イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
神から学ぶ
「ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から下って来たパンである。」と言われたので、イエスについてつぶやいた。彼らは言った。「あれはヨセフの子で、われわれはその父も母も知っている、そのイエスではないか。どうしていま彼は『わたしは天から下って来た。』と言うのか。」
イエスは彼らに答えて言われた。「互いにつぶやくのはやめなさい。
わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
預言者の書に、『そして、彼らはみな神によって教えられる。』と書かれていますが、父から聞いて学んだ者はみな、わたしのところに来ます。」(ヨハネ6:41-45)
---
「父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません」とイエスは仰る。
いいかえると、イエスのところに来ることができるのは、父がそのように引き寄せた人だけだ。
(対偶を取った。)
「あれはヨセフの子で…」と言い寄っている人々に対して、そう仰っている。
「あれはヨセフの子で……」などと言っていること自体、神から何も教わっておらず、引き寄せられてもいないことの証左だろう。
神が引き寄せ、その神から学んで初めて、「いのちのパン」であるイエスの下に来ることがかなう。
新約聖書に頻出する「イエス」、「キリスト」、「主」という語句に何度目を通しても、それは「神から学ぶ」こととは隔たりがあまりに大きい。
しかし、常日頃聖書に接していないで、どうして「神から学ぶ」ことができようか。
聖書を読むことそれ自体は、大前提にすぎない。
そして、神が引き寄せているのならば、「神から学ぶ」ときがくる。
そのとき、人ははじめてイエスを知り、彼はそのイエスの下に駈けて行く。
そこにある「いのち」を得るために。
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イエスは彼らに答えて言われた。「互いにつぶやくのはやめなさい。
わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
預言者の書に、『そして、彼らはみな神によって教えられる。』と書かれていますが、父から聞いて学んだ者はみな、わたしのところに来ます。」(ヨハネ6:41-45)
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「父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません」とイエスは仰る。
いいかえると、イエスのところに来ることができるのは、父がそのように引き寄せた人だけだ。
(対偶を取った。)
「あれはヨセフの子で…」と言い寄っている人々に対して、そう仰っている。
「あれはヨセフの子で……」などと言っていること自体、神から何も教わっておらず、引き寄せられてもいないことの証左だろう。
神が引き寄せ、その神から学んで初めて、「いのちのパン」であるイエスの下に来ることがかなう。
新約聖書に頻出する「イエス」、「キリスト」、「主」という語句に何度目を通しても、それは「神から学ぶ」こととは隔たりがあまりに大きい。
しかし、常日頃聖書に接していないで、どうして「神から学ぶ」ことができようか。
聖書を読むことそれ自体は、大前提にすぎない。
そして、神が引き寄せているのならば、「神から学ぶ」ときがくる。
そのとき、人ははじめてイエスを知り、彼はそのイエスの下に駈けて行く。
そこにある「いのち」を得るために。
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自分を低く
「だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。」(マタイ23:12)
---
低く(高く)されるお方は、神。
鼻っ柱が強いと折られしまう。
目立たないところで地道にやっていれば、そのうち陽が当たる。
このように、処世訓に解することもできる。
しかし、このみ言葉はマタイ23章にある。
そうすると、「自分を高くする者」とはパリサイ人、律法学者のような階級を指すことが明らかだ。
なにしろ、この23章というのはパリサイ人たちへの悪口を一箇所に編集したような箇所なのだ。
(そのことは、読めば明らかだと思う。)
一方、「自分を低くする者」というのは、彼らとは対極の階級だろうから、取税人や遊女のような階級だろう。
実際イエスは次のように仰っている。
「まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国にはいっているのです。というのは、あなたがたは、ヨハネが義の道を持って来たのに、彼を信じなかった。しかし、取税人や遊女たちは彼を信じたからです。しかもあなたがたは、それを見ながら、あとになって悔いることもせず、彼を信じなかったのです。」(マタイ21:31-32)
(「あなたがた」は、ここでは祭司長、長老たち、パリサイ人(21:23,45)、「ヨハネ」はバプテスマのヨハネ。)
