リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

生きることで落ちていくもの

2012-05-05 21:55:07 | コーヒーブレイク
 こんばんは。いつのまにかベランダから見る景色は若葉一色(一色といってもいろんな黄緑色があるといえばありますが)。遠くの町のビルも木の葉に隠れて、目に見える人工物といえば金網と遠くの高圧線くらいになってしまいました。
 って、どこに住んどるんじゃい。


 本日は連休のためコーヒーブレイク。といえば、マイフェイボリットシング。
 今日は歌の話。
 
 名曲の定義はいろいろあるでしょうが、歌えない歌っていうのもあるんじゃないですかね。
   歌えない歌。涙で。

 ……「療養所(サナトリウム)」
    「第三病棟」
    「僕にまかせてください」
    「フレディもしくは三教街-ロシア租界にて-」……
 
 さだまさしばっかりですね。(ネット「さだまさし全曲歌詞集」から引いてきたんですからあたりまえですが)
 ばっかりではありますが、逆は真ならず。
 今日の朝日新聞土曜版は、「さだまさし・精霊流し」特集でしたが、「精霊流し」はなんということもない、誰でも歌える愛唱歌。 歌というのは自分で歌うものだから、どんなひとでも理解できる歌でないと、流行はしないのね。
 
 ま、いずれにしてもさだまさし。弱いものの立場に立てた人間でした。 
 と、過去形。
 彼氏、借金だらけの中で、自分の道を切り開こうとしたとき、日本の青春がいっぺんに終わってしまった。ま、いつか終わるものだからそれでいいのだけれど。あとは強いものの歌ばかり。
 人間、弱いもののことを歌っても、それは弱いものの歌じゃないのね。
 強い人間がそれをしても、弱いものを見ている強いものの歌でしかない。
 強いものには弱いものの心はわからない。弱いものの心を表現できるはずもない。
 
 人間て、いつか、自分一人でいろんなことができると知ってしまう。若いときって、典型的に自分が何もできないって思い込んでる時代だと思うんですけどね。その一方で、でもやればできるかもしれない、とも思っている。そこからみんな何かをしだすんだよね。そうするとできることがあることがわかる。その過程で、もしかするとなんでもできるんじゃないかと思う人もいる。
 そうしてそのうち、みんな、それぞれに何かしら自分だけでできることを覚えて、大人になってしまう。 
 こうして、人間は青春の歌を歌えなくなる。
 
 ときどきここで、「なんで詩は若いときしか書けないんだろう?」、と書いてきましたが、考えた結果、答えはそんなところではないか、と結論しました。
 
 「だからなんだ」 って、ぼくは自分が強くなってしまったから、弱い人が好きだな。
 
     歌は歌わなくてもいい。歌えなくてもいい。
     ただ自分の中で、世の中にそれが存在することを誇り見守る歌がある。それでいい。



 それはそれとして、さだの歌をyoutubeに載せると(著作権だかと)文句をつけるような奴は人民の敵だな。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする