気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

わたしとは何か(17)五次元とは?

2015-12-15 08:13:21 | 日記

●時間はどこにある?
今の我々の世界は物理学上では4次元世界とされている。

アインシュタインが示したように、空間と時間、XYZの3つ方向の空間と、時間tで表わされる4次元世界である。

つまり、この世界での現象は全て、あるところ(場所)で、いついつ(時間)何が起きたか、という表現で示される。

物理現象は全て4次元座標軸で示すことが出来るということだが、ところで「時間」というのは視覚化出来ないことに気付けるはずだ。

「おーい、時間はどこにあるのか、見えないけどな~」。
・・・




●時間は観念・概念でしかない

実は「時間」というものは存在せず、それを言うなら「時間」とは、

空間の中の事物の動き、運動の変化のことなのだ。

「時」と「時」の間、<時  間>、つまりある時と次の時の間(あいだ)、

瞬間と瞬間との間(あいだ)であり、その実体はない。

時間とは、

変化のストリーム・変化率とその記憶のことで、時間量t等は、便宜上の座標軸要素であって本来存在しない物理量なのである。

我々が常日頃使っている言葉、時間、それに追いまくられ、あるいは持て余す時間というものは、実際存在していないものなのである。

人間が世界や宇宙の動きを観測する、観察する、知覚するという意識的な働きによって、

その変化の一連の流れ・ストリームを記憶していることが、時間の流れという感覚を生み出して、あたかも時間が流れているように錯覚しているというわけだ。

「時間」とは単なる概念であって、実物として存在していないということ。

●時間は「変化」のこと

ある空間の中で、そこで何も動いていなければ、

それは時間が止まっているという話になるし、そこに時間の経過を感じることなど出来るわけもない。

空間の中で様々な事物が動いているからこそ、

時間の経過などという感覚が生まれるのだが、実際に「時間」単体というものは実在しないのだ。

時間は、原子時計や柱時計の針が「創っている」のではないことは知っているだろう。

そう、時間は、時と時の間・・・、つまり事象と事象の間(あいだ)のことであり、

それ自体は、空(くう)としか言いようがないものである。

・・・

宇宙に在ると観察されるものは、空(間)とその中のエネルギーの動き、変化だけ。

時間など、思考・観念以外、どこにも存在する余地がない、余地がないと言うよりも、変化しかないのだから。


●五次元認識で生じる世界
宇宙を観察する意識、つまり意識的存在であるところの人間は、

そもそも存在しない時間に縛られている・・、という、そういう観念を外すことで、

より自由度が得られるために、ストレスや強迫観念が消滅し、

結果として、寿命なども平均的なものに縛られる必要などなくなるだろう。

在るのは時間でなく単なる観念だということを悟るべきである。


ところで、五次元的世界とは、四次元を超えたものとされるのだが、

新たに1次元追加して4+1=5次元というものではなく、

時間と空間という四次元要素が、・・実在しないものであるという「認識」によって

浮かび上がる世界のことである。

これからの地球のコアとなる存在ステージはそれである。

今までは、時空間という四次元要素の中に、私がいるとしていたわけだが、

そこ、四次元要素の中にはもういない「私」という表現形態が現れてきているということ。


そこでは、局所的な時間や空間という仮想の囲い、檻(おり)、牢獄が存在しない。

身近な表現では、あるいは時空間での自由度が飛躍的に増大するとも言えようか。

・・・

実際、こういう世界は、空(くう)たる無限の宇宙に無数にある。

心霊やら死後の世界やらの説明は、そういう様々な認識世界があるということを意味し、

また宇宙には高度な星間文明やら、宇宙人の文化文明やらがあるとされるのも、同じことを意味しているのだ。