引用聖句は、この箇所とつじつまが合う。
確かに信じるというのは、一種降伏させられるところがあると思う。
取税人、遊女だって、周囲からゴミ扱いされ状況に押しつぶされ、それでいの一番に神に降伏した。
だから「自分を低く」とあると謙遜さを感じるが、それよりも「自分を低くせざるを得ない」という方が近いのではないだろうか。
「自分を低く」することを自覚してかみしめると、「高くされます」、神は上へ上げてくださる。
山上の説教の第一声、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」(マタイ5:3)も、つじつまが合う。
私は、「自分を低く」は、謙遜の意味ではないと思う。
---
[お断り]
仕事が多忙で、毎日書くことが難しくなっています。お休みの日をいただくこともあると思いますが、ご了承下さい。
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低く(高く)されるお方は、神。
鼻っ柱が強いと折られしまう。
目立たないところで地道にやっていれば、そのうち陽が当たる。
このように、処世訓に解することもできる。
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そうすると、「自分を高くする者」とはパリサイ人、律法学者のような階級を指すことが明らかだ。
なにしろ、この23章というのはパリサイ人たちへの悪口を一箇所に編集したような箇所なのだ。
(そのことは、読めば明らかだと思う。)
一方、「自分を低くする者」というのは、彼らとは対極の階級だろうから、取税人や遊女のような階級だろう。
実際イエスは次のように仰っている。
「まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国にはいっているのです。というのは、あなたがたは、ヨハネが義の道を持って来たのに、彼を信じなかった。しかし、取税人や遊女たちは彼を信じたからです。しかもあなたがたは、それを見ながら、あとになって悔いることもせず、彼を信じなかったのです。」(マタイ21:31-32)
(「あなたがた」は、ここでは祭司長、長老たち、パリサイ人(21:23,45)、「ヨハネ」はバプテスマのヨハネ。)
引用聖句は、この箇所とつじつまが合う。
確かに信じるというのは、一種降伏させられるところがあると思う。
取税人、遊女だって、周囲からゴミ扱いされ状況に押しつぶされ、それでいの一番に神に降伏した。
だから「自分を低く」とあると謙遜さを感じるが、それよりも「自分を低くせざるを得ない」という方が近いのではないだろうか。
「自分を低く」することを自覚してかみしめると、「高くされます」、神は上へ上げてくださる。
山上の説教の第一声、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」(マタイ5:3)も、つじつまが合う。
私は、「自分を低く」は、謙遜の意味ではないと思う。
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運ぶ通りがかり
「イエスは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰られた。
すると、人々が中風の人を床に寝かせたままで、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。」と言われた。
すると、律法学者たちは、心の中で、「この人は神をけがしている。」と言った。
イエスは彼らの心の思いを知って言われた。
「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。
『あなたの罪は赦された。』と言うのと、『起きて歩け。』と言うのと、どちらがやさしいか。
人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」こう言って、それから中風の人に、「起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」と言われた。
すると、彼は起きて家に帰った。」(マタイ9:1-7)
---
福音書には、イエスによって病が癒されたり悪霊を追い出していただいたりした人々が、たくさん登場する。
しかし、「あなたの罪は赦された」と宣告された人は、この中風の人だけだ。
この中風の人を運んできた人々、「彼らの信仰を見て」イエスは中風の人に無罪を告げた。運んできた人々には、何も仰っていない。
では、中風の人は素晴らしい友人達を持っていたからこうなったのであろうか。
そうであるなら、それは友愛であって信仰でも何でもない。
むしろ中風の男にとって、この人々は単なる通りがかりで、それにもかかわらず彼らは(治ると信じて)イエスの御許に中風の男を運んだのではないだろうか。
イエスは「彼らの信仰を見て」、病気の癒しなどという小さいこと、たやすいことではなく、中風の男に罪の赦しという大きいこと、難しいことを宣告した。
罪の赦しがどれだけ難しいか。
なにしろイエスがそれを為すために、十字架へと架かる道を歩んでいる。
イエスが十字架に架かり復活した。
この十字架だけが罪の赦し、神との和解を与えてくれる。
