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気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

宇宙意識(3)あなたは「想い」で出来ている

2015-03-03 07:08:03 | 日記
●全体宇宙は部分に「全て」を自己投入している

宇宙意識というのは全ての元、根源意識と言えようか。

それはまた普遍的エネルギー、創造神、サムシング・グレート、根源法則・・等とも呼ばれるものだ。

それぞれのわたし達に自分だと思っている「身体」があり、それに気付ける「意識」があるように、宇宙全体も「宇宙という身体」と「意識」があるということだ。

宇宙の中に在る私たちは、即ち、宇宙意識とその表現型である宇宙と「一体化」しているのである。

部分(個々)は全体(宇宙)がなければ存在できないし、全体(宇宙)は部分(個々)がなければ存在できない。

つまり、あなたやわたしたちという、個々の存在がなければ、どれ1つ、どこ1片欠けても、宇宙は存在できないということである。

個々であると信じているあなたも、欠くことの出来ない宇宙の構成因であること、それを自覚しているだろうか?いつも大衆や群衆という十葉ひと絡げの観念カテゴリーのなかに消えていないだろうか。

●3次元的物量観念をマトリクスという

宇宙と私たちが一体化しているのが事実であっても、私たちには普段そういう想いがない。
何故なら、宇宙という表現型の中のほんの1微小片であるという、3次元的物量観念が故である。

肉体は体重何kg、身長何mしかない、極めて小さな肉体塊に過ぎないと感じ、それに比較して、確かに宇宙は果てが見えない程巨大この上ないものであるしているだろう。

そういう大きさや計量のスケールでの比較からして、自分が1なら宇宙は無限∞であり、
1/∞≒0 ちっぽけなものだとしているはずだ。
そうではないか?

しかしながら、それはあくまでも3次元的な物的比較観念の話であり、単に採用している物差しから見たものでしかない。

こういう漠然とした観念にある意識状態は、要は、どうあっても「自分が肉体である」という前提観念、3次元的閉塞観念に留まっていることを示しているのである。

●人間はその想いで自己を規定している

自分は肉体である・・・というのは「思い込み」・・である。

「えー、なにそれ、人間は肉体じゃないの?皆そう思っているよ」という事自体も、
漠然とした想いにすぎない。

自分は単独で行動している存在、人皆それぞれ別々の肉体でしかないではないか、・・・
一般にはそういう風に思っているし、大抵の人はそう感じているだろう。

確かに、あなたの肉体は宇宙から観たら、有るような無いような微小片に過ぎない。
しかしそれは何度も言うように、肉体に物量比較の物差しを当てているだけの話なのだ。

生活の為と称して、いつに間にか、大きい・小さい、高い・安い、重い・軽い等という金銭物量比較思考でドロドロになっている自分の観念に気付けるだろうか。

●資本主義的繁栄は唯物思考の仇花

昨今では、あらゆるものを金銭に置き換え、それを比較してより大きい、より多いものを求めるという刹那的な比較価値づけ観念が大流行だ。

そこにあるのは金融資本主義的観念であり、またその底流には唯物思考が潜んでいるわけだが、そんなに悪いものでもないとしている風潮であろうか。、

銭・金・物さえあれば、そんなに生活悪くない・・程度の認識とでも言えるだろう。

こういう風に、出来るだけ主観的なものを排除しつつ、全てを物質的価値観で納めてしまうことは、自由で民主的と言われる体系にあっては、誰にも共通の価値観念として採用しやすいものなのだが、その底流にあるのは人間さえも有機的であっても「物」に過ぎないという唯物論的な重い思考から来ているのである。

●全ては意識⇒想いによって創られる

あなたは自分が肉体である・・としているのは、何ゆえか?

