悟りの道標(32)総集 2016-10-22 08:27:45 | 日記 1)尋牛(じんぎゅう) 牛について尋ねる、自己とは何か尋ね始める、それを牛に例えている。 2)見跡(けんせき) 自己(わたし)とは何か、世の真実はいったい何か、 その糸口のようなものを見いだす段階、日常にありながら自己探求が進展する。 ある人はいわゆる、スピリチュアルへの興味をもつようなもの。 3)見牛(けんぎゅう) 牛を垣間見る、隠された自己の真実に気づき始める。 本当の自分という「何か」をチラっと見出すこと、 ちょっとした霊的経験や不可思議な事象も経験の範囲になる。 4)得牛(とくぎゅう) 自分という観念が、マインド・思考であることが理解される。 したがって、すべてが思考、観念、意識の投影であることが理解される段階。 5)牧牛(ぼくぎゅう) 私という観念(牛)とは、自己自身の想いによって描かれた姿であることを 体験や知得によって確認してゆく。 常日頃の思考、感情、こころ・マインドを観ていることが出来る。 もうマインドに振り回されることも無くなる。 「こ、この野郎!(怒)」「お・、俺なんか・・(泣)」 怒りや哀惜は、起きては消える雲の姿、それもまた良し。 6)騎牛帰家 自己を作り上げるマインド、思考、見解、観念が無くなるわけでもないが、 そのマインドが浄化され、存在、宇宙との調和が主体となる。 余計な思考ノイズがフィルタリングされ、 マインドはゆったり穏やかになり、わたしはそれに乗って家路に向かう。 家路に向かうとは・・人生とは魂の故郷への楽しい道すがらに在るという意味である。 笛でも吹きながら、鼻歌を歌いながら、在ることができる。 7)忘牛存人 マインドは暴れることも見失うこともないため、自己に相対する別物ではなく。 それらすべて「わたし」に含まれる。 そう、わたしはマインドではない、マインドはわたしの一部であったのだ。 <8)人牛俱忘 牛も牧牛も忘れられて、どこにもいない!(わーお!) 私やこころはどこに行った~!(怖)、しかしながら、 もともと何処(どこ)にもいなかった。 何もない空(くう)、わたしは「空(くう」である。 9)返本還元 わたしは空(くう)・・だった・・って、あんた!、・・(しつこい 笑)。 しかし、空は無ではない、無とは無いことで、空(くう)は在る・・ことだ、 ここでわずかに残っていた、小さな自我が、無限の中に消え去る。 消え去るというより、もともとエゴ・自我は幻想であった。 空(くう)はすべての、根源、万物の母、また無限のことである。・・と悟る。 10)入テン垂手 空(くう)から一転、再び老いた牧童とさらに童子が出現している これは悟りし者が里に下りるとか、「生まれ変わる」という意味もあるが、 生まれ変わりといっても、今までのように無意識で繰り返される肉体転生ではなく、 どんな緊張も執着もない、融通無碍の存在として生まれ変わるということ。 どんな体験も生まれ変わりも、自由自在、融通無碍。 確執も争いもなく、垂らされた手はまったく無防備。 存在することを、その無限性を楽しむことができる。 これは、今はやりの概念、アセンデッド・マスターといえようか。 空(くう)であるわたしに帰り、また再生が起きる。 その時には、わたしとはあなたであり、またすべてでもあることを 識っている存在として生まれ変わるということだ。 天地万物との調和した・・楽しいことが本質である・・存在として。 悟りとは、何かむつかしいある境地に至るという誤解は解く必要がある。 それが本来あたりまえの、自然な在り方に戻るということだ。 なるほどこの世界では、戻るにも時間を使ってのプロセスが必要であることは言うまでもない。 そのためにわざわざ紆余曲折の人生が用意されているというわけだ。 意識進化のプロセスを、昨今ではアセンションなどと言っている。 悟ったら、どんな効果があるだろう?、どんな良いことがあるだろう? いや、全くそうではなく、 あるがまま、無為自然、生きて在ることの事実に全・心身、魂で気づくことだ。 特別な何かに成ろうとすること、他者との比較で秀でることではない。 