通りがかりの人が、そこに運んでくれるのだ。
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すると、人々が中風の人を床に寝かせたままで、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。」と言われた。
すると、律法学者たちは、心の中で、「この人は神をけがしている。」と言った。
イエスは彼らの心の思いを知って言われた。
「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。
『あなたの罪は赦された。』と言うのと、『起きて歩け。』と言うのと、どちらがやさしいか。
人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」こう言って、それから中風の人に、「起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」と言われた。
すると、彼は起きて家に帰った。」(マタイ9:1-7)
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福音書には、イエスによって病が癒されたり悪霊を追い出していただいたりした人々が、たくさん登場する。
しかし、「あなたの罪は赦された」と宣告された人は、この中風の人だけだ。
この中風の人を運んできた人々、「彼らの信仰を見て」イエスは中風の人に無罪を告げた。運んできた人々には、何も仰っていない。
では、中風の人は素晴らしい友人達を持っていたからこうなったのであろうか。
そうであるなら、それは友愛であって信仰でも何でもない。
むしろ中風の男にとって、この人々は単なる通りがかりで、それにもかかわらず彼らは(治ると信じて)イエスの御許に中風の男を運んだのではないだろうか。
イエスは「彼らの信仰を見て」、病気の癒しなどという小さいこと、たやすいことではなく、中風の男に罪の赦しという大きいこと、難しいことを宣告した。
罪の赦しがどれだけ難しいか。
なにしろイエスがそれを為すために、十字架へと架かる道を歩んでいる。
イエスが十字架に架かり復活した。
この十字架だけが罪の赦し、神との和解を与えてくれる。
通りがかりの人が、そこに運んでくれるのだ。
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学問
「しかし、祭りもすでに中ごろになったとき、イエスは宮に上って教え始められた。
ユダヤ人たちは驚いて言った。「この人は正規に学んだことがないのに、どうして学問があるのか。」
そこでイエスは彼らに答えて言われた。「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わした方のものです。
だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。
自分から語る者は、自分の栄光を求めます。しかし自分を遣わした方の栄光を求める者は真実であり、その人には不正がありません。」(ヨハネ7:14-18)
---
彼らはイエスの教えを「学問」と捉えた。
その「学問」とは「正規に学」ぶ必要があるらしい。なんとか大学卒業とか、誰それの門下生であるとか、そういう資格の類が必要であるかのようだ。
ただ、彼らは驚いた。「どうして学問があるのか」。
自分たちの履修した「学問」と同じ内容だったからだろう。
イエスは、父から知らされたことを仰っているにすぎない。
いってみれば、イエス御自身にとっては自明のことを教えていたのだろう。
イエスがたくさんの律法をご存じなのも(例えばヨハネ8:17)、「学問」をしたからでは、全くない。
ただ上からの知恵によっている。下の知識ではない。
下の知識というのは人間的努力によって身につけたものだから、誇ってしまうのだ。
その点、上からの知識は、単に有り難く頂戴できる。
そのことを指して、「自分から語る者は、自分の栄光を求めます。しかし自分を遣わした方の栄光を求める者は真実であり、その人には不正がありません」と仰ったのだろう。
「いのち」や救い(同義語だと思っている)といったものに対しては、下の知識は、ほぼ何の役にも立たない。
そればかりか、かえって狭隘な地点での知的好奇心を刺激するばかりで、「いのち」から遠ざけてしまうのではなかろうか。
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ユダヤ人たちは驚いて言った。「この人は正規に学んだことがないのに、どうして学問があるのか。」
そこでイエスは彼らに答えて言われた。「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わした方のものです。
だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。
自分から語る者は、自分の栄光を求めます。しかし自分を遣わした方の栄光を求める者は真実であり、その人には不正がありません。」(ヨハネ7:14-18)
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彼らはイエスの教えを「学問」と捉えた。