それは、あなたが・・そう思っている、そう意識している・・からである。

皆もそう思っているし、そう意識している・・と思っているからなのだ。

だから、本当を言えばあなたは「意識」であるするのが正しいが、

それ自体が・・物のように目に見えないから・・存在しないという風に思ってしまうのだ。

人々は漠然と、<自分は肉体でしかない・・>と、小さく「定義」している

つまり、そういう意識状態、認識レベルに在る・・と言うだけの話である。

だから、人間とは肉体存在であるとするのは近視眼的な認識であり、

実のところは「意識存在」であるとするのがより広く深い認識なのである。

●われ思う故に・・我あり

あなたに意識がなければ、「わたしは・・・である」と定義できるはずもない、

単なる物であって等価的には「石ころ」同然の存在である。

しかしそうではなく、

「わたしは・・・である」という認識を働かせているわけで、

今まで「わたしは・・個人的肉体である」と認識・定義して来ただけの話である。

想いが全ての元にあるというのは、こういうところでもそうなのだ。

ところで、一体誰が、絶対的な権威をもって「あなたは単に死すべき肉体である」言ったのだろうか?西洋の学者か、神父様か、偉い坊さんか?

そんな普遍的定義は誰もしていないのだ。

「だって、皆年取ったりして死んでゆくよ・・」というかもしれないが、

それはその存在の・・この表現世界での「借り物」の肉体が、その使用期限を過ぎて、地球に還元されるだけのことである。

「わたし」の・・・<肉体>は、車と同じく耐用年数があるだけだ。

●宇宙は「われ・・・在り」で創造されている

物質分子が確率によって勝手に宇宙を構成しているわけなかろうよ。

そうであれば人間も無意識で偶然で意味のない人生体験をしていることになる。

人間に「意識」がなければ、「わたしは・・・である」と定義できるはずもない、

意識は、「われ…であり」「I AM that・・・」で自己創造してゆくのである。

あなたとは、「あなたが・・・と想うところの存在」である。

想いを変えることで、表現型、周囲環境、体験フィールドが変わることになる。

想いが十分に変わらないがゆえにその表現型、体験も十分に変わらないのだ。

多くの人は、固まった観念の自己打破に時間がかかるため、そうはいっても現実が・・という話に引き戻されることが多いものである。

より自由で快活で、平安に満ちた在り方への希望を、

当たり前の信念にまで高める「意識的作業努力」を忘れてはならない。

これは意識的存在にとって、極めて重要な「観の転換」となる。

あなたもわたしも、即ち、意識の発露である「想い」で出来ているのだ。

だから、自らの想いを観てそれを自らコントロールしなければならないのである。

それをしない場合は、外からの不都合な想いでコントロールされることになる。

必要なのは、注意深くも、自分の思いを自分自身で保持しつつ、そこから出てくる体験を英知に変えてゆくことだ。

魂は、この世界でそれを喜々として、体験したいがために次元降下、下生してきたのである。

古来から悟った人、解脱した人と言われる者たちは、自己の想いを見極め自らで制御すること、いわゆる自己観想を経てきたのである。

想いの制御と創造に気付くこと、これが意識進化上の、越えるべき1つの峠である。



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どうやって解脱するのか(6)心眼を開く

2015-01-06 02:12:55 | 日記
古くから言われる「心眼を開く」とはどういうことだろうか。

『こころの目』を開くとはなんだろう。



文字通り、心の動きを観るという事だ。

それは想念波動レベルのアクセスにも関連するわけだが、

まず、自らの想念を観るという事から始まるのである。

・・・

自分の経験で言えば、瞼を閉じた状態で、

ある意識レベルにおいて、何かを見るということは実際あるわけで、

