れ流しは、宇宙で最も幼いないと言う表現も決して言い過ぎで無い。

いや自己主張も、自己卑下も、優越感も劣等感も、また思考や感情行為の垂れ流しの癖から出来る、個人的、民族的、宗教的な「こころの歪パターン」なのである。

そう、

そのようなこころのパターンを解消するためにはそれに気づくことから始め、

こころ・・・そのものを「対象化」しなければならないはずである。

自己の「こころ」の観察である。

外の世界でワーワー行なっている、他人の批判、評価、審判ではなく・・自己の意識内容を「観察する」ことなのだ。

物・銭・金、世間や他人、外の現象に振り回されては、騙されては、あるいは騙しては右往左往する、条件反射的意識レベルではなく、

そういう面白可笑しきものを流し続けるメディアを追いまわすことを止め、

展開する外の世界によって自己内面に起きるところの「こころの反応」をしっかりと自己観察し、

あるものは・あるものへ、それは・それへという、

落ち着いた大人の意識レベルに、自ら意識を持ちあげなければならないのだ。

●公園で遊ぶ子供を観る親はだれか
例えば、こころを、それを「動き回る子供」のように観察・観るという事だ。

公園で、あちらこちら動き回る子供を観ている者は、誰か?

その人は・・・愛深い親・・であるはずだ。

それも既に経験しているだろう。

こころの観察が出来るようになると、

「親」が現れてくる・・つまり愛深い本体・魂意識が顕れてくるということなのだ。

理解可能だろうか。


しかしながら、これは意識的に・・・実践しなければわからない。

知識では水辺にしか行けず、泉の水を飲むことができない。

自らが・・そう・・在らねばならない・・と言うことでもある。

誰のせいでも、相談でもない。


自己観察は、自己が「肉体」にあらず、また「こころ」でもないという事実に気付くためであり、

またそれは、いわゆる「波動を上げる」「意識レベルを上げる」と言っていること、「こころを浄化する」とも言っていることである。

魂は、体と、そしてその上位の「こころ」の上にあるそれ、観ているそれ、身体とこころを次元的に包含しているそれだ。

●こころを認め、それを観察すべし
今起きている地球の変容は、今まで、善悪・優劣・白黒・生死等、そのような2元性で遊んで学んでいることが出来たこの世界が、

その遊びや学びが質的により深く広くなり、あたかも幼稚園から小学校になるようなものである。

幼稚園での何でもありのお遊戯遊び、あどけなく幼く無知な自己意識、そういう経験していないだろうか。

そういう幼いあどけない意識が、物質優先の世間に入るまでに、人類の様々な歪を記憶せざるを得ないのだ。

常識という中の、歪で固まったマインドが主流であれば、

起きる感情や思考に条件反応的に対応することになる為、

感情や思考の揺れや爆発が起き、人間関係や人生そのものをぶち壊すことにもなり、後で後悔したり嘆いたりすることになるわけだ。

誰でも経験していることであるが、要は、こころの重要さを社会全体が教えることがないために、多くの人がこころや感情反応の統御が出来ていないということであり、

生活の中の様々な不都合な事象に対しては、誤魔化したり、嘘をついたり、逃げたりして回避しようとするものである。

いま世界中で騒いでいるのは要はそういう類のことだ。

●現代文明は欲望と恐怖の砂場遊び
現代は、最大限の欲望を追究する資本主義的活動が推奨され、こころの話よりも、贅沢や快楽、安楽を探し求めることが吹聴され、

知力を駆使した自己主張同士を裁判や金や、戦争で片付けようとする「エゴ」が主人公の文化・文明であったわけである。

そして、その最先端を行ったのが、あのアメリカという国であった。

ある意味で、今迄の人類の歪の学び、カルマの蓄積、そしてそれを人類的に解消するためでもあろうか。

●スピリチュアルの流行は一時の道標(みちしるべ)
こころは主観的であり、画一化した量産販売商品にはなりにくく、それゆえ用をなさない代物に貶められてきたのだが、

それが故にこそ、人生や環境のプログラムであるはずの「精神」よりも、銭・金・物・道路や車、ビルや都会、科学技術を使った先端利器などが優先された、

少なくとも庶民にはそういうものしかないという宣伝をずーっと流してきたのだ。

「金や金や!、こころがなんぼのもんや?」てなもんである。

昨今ではスピリチュアルワーク・グッズなどが商品化されているが、それはあくまでも商品としてのなじみやすさや、一定の霊的知識に触れるためであって、そういう知識だけではこころの浄化はこころもとない。

美しいイメージだけをこころに植えつけるだけでは心もとないのである。

●心ここに在りて、それを観る<吾>あり
こころを統御するには、古代(いにしえ)からも様々な方法があるのだが、実際には自己観想、想念観察、こころの対象化は避けて通れないのである。

普通の生活の中で、思い出す限りいつでも、自己のこころの動きを観ることだ。

こころの内容に入り込むのではなく、それらの動き・働き自体を観る・・こと。

こころを観るものは、あなたという小我の親であるあなたと言えよう。

親であれば、子には無条件の愛を感じるはずである。そうではないか?

その愛は、単なる感情的な愛などではなく、宇宙の全ては調和であることを真に理解し、お互いをお互いの写し絵であるという悟りのもとに、お互いを高める行為を言う。

こころある者は気付くべきである。

世間がどうだとか、社会がどうだとか、どの国が良いとか悪いとか、制度がどうしたとか、競争に勝つとか負けるとか、

今更どうでも良いものは、棄て去らねばならない時期にあるということだ。

気付くべきは、自己とは何か?ということである。

単なる肉体なのか。

肉体と、それに気づいている「こころ」のことなのか。

そして、さらにそれを観ている高次の「あなた」は、既にそこに在るはずである。





本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。



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