霊的なこと、スピリチュアル、UFO、宇宙人の話等、すべては一つの方向性の話を、

別々の角度から表現しているだけの話である。


多次元世界、霊界、幽界、物理界などという表現をされる場合や、

他の宇宙人文明等という表現をされる場合もあるわけだが、

同じことを別の表現で言っているだけのこと。


人とはそういう多次元世界を観察できる意識的存在のことであり、

宇宙の創造に参加している、あえて様々な無限点から宇宙を観ているところの、

個別の神々と言えようし、

多次元宇宙の中にいるとして、それなら宇宙人だとか、

高次元的な存在観点から言えば、天界人などとも言えるだろう。


枝葉の概念にこだわることで、更に枝葉が出てくるだけのことだ。

意識の進化という、魂の楽しい帰還の道には様々な風景があるように、

<わたし>・・の表現形態がより自由度の高い、「私」表現に移行している姿を示すだけのことである。

・・・

アジアの高地のある地域の人々の平均寿命が異常に高寿命なのは、汚染されていない自然環境のおかげでもあるが、巷の汚染された観念とほぼ無縁であるからだ。

彼らには、何の財産も知識も医療もないように見え、遅れた山岳民族である等と思う「癖」があるかもしれないが、それは物持ちが幸せになれるという「超おバカな観念」から来ている奴隷思考なのである。

それは例えば、江戸時代が不幸で、明治以降が素晴らしい等という仕込まれたウソの観念と同じなのだ。

起きている自然のサイクルの中で、ただ在る事、そしてそれなりに変化のサイクルに合わせて表現する事、つまり自然に沿って働きつつ気付きを拡大することのなかに、

どこに追いかけられる時間や、無理に働くことの重さがあるだろうか。

いいや、決して有りはしない。

●3次元的牢獄は崩壊した

超高級スポーツカーや、オール電化の超豪邸を持っているからこその幸せだと・・そんな話は誰もかつて聞いたことはないだろう。

時間に追われ、区切られ、その中でギャーギャーと騒ぎながら、物・銭・金、威力や物的富を集めるように仕向けられている、いわゆる文明人のほうこそ、相当に遅れた存在であることに気付けるだろうか。

急き立てられるような忙しさが、さも立派なことだというウソの観念、「時間という牢獄」に集団で入っていたようなものだ。

お互いの顔色を窺がいながら・・・。

しかしながら、原因側においては既にそれは崩壊した。

後は、崩壊していることに気付けるかどうか・・・だけである。

ここが肝心なところ・・・。

時間を買うために、銭・金・物が与えられる・・とかそんな話ではない。


●時間という幻想の檻(おり)

なんと人間は時間に縛られていたことだろう!

時間で縛られ、社会的なプログラムで追いたてられ、恐怖で一方向に釘つけられてきた。



よけいなお世話だが、ここで笑いが起きるべきであろうか。苦笑いかも知れないが。

しかしながら、人によっては、

古い世界でのこころの淀みの蓄積が、未だ「意識内面の壁」に付着しているかも知れない。

あるいはローン支払いや子育てや、仕事のタスクを終わらせなければ、どうしようもないという観念で突き動かされているのかもしれない。

人々は、時間で区切られ、時間で制約され、時間で労賃が決まり、時間で生命の長さが決まるような世界にいたということ気付く時である。

ある意味で時間とは、国家、社会生活での便宜上の時間割ということなのだが、

いつの間にか「時間」の牢屋に入っていたことに気付けるだろうか。

そうして、「時は金なり」という観念の流布によって、今は「お金」で縛られていたのが人類の基本的現実なのである。


何もここで理想論を言って気休めを得ようとしているわけではなく、現実逃避を試みているわけでもなく、大所高所からみた今までの人類社会の事実、真実を示しているだけだ。

そう・・・、存在しない時間という観念に縛られていたことに、薄々でも、判然とでも、愕然とでも・・まず気付く必要があるということなのだが、あなたはどうだろうか。

I AM THAT I am.