いわゆる霊視や透視などと同一線上にある「視覚」であるとも言えるだろう。

しかしながら、こういうどこか超常的な能力のほうばかりに興味を持つのは、

いささか早計であるし、またそのこころには威力や能力を求めるプラグマティズム的魂胆があるだろうし、

そこにも物理的効果や利益、能力を使って威力を誇示しようとする無意識の思惑があるかもしれない。

・・・

ここで言う「心眼を開く」とは、全くそういうことではない。


こころの目で見るのは、自分のこころの動きなのである。


『自分の想い、感情を観る』ということなのだ。

何かの出来事や他人の言動によって自分のこころに起きる「反応」を観察するということだ。

自分に起きる想念や感情は、自分のこころの癖や行動のパターンを形つくることに気付いているはずである。

他人に何かを言われて逆上的な感情が生じたり、期待外れで落ち込んだりすることは誰でも経験している。

そういう時に、

そういう自分の想いや感情のゆれ動く様を、自分で観る・・・、

そういうスタンスをどこかで維持していることである。

自分で<自分を観察>している・・・そういうスタンスだ。


例えば、

他者に「このバカ野郎!」と言われては、動揺したり激高したりするわけだが、

それはそれとして、こころの起きるままの状態を、何処かで観ていることだ。

大切なのは、それつまり、自分のこころの反応をしっかりと観ることである。


逆に、すぐに『それ』から逃げようとする、

こころの「微妙な待避行為」が多いことに気付いているだろうか。

その場合、あの人は嫌いだ、ああ問題だ、これは嫌だ・・・という事になる。

そういうものが、気づかず知らずの間にこころの歪みとなるものである。

いわゆる「エゴ」とはそうしたこころのパターンのことであり、

自己保身に根差したこころの動きが、人間関係で大なり小なり歪んでしまった在り様を言う。

そういう意味では、物質偏重文明はエゴの仇花の園のようなものであろう。


世間には様々な意識レベルの人々がいるわけで、

もちろん嫌な相手を無理に好きになる必要もなく、・・問題は相手ではなく、

自分に起きた『こころの反応』をしっかりと観えているか?ということだ。

・・・

「あー、おれは怒っているな・・」

「うーん、わたしは怖がってるわ・・・」

どこか、そういう意識的観察行為が極めて大切なことなのだ。

・・・なぜか?


例えば、怒りの感情にある「自分」を観る<自分>があり、

例えば、悲嘆に沈む「自分」を観る<自分>があることで、

どこか苦痛を感じつつも、それを体験している・・実感というか、

全てはこころの反応や経験に過ぎないというようなスタンスがあるわけで、

言わば、そこにはすでに精神的な大きな物差しが出来ているのである。

物差しが大きければ、小さな事象はとるに足りないサイズとなるだろう。

「だから、それがどうしたの?」という事になる。

「おいおい、ずいぶん悩んだが、今思うといったい、あれは何だったのか?」

ということがあるはずだが、時間差をおかず、その場その時で済まされるわけだ。


こころが揺れ動きながらも、それを経験としてしっかりと観ている様は、

公園で遊ぶ我が子を観ている親がいるようなものである。

そう、「こころ状態」にハマり込んで、二進も三進もいかない状況に対して、

既に『援け』が顕れていることになるのだ。

そういう状態では、こころのけがや傷を負うこと、トラウマ等も激減するものである。

・・・

自分のこころを観ること、想い・感情の意識的自己観察こそは、何をおいても必要な行為である。

人間は思う事や感じることを自己で観ることなく、意識レベルを上げることが難しいのはそういうことだ。




観察とは・・・科学的に言っても、それを「対象化して観る」という事であり、

こころの次元においても同じように、自己観察、想念観察によって、

そこに自己投入、感情投入して、ハマっている自分自身を、

さらに広い意識次元に自らを引き上げるという事である!