その「学問」とは「正規に学」ぶ必要があるらしい。なんとか大学卒業とか、誰それの門下生であるとか、そういう資格の類が必要であるかのようだ。
ただ、彼らは驚いた。「どうして学問があるのか」。
自分たちの履修した「学問」と同じ内容だったからだろう。
イエスは、父から知らされたことを仰っているにすぎない。
いってみれば、イエス御自身にとっては自明のことを教えていたのだろう。
イエスがたくさんの律法をご存じなのも(例えばヨハネ8:17)、「学問」をしたからでは、全くない。
ただ上からの知恵によっている。下の知識ではない。
下の知識というのは人間的努力によって身につけたものだから、誇ってしまうのだ。
その点、上からの知識は、単に有り難く頂戴できる。
そのことを指して、「自分から語る者は、自分の栄光を求めます。しかし自分を遣わした方の栄光を求める者は真実であり、その人には不正がありません」と仰ったのだろう。
「いのち」や救い(同義語だと思っている)といったものに対しては、下の知識は、ほぼ何の役にも立たない。
そればかりか、かえって狭隘な地点での知的好奇心を刺激するばかりで、「いのち」から遠ざけてしまうのではなかろうか。
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たましい
「――たましいの贖いしろは、高価であり、
永久にあきらめなくてはならない。――
人はとこしえまでも生きながらえるであろうか。
墓を見ないであろうか。
彼は見る。知恵のある者たちが死に、
愚か者もまぬけ者もひとしく滅び、
自分の財産を他人に残すのを。
……
彼らは羊のようによみに定められ、
死が彼らの羊飼いとなる。
朝は、直ぐな者が彼らを支配する。
彼らのかたちはなくなり、よみがその住む所となる。
しかし神は私のたましいを
よみの手から買い戻される。
神が私を受け入れてくださるからだ。セラ
恐れるな。人が富を得ても、
その人の家の栄誉が増し加わっても。
人は、死ぬとき、何一つ持って行くことができず、
その栄誉も彼に従って下っては行かないのだ。」(詩49:8-10,14-16)
---
詩人は当初、「たましいの贖いしろは、高価であり、永久にあきらめなくてはならない」と言っている。
これは、たましいは自分の手でつかみ取らねば、そういう発想だ。
彼は言う。
知恵ある者も愚か者もまぬけ者も、等しく死ぬ。
そして蓄えても、自分が死んでしまえばそれは他人のものになることを嘆く。
しかしこの詩人は行くところまで行って、「しかし神は私のたましいをよみの手から買い戻される」ということに気付かされる。
たましいは自分でつかみ取るものではなく、神が買い戻してそして与えてくださるものだ、と。
それはすなわち、「神が私を受け入れてくださる」証でもある。
自分のたましいの主権は、神にある。自分ではない。
そして彼は富や栄誉というものを死後「何一つ持って行くことができ」ないことを受け入れ、そして人々も全く同じなのだから羨む必要も全くないということを知る。
また、そもそも持つ必要も、更に、持っていく必要もない。
「神が私を受け入れてくだ」ったのだから。
それが、必要十分な全てであった。
たましいを買い戻してくださったということだ。
---
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永久にあきらめなくてはならない。――
人はとこしえまでも生きながらえるであろうか。
墓を見ないであろうか。
彼は見る。知恵のある者たちが死に、
愚か者もまぬけ者もひとしく滅び、
自分の財産を他人に残すのを。
……
彼らは羊のようによみに定められ、
死が彼らの羊飼いとなる。
朝は、直ぐな者が彼らを支配する。
彼らのかたちはなくなり、よみがその住む所となる。
しかし神は私のたましいを
よみの手から買い戻される。
神が私を受け入れてくださるからだ。セラ
恐れるな。人が富を得ても、
その人の家の栄誉が増し加わっても。
人は、死ぬとき、何一つ持って行くことができず、
その栄誉も彼に従って下っては行かないのだ。」(詩49:8-10,14-16)
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詩人は当初、「たましいの贖いしろは、高価であり、永久にあきらめなくてはならない」と言っている。
これは、たましいは自分の手でつかみ取らねば、そういう発想だ。
彼は言う。
知恵ある者も愚か者もまぬけ者も、等しく死ぬ。
そして蓄えても、自分が死んでしまえばそれは他人のものになることを嘆く。
しかしこの詩人は行くところまで行って、「しかし神は私のたましいをよみの手から買い戻される」ということに気付かされる。
たましいは自分でつかみ取るものではなく、神が買い戻してそして与えてくださるものだ、と。
それはすなわち、「神が私を受け入れてくださる」証でもある。
自分のたましいの主権は、神にある。自分ではない。
そして彼は富や栄誉というものを死後「何一つ持って行くことができ」ないことを受け入れ、そして人々も全く同じなのだから羨む必要も全くないということを知る。
また、そもそも持つ必要も、更に、持っていく必要もない。
「神が私を受け入れてくだ」ったのだから。
それが、必要十分な全てであった。
たましいを買い戻してくださったということだ。