「あの人なにか悟った人らしいよ・・、あの人、東大出ですって・・、」 まったく何も変わっていない。(笑) 頑張って何かに成り上がろうとする行為は、 それこそ、今までのがんじがらめの3次元的マトリクスで、 もがき上がろうとする行為に他ならない。 さらに言えば、もがき上がって何かあるかといえば、 そこにあるのは、幻想の中の、さらに幻想の一時的快感でしかない。 それらは、幾多の人生で頑張った人々はすでに誰でも経験している。 どんな事柄も、様々な経験としての有意義さ、達成感はあるものの、 どこか内側からくる実感「あー、幸せだ・・、楽しいね」 意識内面、魂の内核からの喜びは得られるわけではない。 魂の成長の道を進んでゆくことが、楽しさに通じている。 幼児から青年へ、そして成人へと成長してゆく人生でもそうだろう。 待ち受ける社会的束縛はあれども、それを突き破る魂の成長は、 人生そのものを彩り深くするのである。 「あー、幸せだ・・、楽しいね」それを幸福感というならば、 その幸福感は、何かをしなければ・・得られないという・・ はっきり言って!、まったく「方向違い」の観念で縛られていたのである。 学校でもがんばれ、社会でも頑張れ・・一見もっともらしい掛け声の、 その中に・・歯を食いしばって、獲得せよ、成り上がれ、という、 マトリクス全体を通じて流布された「迷妄させる指令」が見えないだろうか。 「そのまんま東」(誰かいた?)ではないけれど、 あなたやわたしの、・・そのままの・・在り方の中に、 まばゆいほどの奇跡があるのだ。 啄木のように、・・じっと手を見て・・気づけるだろうか(笑)。 まず、生きて在ること、肉体、マインド、魂(霊)という、 そのままの自己の在り方を、深く探求していく意識的行為こそが、 この世界で、真一番にあるべきことなのである。 生きてゆくための必要最小限度もこなしながら、 この道を、この世界特有の困難な道を選んだ・・・朋友たち、 そして、あなたにも、心からの賛辞を送る! 悟りの道標、了。
悟りの道標(31) 入テン垂手 :やっと当たり前に 2016-10-15 09:22:42 | 日記 十牛図の最後は、入テン垂手(ニッテンスイシュ)。 ”テン”はJIS漢字第一水準にないのでカナ表記だが、古語で「市場」の意味。 入テン垂手・・「手をだらりと下げて、市場に入る。」の意。 気楽に、のほほんと・・そのまんまで・・巷(ちまた)にいるようなものだ。(笑) 何が良いも悪いもない、ただ在るがままにすべてが起きている。 またそれが怖いことだという事はない。 あれこれ評価して、どこか自己利益ではじく「そろばん」も持っていない。 計算高い人は、人生での「そろばん勘定」が、いつも合わないので悩んでいる・・(笑) そうではないか? そう、本来何も持っていないのに、そろばんも必要はなかったのだ。 片意地張って「俺に逆らうなよ~!」も必要はなかったのだ。 すこしづつであっても、確実に、 あらゆる全ての元にあるマインド・こころが浄化され、 あれこれ、あちこち、恐怖を伴うがゆえのマインドの迷走が消えてゆき、、 生きて<今>在る・・体験そのものが、シンプルに、かつ趣深くなる。 意識でフォーカスするのは、様々なコロコロ変わる迷妄観念でなく、 今在ること・・への驚愕の事実。 その生きて在る・・ことの、真髄の中に留まること。 そう、そこで起きているのが存在、宇宙という奇跡なのだ。 OH、MY GOD! ・・・ その中では、わたしもあなたも全く・・在る・・存在・・として、 ひとつであることがわかっている。 わかっている・・とは、 それは思考ではなく、・・感じるというか、それしかないというか、 ダイレクトな直覚というか、そう・・、悟る・・というか、 理由なき突然の気づき・・というか、 言葉では表わせない・・ので、<在る>という表現になるだろう。 わたしもあなたも全く・・在る・・存在・・として、 ひとつであること、 ひとつとは、1個2個のカウントでなく、・・ひとつ・・ 重なって融合して、一体ということでなく、・・ひとつ・・ システム全体、宇宙全体、あらゆる全てが・・ひとつ・・ あなたもわたしも、それ・・ひとつ・・ 例え「相手個人」は分からずとも、 「こちら」が分かっているということだ。 