・・・理解可能だろうか。

物理的現象や環境は必然的にそれに呼応するように現れるのだ。

自分のこころの反応や動きを観察することに馴れたならば、

自らが苦痛に顔をゆがめることの幼さが理解できることになり、

かつまた、他人のこころの反応や動きも察知できるのは当たり前で、

結果、思いやりや理解の度合いも大きくなるだろう。

そう、それを「愛」、「慈しみ」等と言っている。


また、想いが扱えるようになることで、

喜ばしい想いを意識的に選択できるならば、

昔のように、<心ならずも>いやな目にあってしまったり、

どうしてこうなんだろうと落ち込むことも無くなるだろうし、

外側から来るウソや騙しも見通せるようになるものだ。

自分のこころが見えるならば、同じく他人のこころも見えるため、
 
そういう世界では、いやも応もなく、思いやりや調和が支配的になるのである。


本質的な意味で、

すべてはそれぞれの「わたし」の「こころの反応」で生じているからだ。

・・・

「心眼を開く」とはなんだろうと言えば、

まず第1に、自分のこころの動きを観察することなのである。

地味で刺激のない感があるだろうし、決して壮大なファンファーレもならないが、

人類が避けて通れない、是が非にも必要な意識的努力なのである。


今のレベルにある人間達の喫緊のテーマは、

ありふれた日常の経験の中で、

『自分の想い、感情を観る』ということなのだ。


そして、

自己自身を越えてゆく以外に、道はない。

 

 


・・・

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どうやって解脱するのか (5)空(くう)とは即ち無限である

2014-12-30 07:30:32 | 日記
空(くう)は空っぽではなく、無限の可能性そのものである。

われわれは、まさにその真っただ中にいると同時に、それを観ているものである。


無限の可能性の真っただ中にいるにも拘らず、それに気づかないということは、

良く例えて言われるように、海の中の魚が水を渇望しているようなものだ。

その真っただ中にいるにも関わらず、どこか遠くにはきっと何かがある、未来にこそ希望がある・・、

山のあなたの空遠く・・にこそ理想があるとしつつ、今の瞬間を「我慢している」ようなものだ。


明日の生活、金銭の過小、他者との折り合い、世間への迎合と軋轢、・・・

そんなものばかりを<意識の中心>に据えて毎日を送ることの可笑しさに、

もう気付いても良いほどの経験は、すでに十分に過ぎたのではなかろうか。


それはそれ、あれはあれとしてこなしつつ、

本質的な意味で・・・自己を大切に思う時ではないだろうか。


同じ瞬間は二度となく、なじんだ古い世界も、嗚呼もう過ぎ去る運命にある。

古い時は、もう僅かもないのである。

・・・

我慢や忍耐はもういい加減に通過しようか、

人が変わるのを、世界が変わるのを待つのはやめにしようか。

そう、・・・自らが、理想的な方向への自らを意識し・再創造すべき時なのである。

その為に、世界に<ただひとつ>の「わたし」という意識があるのだ。

あなたのことは、あなただけが変えることができる。


そうだろう?

それとも、未だ愛をくれるはずの、どこか外の世界の人々を追いまわすのか?

まだ、経済がさらに成長すれば幸福になると信じているのか?

どこかの政治家が貴方の問題を解決してくれるのか?

ワハハのTVのバラエティーの中に、何か真実があると思っているのか?

皆と同じ姿で街を歩けば安心が得られると感じているのか?

十分な安心が得られるものと、何十億円もの資産を望んでいるのか?


人々の重大問題は、実は、

そういう何かありそうで何もない、観念の束縛からの「解脱」なのである。



誰にもある・・・「わたし」・・・という自己意識、

それは単に頭の創るイメージに過ぎないと思っているならば、

それこそ無知蒙昧というものだ。


死してなお生まれ変わるものは、「わたし」という意識である。

無数にある<わたし>の経験を今思い出せているかどうかは別として、

意識あるいは個性化の経験をしている「魂」は「時間空間」を越えている。

あなたはまさに魂・意識である。

いまこの瞬間でも、そう・・『わたしは在る・・』という常在する意識があるだろう?