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神にのみ見ていただく善行
「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。
だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。
あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。
あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」(マタイ6:1-4)
---
人前でする良き行いというのいは、何を気にしているのかというと、人の目でしかない。
そうすると、その行いそのものが、良いものでも何でもなくなってしまう。
むしろ逆に、「あいつ、良く見られようと思われたくてあんなことやってるぜ…」ということにも、なりかねない。
それが良い行いであるという確信を持てるのであれば、それは必ずや満足感の類を与えてくれる。
(何が「良い」事なのかというのは、とても難しいと思う。)
単純に、事を為したという充足感。
自分の役割がそこに見いだされたという居心地の良さ。
それと、それが確実に役立っているという意義深さ。
良い行いは、こうした要素があいまって満足感を与えてくれるものなので、是非ともやりたいものだ。
そして、そのことで満足感を得ることができるのは、目の前にいる人々に褒められたいからではなく、隠れたところにおられる神にだけ褒めてもらいたいからだ。そしてそれで十分だろう。
充足感も居心地良さも意義深さも、神が認めてくださるからこそ得られるものだと、私は思う。
人目を気にしてたら、到底得られない、というか、取り逃してしまう。
つまり、同じ「良いこと」をするのでも、人前でやるのと神の前でやるのとでは、全く違ってくる。
前者の収穫は、せいぜいほんの一時的な人々からの賞賛にとどまる。
これを上の引用箇所では「すでに自分の報いを受け取っている」と書かれている。下手すると、反発も食らう。
後者の収穫は、ひそやかな、しかし大きい満足感。
「隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます」とあるとおりだ。
---
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だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。
あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。
あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」(マタイ6:1-4)
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人前でする良き行いというのいは、何を気にしているのかというと、人の目でしかない。
そうすると、その行いそのものが、良いものでも何でもなくなってしまう。
むしろ逆に、「あいつ、良く見られようと思われたくてあんなことやってるぜ…」ということにも、なりかねない。
それが良い行いであるという確信を持てるのであれば、それは必ずや満足感の類を与えてくれる。
(何が「良い」事なのかというのは、とても難しいと思う。)
単純に、事を為したという充足感。
自分の役割がそこに見いだされたという居心地の良さ。
それと、それが確実に役立っているという意義深さ。
良い行いは、こうした要素があいまって満足感を与えてくれるものなので、是非ともやりたいものだ。
そして、そのことで満足感を得ることができるのは、目の前にいる人々に褒められたいからではなく、隠れたところにおられる神にだけ褒めてもらいたいからだ。そしてそれで十分だろう。
充足感も居心地良さも意義深さも、神が認めてくださるからこそ得られるものだと、私は思う。
人目を気にしてたら、到底得られない、というか、取り逃してしまう。
つまり、同じ「良いこと」をするのでも、人前でやるのと神の前でやるのとでは、全く違ってくる。
前者の収穫は、せいぜいほんの一時的な人々からの賞賛にとどまる。
これを上の引用箇所では「すでに自分の報いを受け取っている」と書かれている。下手すると、反発も食らう。
後者の収穫は、ひそやかな、しかし大きい満足感。
「隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます」とあるとおりだ。
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植わった木
「その人は、
水路のそばに植わった木のようだ。
時が来ると実がなり、その葉は枯れない。
その人は、何をしても栄える。
悪者は、それとは違い、
まさしく、風が吹き飛ばすもみがらのようだ。」(詩1:3-4)
---
東に騒ぎあればすぐさま東に飛び行き、南の群れを見いだすや乗り遅れまいと群れに混じる…。
あるいは世渡り上手というのかもしれない。
だが、私はこのタイプをまるで信用していない。
根がない、というか、まさに「もみがら」だ。
「水路のそば」というのは土が軟らかいと思うのだが、そういうところにがしっと根を張る「植わった木」。