本来、何かにすがりつく必要もない。

なぜなら、わたしの本質は、何でもないものだからだ。


●時間は存在しないゆえに、終わりも始まりもない

死んだら終わりだ・・とする観念さえも、時間の始まりと終わりを想定している。

死んだら終わりなのは、わたしではなく、借り受けている「身体」のこと、

この地球という生命・生態系から借りているところの肉体のことだ。

現象の移り変わりに、そこに大きな変化があることで、

人間の思考は、何かの始まりと終わりという観念を創り上げる。

そして・・私・・が消えるという恐怖におののくわけだ。

しかしながら、わたしとは本来何でもない者であれば、消えるも終わるも始まるもありはしない。

ただ在るのは、変化だけだ。


生とか死とかいうのは、造られた局所的な始まりと終わりの観念でしかない、

変化、変転するのは着替えるわたしのまとう衣装のほう(個人の私)であり、

またそうでなければ面白くないだろう。

いつも同じ服では・・ダサいことこの上なかろう?(笑)


私個人とはその時々の衣装のようなもの、

それを意識している働き、気づいている「今のそれ」が・・真正の「わたし」である。

わたしとは、一過性の特定の個人そのものではなく、

それらを幾らでも演じるところの、何でもない者である。


何でもないから、何にでもなる。

何でもないから、いつでもどこでも現れることができる。

また空(くう)であるからこそ、どんなエネルギーも物質もそこに存在出来る。


大宇宙はただ調和と変化がありながら、

そこに始まりと終わりというものがどこにも無いことは明白である。

始まりとか、終わりとかは観念、概念でしかなく、永遠なる変化の一部を観念で切り取って、

ここから始まり、ここで終わると言っているだけのことなのだ。


人にあっては・・わたしが・・今在ることのなかに在る永遠に、既に気付けるではないか。

今までも、今も、今からも在る・・事実は、今この瞬間にある。







本日も拙い記事を御覧いただきまして、誠に有難うございました。

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3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
また、言い得て妙です (さとり)
2015-12-15 16:34:55
マッチョマンさん、こんにちは

「新たに1次元追加して4+1=5次元というものではなく、
時間と空間という四次元要素が、・・実在しないものであるという「認識」によって
浮かび上がる世界のことである。」

目からうろこ、の表現です。
時間のこと、次元のこと、、感覚的には掴んでいるつもりですが、なるほどです!
マッチョマンさんの言い得て妙な表現は、私にとっていつも新鮮で、
嬉しい驚きに満ちています♪

時間というものは重力と同じで大きな錯覚を生みだす元凶?のように感じることがあります。
きっと、DNAにもデータ化され、深く刻印されているのでしょう。

最近、時間という圧力に押されそうな瞬間があります。

そういう意味でも今回の記事には特にシンクロを感じました。
ありがとうございます☆


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1コメ Ans. (マッチョマン)
2015-12-16 06:30:59
おはようございます。

そうですね。

現代は、生きる活動、生活を維持するためと称し、
社会システムにそれなりに同調しなければ、
色々不都合なことになる・・、という社会観念の縛りがあって、なおさら時間間隔に追われてしまっているでしょうか。
・・・
内と外の違いというか、そういう認識・感覚のギャップが生じると、それがストレスにもなります。
まるで、内側と外側の波長の違いによる「うなり」現象のよう。
・・・
人は、何がなんだがわからないから、色々な感情的な歪を抱えますよね。
そのうなり、不快感、緊迫感、倦怠感を、観ることが出来るならば、それらの事象が起きていても、「あーそうか」と手放すこともできるものです。
波動をわざわざ落としてしまうこともない・・という表現は適当でしょうか。
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腑に落ちます (さとり)
2015-12-17 10:45:57
マッチョマンさん、

うなり現象、、とても腑に落ちます。

意思薄弱な私は 「わざわざ波動を落とす」ことしばしばです(笑
急降下と急上昇を繰り返しながら日々揺れております。

でもこれも一興、泡沫の夢と割り切れると気分が楽になるのでしょうね。

貴重な気づきをありがとうございました。
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