それは小さいながら、神の・・・光あり、我ありという原理そのものなのだ。





空(くう)という無限の意識の母体に揺らぎを生じさせるのは、

自己へ気付きとその時の「想い」であり、

その神なる無限の意識と、そこに生じる無数の色合い・想いによって多次元的な宇宙が生じている。


同じようにして、あなたやわたし達も・・・この宇宙、地球、世界の中に居る。

そして、その世界の中に居るように見えるところの、

あなたやわたし達という意識存在は、

また存在原理としての「神」そのものなのである。

謙遜する必要もなく、卑下も全くふさわしくない。



全ては意識の顕現であり、神の顕現であり、

またその「自己に気付いて」いる・・「自意識をもつ存在」は、

実際は既に<神なる自己に>・・・目覚めているのである。


すでに、もう・・われあり・・・ではないか?

最も身近で、最も当たり前である自己存在原理に気付けるだろうか。


その自己への気付きの程度によって、あらゆる段階、階層ともいえる、様々な自己の存在形態を選択しているのである。

それぞれの魂は、それすなわち、経験をする神のことであり、また神の子などというにふさわしい。


簡単に言えば、

自己が自己である・・・とする意識に・・すでに神が顕現しているのであるが、

なんでも選択可能な神であるからこその、その「想念」選択において、

わざわざ低く狭い想念を、ことさら選択していたということである。

言わばそういう低次元に固定する役目をする者が、悪とか闇とか言われる働きなのだ。



それにほとんど気づけない段階の世界が・1つは・・今までのこの地球世界である。

狭く、暗く、重いこの世界を、宇宙では幽閉世界や牢獄惑星等と言われる所以である。





全ての可能性は空(くう)にあって、

それを顕現せしめるものは「意図」や「想い」であることに気付く時である。

その人の・・・世界の中心は「意図された意識」なのであって、外の誰でもないのである。


「われ・・・在り」


より良いとされ、より安心とされ、より幸せとされる世界に在るためには、

それぞれが他のそれぞれから、何か愛を得ることではなく、

それぞれが他のそれぞれへ、何か愛を与えることである。

その何かとは、自己の発する想いであり、言葉であり、行為である。

他者がどうだろうと、世間がどうだろうと、世界がどうだろうと、実際は関係がないのだ。


愛のない世界の、実に面白みの無さには、もう気づいているはずであろう。

そう、それぞれの「わたし」自身で、自己の周囲を思い切り、想いきり・・変えてしまおうか!

『想い』はそのためのツールなのだが、この言わば『極秘事項』に本当に気づけるだろうか。

・・・・

われわれはどういう世界にいるかといえば、真実はこういう世界なのだ。


空(くう)は言わば、無限の波動であり、様々な周波数の渾然一体のことである。

光のスペクトルのように、

赤、黄、緑、青、紫等の七色の色を合わせると<白>となるように、

空(くう)は無限の波動の混在する海のようなものである。

電磁波や重力、2つの核力など、発見されているもの以外の波動、エネルギーも空(くう)に在る。

我々は、まさに「空(くう」であるところの「意識」の顕現であり、また、「意識」そのものなのだ。



そう、それぞれの「わたし」自身で、自己の周囲を思い切り、想い切り・・変えてしまおう!
・・・・
 
空(くう)なる無限に・・・気づける者は、

空(くう)で在りながら、

空(くう)をも超えている。

それをなんと言って良いかわからない、それ・・・である。

 
 


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どうやって解脱するのか(4) 全ては空(くう)にあり

2014-12-23 07:44:06 | 日記
人は皆自分の肉体の五感、見る・聞く・嗅ぐ・等の言わば情報の海の中にいるために、

見る・聞く・嗅ぐ・味わう・触るなどの<接点>であるところの肉体を「自分である」と”思っている”のだが、それは大きな間違いというものだ。

そう思っている・・そう『認識』している・・だけの話である。

というか、そういう風に思い込まされているとでもいうか、そういう認識レベルにある・・ということだ。
・・・

自分を、密集した肉体細胞の塊とでも感じているわけだが、それは実情と異なることに気付けるだろうか。
・・・
原子は核と電子の組わせで構成され、その組み合わせのタイプで様々な原子が生じていることは誰でも習ったことがある。