一本、芯があるといえばよいだろうか。
私はこういう人間になりたい。
根は水路が崩れることを防止する。
実を喜んでもぎ取る人がいる。
そして葉でできた木陰で人は一息つく。
こういうのをこそ「栄え」というのだろうと、私は思う。
---
[お断り]
本日の記事は、自分でも気に入っている5月10日の記事に、若干の修正を施したものです(タイトルも変更しました)。
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水路のそばに植わった木のようだ。
時が来ると実がなり、その葉は枯れない。
その人は、何をしても栄える。
悪者は、それとは違い、
まさしく、風が吹き飛ばすもみがらのようだ。」(詩1:3-4)
---
東に騒ぎあればすぐさま東に飛び行き、南の群れを見いだすや乗り遅れまいと群れに混じる…。
あるいは世渡り上手というのかもしれない。
だが、私はこのタイプをまるで信用していない。
根がない、というか、まさに「もみがら」だ。
「水路のそば」というのは土が軟らかいと思うのだが、そういうところにがしっと根を張る「植わった木」。
一本、芯があるといえばよいだろうか。
私はこういう人間になりたい。
根は水路が崩れることを防止する。
実を喜んでもぎ取る人がいる。
そして葉でできた木陰で人は一息つく。
こういうのをこそ「栄え」というのだろうと、私は思う。
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本日の記事は、自分でも気に入っている5月10日の記事に、若干の修正を施したものです(タイトルも変更しました)。
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アダムの肉の自制
「もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。
もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。
ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。
もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。」(ローマ8:10-13)
---
昨日、「アダムの肉」というタイトルで書いた。
きょうも引き続き、この「アダムの肉」ということばを使ってゆくことを前置きして…。
「からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています」。
この「からだは罪のゆえに死んでいても」の部分が、アダムの肉それ自体は消えてなくなるということはない、肉はやはり肉なので死んでいるということを言っている。
だが、その前に、こうある。
「もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら」。
そうであれば、アダムの肉は処罰済みなので肉として死んだままでよし、その上で、まさに「義のゆえに」生かされることとなる。
「キリストが……おられる」とあるからには、キリストは確かに来られる。
そのことも、昨日書いた。
それは実に驚くほどのことであって、しかし拍子抜けするほどなんでもない。
そのようにキリストが来られて、自身が十字架の上で処罰されたのと同じように、今度は彼のアダムの肉を処罰なさる。
このことを「心の割礼」(ローマ2:29)、また他の表現に置き換えても大丈夫だろう。
(様々な表現があろうと、どれも同一の本質を指しているというのが、私の考えだ。)
彼のアダムの肉は、処罰された。
もはや彼は、そのアダムの肉に従ってしまう責任を、神に対して負っていない。
しかし、「もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ」とある。
自由で責任がないからといって、調子に乗ってアダムの肉の欲望のままの行動をするのならば、当然に痛い目に遭う。それでは、「いのち」を頂いた意味をなくしてしまう。それこそ「死ぬ」ことになってしまう。
だから、アダムの肉が欲求するままに行動する「からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きる」ことになる。
この箇所は「からだ」( body )。
例えば、ごみ箱蹴飛ばしてやれとか、そういう行動の自制が「からだの行ないを殺す」に相当する。
アダムの肉が、蹴飛ばしたいという衝動を引き起こす。これ自体は、既に赦されている。
(以前は、律法が不可を突きつけていた。)
だが、その衝動を、このからだを用いて行動に移すかどうか。
欲望のままの行動に移すと、上に書いたような痛い目に遭う。
ちなりに、「からだ」は今の例えでいうと、もっぱら足を指す。具体的な身体を指している。
一方で、肉( human nature )は、「アダムの肉」。
少し意訳すると、生まれ持った人間の性質といったあたりか。
とてもひと言ではまとめ上げられない。
キリストが内住されていても、アダムの肉の衝動というのは、それ以前と同様、襲ってくる。
ただ、今は肉を自制してからだの行いを殺すことを覚えた。
キリストがそのことを教えて続けて下さっている。