それで十分なのである。 なぜなら、わたしの世界には<わたし>しかいないからである。 ここは、・・・本当に・・魂の中から・・把握すべきことである。 あなたも、誰もみな・・そう。 おい、おい、究極の個人主義か~?(笑) これはパラドックスのように聞こえるが、 ひとつは無限であるということ。 多はひとつであり、一つは多であるということ。 相手に期待するのは、相手個人に何か、望みを託しているという事であり、 まだ<わたし>は、わたしのことを、本当には分かっていないということである。 なぜなら「ねー、私のように、分かってください・」 と求めているからである。 <わたし>しかいない世界に、どうして他者を求めるのか? 世界には<わたし>しかいない、私も、貴方も、誰もみな・・ <わたし>なのである。 宇宙の中のどんな小さなものも、宇宙全体が無ければ存在しない。 そして、逆も真、 宇宙の全体も、小さなものたった1つが無ければ存在しえない。 わたしとは、私個人ではなく、貴方個人ではなく、 決して宗教的誤解を含まないで謂うところの、・・「かみ」である。 人として現れている、今・それ、単純に「神人」だ。 あなたはそれだ。 これがきれいごとのように聞こえるのは、 単に・・、古い思考、マインドの曇りのせいだと思えないか? 入テン垂手・・「手をだらりと下げて、市場に入る。」 余計なマインドは決して留まらない。 マインドは現れては消える雲のよう。 何が良いも悪いもない、ただ在るがままに、宇宙は在り続ける。
悟りの道標 (21) 尋牛・・あれ、私ってなに? 2016-09-18 06:57:43 | 日記 あるサイトにあった十牛図の解説を、勝手ながら掲載する。 これらは決して、たんに「禅」というカテゴリーの中の話ではなく、 人生の意味、ここ、地球という世界で生きては死んでゆく、 その意味をを問いかけ、 そして、永遠の生命(いのち)の進化といわれるプロセス、 その歩いている道を見出した多くの存在たちの残した、 謙虚ながらも愛深い・・古代から続く「指南書」のようなものである。 悟りのプロセスは、生命・意識の進化・拡大のプロセスである 1.尋牛(自己とは何か、私とは何かを尋ね始めること) ここで、牛とは・・こころであり、マインド、思考と言っていい。 牛とはつまり自由奔放なマインドであり、いつもありながら見失っているそれ、 まずこれを再発見しなければならないということだ。 思考がなければ問いかけも何も、問題の認識すらできない。 自分とは何か?という問いさえも、「思考」であることに気づけるだろう。 思考、マインドに・・殊更・・気づくこと!・・だ。 思考を垂れ流さず、すべての体験のベクトルである思考、 生死とその繰り返しの原因でもある「思考」に気づき、 これが一体何なのか?・・を訪ね始めることでもある。 世間がどうした、日本がどうする、世界がどうなる、あれがあった、これがあったは・・、 面白可笑しくて刺激的かもしれないけれども、 本質のあなたにとって・・何の解決にもならないことにすでに気づいてるはずだ。 外側の世界の興亡など、それはそれでありながら、 それぞれの人の本質にとっては、実に全くどうでもよい映画のようなもの。 さにありながら、 それにはまり込んで、気づかず知らず、何度も生き死にを繰り返しながら、 そういう世界での繰り返し人生を経てきて、人はいつか・・・、 「ところで・・、わたしとは何か・・?」 と問いかけ始める時が来るということだ。 そしてそれは・・常に・・今在ることの中で起きる。 今・・在ること・・その生活・・生きて・・活きていること、 ごく普通の有様の中でこそ、見出すことができるのだ。 だから何度でも・・それぞれのわたしは・・この世界に現れてくるのである。 それが輪廻のサイクル、今までの・・この世界の魂の修行形態であった。 ところで、「わたしとは・・何か?」・・本質のあなたとは・・何だろうか? 生きていること、死んでゆくこと、って何だろうか? あなたはどう思う? これが「尋牛」だ。 (つづく)