ところがその原子核と電子の間の空間、距離はどの程度かといえば、これは全く途方もない遠距離どうしであることが分っている。

原子のすぐそばに電子がまわっているような図柄を見たことがあるかもしれないが、電子は原子核から途方もない距離を隔てて運動しているというのが実情である。

サッカーボールのような原子核が東京ドームに1個あったとするならば、微小な電子はどこに位置するかといえば、小田原あたりの位置にあるとされている。

その間は何もない「空(くう)」、つまり空間が占めている。






原子の実体はそれこそ、めちゃめちゃ空(あ)いている、実にスカスカな空間なのである。

空間におけるエネルギー・粒子の占有率は・・・0.000000~0001とも言えない程なのだ。

だから身体も、宇宙の構成と同じようなものだという事である。


密集した物質で作られた肉体・・・?、

そんなものはどこにもなく、肉体も他の物も、そのほとんどが空間であり、

その中に極めて微小なエネルギー粒子のようなものの運動があるだけである。

自分が肉体物質だと信じているのならば、それは自分が空(くう)であるとしていることになるが、そこまで想いをはせることもなく、世間一般の意識次元レベルで固定されていたのだろう。

実際、全ての元に有るものは「空(くう」である。


・・・

我々はまさに、空(くう)に浸っているというか、空(くう)で満たされている存在である。

えー、マジか?だが、まっとうな科学的イメージでの結果なので否定できるわけもあるまい。

自分の身近な肉体は、固そうに見えて、密集しているように見えて、実はそのほとんどが空なのである。

そう、もっとも身近なものは何かといえば、「空(くう」なのである。

あなたやわたし達は、実際が空(くう)であり、またその中に生じているエネルギー微粒子なのだ。

エネルギー微粒子はクオークとも言えようが、それは空間に現れたり、消滅したりするエネルギー微子とも言えるだろう。

それは3次元的肉体物質レベルでも、いわゆる更に振動数の高い幽体レベルでも、霊体レベルでも同じことである。
 



つまり全ては・・・空即是色・・色即是空・である。
 

この空(くう)というものには「大きさ」も「重さ」もない。

どこもかしこも・・空(くう)であり、その空(くう)には、「あそこ」も「ここ」もない。

理解可能だろうか?

例えば、宇宙のかなたの星の周囲の空間も、ここの空間も・・・全く同じなのである!

つまり、全く違いがない・・・

空(くう)自体には、遠くも近くもない、こちらもあちらもない・・のだ。


つまり「全て」であるとも言えるのだ。

そして、あなたの身体も、まさに空(くう)そのものの・・・なかに在る。


我々に最も身近なもの、・・・・それは空(くう)である。

そこには距離も時間も、あそこも・・ここも・・ない。


そしてそれを、それとして観ている者、・・・『あなた』のことだが・・・、

それはどこに・・・あるのだろうか?






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古い世界の崩壊音(3)世界は変われども、常にわれあり

2014-11-16 06:28:13 | 日記

・・
人為世界には決して自然発生する事象はなく、全てがそれ、人為のなせる業であることを知るべきであろう。

例えば集合無意識によって、生起すると見える出来事であっても、それは偶然ではなく想いと行為による必然の結果であることを理解している必要があるのだ。
 
あなたやわたしの世界でも同じことであり、その人の周囲の出来事もその人を中心とした想いと行為に依存しているのである。

だから、人生を他人が勝手に操作しているというふうに見えていたとしても、

深く大きい存在の層から見れば、結局は自分で創っているということに気付くべきである。

例えば、誰かに何かをされた、言われたとしても、それをどういう風にとるか、どういう反応をするかはすべて「あなた」次第である。

「それに従うより仕方が無い・・・」ということであれば、結果はそれであるし、
「それは違う・・」とするならば、結果はそれと違うのである。
・・・
あなたである、本質的な「意識」およびその中に生じる「意図」、それは全く本質的、本源的なものであることを知るべきである。
・・・
本来、誰にも、何にも、時空にさえも依存していない、おのれ自身で目覚めたる意識、
それがあなたである。