(「内住」というのも、上に書いたように、「様々な表現」の1つだと思っている。)
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もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。
ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。
もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。」(ローマ8:10-13)
---
昨日、「アダムの肉」というタイトルで書いた。
きょうも引き続き、この「アダムの肉」ということばを使ってゆくことを前置きして…。
「からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています」。
この「からだは罪のゆえに死んでいても」の部分が、アダムの肉それ自体は消えてなくなるということはない、肉はやはり肉なので死んでいるということを言っている。
だが、その前に、こうある。
「もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら」。
そうであれば、アダムの肉は処罰済みなので肉として死んだままでよし、その上で、まさに「義のゆえに」生かされることとなる。
「キリストが……おられる」とあるからには、キリストは確かに来られる。
そのことも、昨日書いた。
それは実に驚くほどのことであって、しかし拍子抜けするほどなんでもない。
そのようにキリストが来られて、自身が十字架の上で処罰されたのと同じように、今度は彼のアダムの肉を処罰なさる。
このことを「心の割礼」(ローマ2:29)、また他の表現に置き換えても大丈夫だろう。
(様々な表現があろうと、どれも同一の本質を指しているというのが、私の考えだ。)
彼のアダムの肉は、処罰された。
もはや彼は、そのアダムの肉に従ってしまう責任を、神に対して負っていない。
しかし、「もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ」とある。
自由で責任がないからといって、調子に乗ってアダムの肉の欲望のままの行動をするのならば、当然に痛い目に遭う。それでは、「いのち」を頂いた意味をなくしてしまう。それこそ「死ぬ」ことになってしまう。
だから、アダムの肉が欲求するままに行動する「からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きる」ことになる。
この箇所は「からだ」( body )。
例えば、ごみ箱蹴飛ばしてやれとか、そういう行動の自制が「からだの行ないを殺す」に相当する。
アダムの肉が、蹴飛ばしたいという衝動を引き起こす。これ自体は、既に赦されている。
(以前は、律法が不可を突きつけていた。)
だが、その衝動を、このからだを用いて行動に移すかどうか。
欲望のままの行動に移すと、上に書いたような痛い目に遭う。
ちなりに、「からだ」は今の例えでいうと、もっぱら足を指す。具体的な身体を指している。
一方で、肉( human nature )は、「アダムの肉」。
少し意訳すると、生まれ持った人間の性質といったあたりか。
とてもひと言ではまとめ上げられない。
キリストが内住されていても、アダムの肉の衝動というのは、それ以前と同様、襲ってくる。
ただ、今は肉を自制してからだの行いを殺すことを覚えた。
キリストがそのことを教えて続けて下さっている。
(「内住」というのも、上に書いたように、「様々な表現」の1つだと思っている。)
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アダムの肉
「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。
肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。
神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。」(ローマ8:1-4)
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律法は素晴らしいものだ。
ただ、この神の律法、完璧な律法を守ること、守り通すことが、人間にはどうしてもできない。
というのも、人間にはアダムの肉が備わっているからだ。
アダムの肉は、神の定めた律法を完遂しようとしてもできず、「救い」にもれていた。
聖書にはこの状態を、「肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました」と書かれている。
何を「神はしてくださ」ったのだろうか。
「神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです」。
神の子イエスにアダムの肉を被せて、その上で世にお遣わしになった。
「人間・イエス」。
人間・イエスは、処罰されるがために、この世に来られた。
神がまとったアダムの肉は、最も罪深い人物として十字架の上で徹底的に処罰された。
神が下した処罰だ。
何を処罰したのだろう?