人間が動物と異なるところは、”意識が自らに目覚めている”というところにあり、言葉を変えれば、自分が自分であるという意識がある・・ということである。

これは意識的存在である人間にとって、最も重要な事柄であるのだが、
さも当たり前のことのように毎日毎瞬を素通りし続け、
そんなことよりも、
目先の生活や競争や生存の方策ばかりに目を奪われているという、
笑えない空回りのような忙しさに気付けるだろうか。
 
・・・
全ての世界はそれぞれの「わたし」があってこそ、
認識対象としてそこに世界が出現しているのである。
・・・
世界の中に偶然にあなたやわたしという意識主体が、
ひょこっと刹那の時間に出てくるわけではないのだ。

それは神なる根源意識があるからこそ、世界が創造されていることと同じことである。
 
 
いや、そんなことはない、
誰かが死んでも世界は相変わらずそこにあるじゃないか・・と言うかもしれないが、
それは「あなた」の意識が、この世界にまだ在るからであって、
「あなた」という意識主体がこの世界から外れたとしたら、
いったいどうしてそれを知ることが出来ようか。

いや、今度は霊としてこの世界に降りてきて、世界がある事を見ることが出来る等と言うとしても、
その霊としてのあなたから見たこの世界は、
全く異なった世界と見えることにも気付けるだろうか。

例え、どこにあっても、全ての中心はそれぞれの「わたし」なのであり、
すなわち「意識」から全てが生じるという事なのである。

そこには、意識⇒想念⇒エネルギー⇒現象世界という展開があり、

あるいは、デカルトがいみじくも、あの西洋にあってさえ気付いたごとく、

「<われ>想う・・故に<われ>あり」という気付きであり、

また「天上天下、唯我独尊(存)」という釈尊の言葉なのである。

・・・
釈尊や霊的教師の真実の言葉よりも、

何処かの企業の長の言葉や、言葉でウソを着飾った政治家の話やら、

何処かの大統領の話の方を信じるような人々が多くいるのも、

マスメディアの部分的な情報プロパガンダを信じる人々が多くいるのも、

とうとう、なかなかに極まった世界になったという証拠であろう。
 

今は本当に、こころすべき時に来ているのである。

・・・

例えば、社会というものが規制だらけ、強制だらけであるような、極めて不自由な時代であったとしても、それをどうとらえ、どう対処するかは、全て個々の意識と意図によるものである。

全くの他人任せ、全くの無意識を採用しているならば、それはまさにその通りとなる。
・・・
海が荒れて思うように進まないと見えようと、航海士の腕1つによっているとも言えるだろうし、結局は自分のことは自分で決めているとも言えるだろう。

人の「意識と意思」こそは、それが当初は小さく感じていても、まさに無限の可能性につながった井戸、湧き出し点のようなものであることを肝に銘じておくべきである。

そうでなければ、自分の魂の発露を制限する、不自由で重い意識レベルに甘んじることになってしまい、何事も悪いのは外の世界、他人や世間、社会や世界のせいにしてしまうことになるのだ。

そうなると、外の世界が変わらなければ自分も変われないという想いに捉われ、

常に環境や支配に苦痛をもって甘んじることになるのは火を見るより明らかである。

そこに他者との整合性の歪、つまりカルマが生じるのである。

・・・

それぞれの、あなたの世界の中心は、まごうことなく「あなた」以外にない。

それは利己主義という自己だけの尊さを主張するような腐った信念でなく、

全てのあらゆるものがそうだという意味なのである。


例え多くの存在達がそれに気づいていなかったとしても、

世界の全てが無知に沈んでいたとしても、

それぞれの「わたし」はそれに気づいており、

決して倒れない不動の巌のごとき存在であるべきである。

・・・

外から色々な干渉や、想い込みや、しきたりや義務などが覆いかぶさっているとしても、それがどうしたというのだ?
 
それは全て人間の通念や観念でしかなく、それらにどうしようもない重さを感じることは全く必要な事ではない・・と気づくべきである。

しかしながら、それらの観念やら通念をすべてを拒否して暴れる、反逆するということではなく、それらが単に「観念」であるという事実をまず見極めるということである。

観念や通念は、それ、つねにコロコロと時代を追って変化するものであり、
その変化する浮草のような思考に、その都度真っ赤な顔で真剣になり、

あげくは自分を苦しめたり、丁半博打のごとく人生を掛けて勝負することの愚かさを、
いつかどこかで「悟る」必要があるということである。

他人の単なる思いつきの利己主義的な言葉が、あなたをどうするというのか?

どうするわけもなかろうし、それを一々気にしていても仕方がないことだろう。

あなたの人生を、他人が成り替わって終生面倒を見てくれるのか?
自分でさえも持て余す自分を観ればこそ、それこそあり得ないだろう。
 
政治屋が不思議な力でもって、国民皆を何もせずに富み栄えさせるのか?

あり得るわけもなかろう。

集団で固まっていれば、皆が一緒に生まれ、一緒に死んでくれるのか?
 
またそれで何が嬉しいのか?

双子や三つ子であっても常にそれぞれの人生である。

どうして、そうまでして外の影絵の世界に依存しようとするのだろうか?

・・・

どんどん突き詰めてゆけば分るはずなのだが、それは、

自己が、朽ち果てるべき単なる偶発的な「肉体」存在であるという「観念」が故である。

今までそういう観念が蔓延していただけの話なのである。

大勢のか弱き肉体存在が、集団の中でなんとか生きてゆくには、

何処か「確実に」良心に恥ずべきことでも、

致し方ないという風に流されることにもなるだろう。
 
まさにそういう世界に生きてきたはずだ。
 
そうだろう。

誰にも覚えがあるはずである。
 


そして、魂が気付いている、その潜在的な苦痛を排除すべく、

それさえも忘れてしまえば良いという事にするであろう。

だから、

常に「我を忘れた状態」で生まれ変わることを繰り返すのである。

従って、

あなたも私たちも、今、このような世界にいるという事になる。
・・
嗚呼、友よ、実はそういうことなのだ。
 
・・・

それは、魂がこの世界の意識波動の粗さに驚き、怖れ、

自らの主体たる意識、われと言う在り方の真の意味を再び探究しなかった、

取りあえずの、目先の有り様だけにこころ取られ、

大勢の吐き出す想念の渦に巻き込まれっぱなしの人生を、

取りあえず・・良しとしてきたからではないか。
 
 
しかしながら、それもまた魂としての貴重な経験として記憶されるものではあるが、
 
過ぎたるは、すでに及ばざるがごとし・・となった。


・・・
 
どこかこころに苦痛や倦怠があるとするならば、それは、
 
自己とは何か、
 
本質の自己の探究、その先にある
 
・・無限の道を今まで・・見ようとしなかったからなのではないか。
  
 
しかしながら、繰り返す、繰り返しの有限の「時」は既に・・過ぎて、
 
在るのは・・・ただ、ただ、
  
  
今の<わたし>のその瞬間、瞬間であることに、気づいたはずなのである。
 
 
そう、過去は単なる記憶でしかなく、
  
 
また未来は変化する想いの先にしかない、
 
 
在るのは、ただ今だけ・・・、
  
 
そして、それに気づいているところの

  
<われ>なのである。






本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。