イエス、ではなく、アダムの肉、これを処罰された。
「アダムの肉の処罰」、これが「腑に落ちたとき」、「彼の中のアダム」も処罰される。
そのとき、「律法の要求が全うされる」、すなわち、律法に照らして罪( sin )はないとみなされる。
実際に罪は、ある。
だが、ないと「みなされる」。
彼の「救い」だ。
アダムの肉は処罰され、罪と死の原理から解放された。
「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」。
処罰されたアダムの肉を持ち続けていても無罪だ。安んじてよい。
アダムの肉は、自分で処理しようとしても、けっしてできない。
どうしても、「処罰され」る類のものだ。
だから、修行の類は、この「処罰」に関しては全く無意味だ。
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肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。
神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。」(ローマ8:1-4)
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律法は素晴らしいものだ。
ただ、この神の律法、完璧な律法を守ること、守り通すことが、人間にはどうしてもできない。
というのも、人間にはアダムの肉が備わっているからだ。
アダムの肉は、神の定めた律法を完遂しようとしてもできず、「救い」にもれていた。
聖書にはこの状態を、「肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました」と書かれている。
何を「神はしてくださ」ったのだろうか。
「神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです」。
神の子イエスにアダムの肉を被せて、その上で世にお遣わしになった。
「人間・イエス」。
人間・イエスは、処罰されるがために、この世に来られた。
神がまとったアダムの肉は、最も罪深い人物として十字架の上で徹底的に処罰された。
神が下した処罰だ。
何を処罰したのだろう?
イエス、ではなく、アダムの肉、これを処罰された。
「アダムの肉の処罰」、これが「腑に落ちたとき」、「彼の中のアダム」も処罰される。
そのとき、「律法の要求が全うされる」、すなわち、律法に照らして罪( sin )はないとみなされる。
実際に罪は、ある。
だが、ないと「みなされる」。
彼の「救い」だ。
アダムの肉は処罰され、罪と死の原理から解放された。
「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」。
処罰されたアダムの肉を持ち続けていても無罪だ。安んじてよい。
アダムの肉は、自分で処理しようとしても、けっしてできない。
どうしても、「処罰され」る類のものだ。
だから、修行の類は、この「処罰」に関しては全く無意味だ。
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悪との共存?
「そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。
すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。
私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。
ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。」(ローマ7:21-25)
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「私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っている」。
自分の内側には、隠しようも誤魔化しようもなく、悪が宿っている。
この悪を、取り去りたい。
しかし、どうあがいても、悪を取り除くことができない。
取り除いても取り除いてもなお、悪が見つかるのだ。
「私は、ほんとうにみじめな人間です。……、ただ神に感謝します」。
彼は急変したのだ。
何故だろう?
ともかくここで、様変わりする。
そして彼は言う。
「心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです」。
肉を持つこの自分は、「罪の律法」すなわち悪が宿っていることをよしと認めている。
悪があるのは肉があるからで、肉がある以上悪は消えない。
悪を取り除くのではなく悪と共存できて、そうして神に感謝できた。
自分の中に悪があっていい。
悪の側面を内に持つ自分を認めて、一息つく。
そのことが分かっていれば、悪事という形で表出することをコントロールできる。
もう少し広範な概念、また世俗的な物言いをすると、等身大の自分との和解というところだろうか。
「共存」できたのは、彼自身の力づくによってではない。
神が御恵みの風をお送り下さったからで、人間は、ことこの事に関しては、どこまでも受け手だ。
ただ、ふと「風」に触れると、上のように様変わりする。
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すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。
私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。
ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。」(ローマ7:21-25)
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「私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っている」。
自分の内側には、隠しようも誤魔化しようもなく、悪が宿っている。
この悪を、取り去りたい。
しかし、どうあがいても、悪を取り除くことができない。
取り除いても取り除いてもなお、悪が見つかるのだ。
「私は、ほんとうにみじめな人間です。……、ただ神に感謝します」。
彼は急変したのだ。
何故だろう?
ともかくここで、様変わりする。
そして彼は言う。
「心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです」。
肉を持つこの自分は、「罪の律法」すなわち悪が宿っていることをよしと認めている。
悪があるのは肉があるからで、肉がある以上悪は消えない。
悪を取り除くのではなく悪と共存できて、そうして神に感謝できた。
自分の中に悪があっていい。
悪の側面を内に持つ自分を認めて、一息つく。
そのことが分かっていれば、悪事という形で表出することをコントロールできる。
もう少し広範な概念、また世俗的な物言いをすると、等身大の自分との和解というところだろうか。
「共存」できたのは、彼自身の力づくによってではない。
神が御恵みの風をお送り下さったからで、人間は、ことこの事に関しては、どこまでも受け手だ。
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