こんにちは。ようやく来た休みの土曜は、朝から夜までディズニー・シーでなんも休みではなく。
しかも嬢ちゃんばかりはいいとしてもみんな若すぎて、あこりゃ年取っちゃったのかな、ってそりゃ疑いもないことではありますが。みんな自分の娘より下じゃ、位置付け不明な人々に、明るくない感慨を覚えたものであります。なんて、長々いたくせに。
それにしても納得できないのが、テディーベアブーム。ディズニー・プロがミッキーのなんとかかんとかのベアとかっていわれを作って売り出したそうですが、商売お上手ね。しかしあんなもんどこが可愛いのかね。熊のぬいぐるみは好きだけど、テディーベアだよ。それを嬢ちゃんたちがみんな手にしたり腕にしたりバッグにしたりしてるってわけだ。わけわかんね。
せめて「クマのマック」とかならわかるんだが。
http://members2.jcom.home.ne.jp/smastani/seateddy/mack/index.html
ま、そういうわけで本日も疲れきって。
以下、ちょびっとですが。
異動で、いきつけの図書館が変わりまして、前は古いまあまあな本があったのですが、今度は新しい本しかない小さな図書館で。もっぱら暇つぶしの趣味本を借りるしかないところ。
で、借りたのがドングリの本。
ドングリったっていろいろで、食べるところ(いわゆる実の膨らんでるところ)は「実」だったり皮だったり種だったりするんだそうで。 どうだ、不思議だろう、ってわけですが、なんだかねえ(注:ほんとは木の実一般の話。私がドングリに収約しただけ)。
そういうのって、ドングリにとっても、人間にとっても、「同じ実」なんじゃないのかねえ。「いや皮だ」、とか言う奴のほうがおかしいんじゃないか。ドングリの方だって、要するに芽の養分貯蔵庫になりゃそれでいいんだから。人間だって、指の先で人の顔が識別できれば、それは指の先にある「目」だろうが。
というわけで、本日は「理論」というものの性格です。
「理論」というのは、基本的に主体的(=主観的)実用に供するために作り上げるものなので、人間は以下のように実用化していくものです。
まず、時間を固定して
第1に、考える行為主体にとっての現象状態について正しく当てはまる、機能論=現象論。
第2に、考える主体が、自分の周りの現象から抜け出ようとするとき=変革するときにのみ正しく当てはまる、本質論。
また、ちょっと次元を変えて、時間を問題にして
Aとして、行為主体が環境を話題にしてそれを説明しようとするときに使う、歴史主義。
Bとして、行為主体が、環境に刃向かおうときに、その根拠となってくれる、人間主義。
世の中の「正しい理論」というのは、決して一つあれば済むものではなく、この4通りのそれぞれが、行為者の状況に応じて、正しく世界にフィットすることになるんです。
なんていってもわかるかなあ、と思ったら、前書いたような気もしてきたけど、どうかな。
現象論ていうのは、年越し派遣村の湯浅誠さんが政府役員したら「政府もがんばってる」なんていいだすようになった視点のことですね。「お前だってよくいう」、って、ま、そういうことでさあ。
それは事実だ、と。
しかし、事実をいってたら何も変わらない。 「しかし、それはそうではない」、といわなくちゃね。
それを何を根拠に言うか。手順は、目に見える現象の前提を崩すことにある。
「それはそうではないんだ、それは資本家に取り込まれているだけだ。そうやってみんなが一生懸命体制を守ろうとすることになるのが、資本主義の本質なんだ」という次元で展開するのが、本質論。
ドングリなら、「種を太らせると芽が1つしかできない。私は芽の数の多さで勝負したいのだが、どうにかなるか、、、そうだ、実を太らせて分化させれば、種はいくらでも作れるんじゃないか」、と考える。ま、考えやしないだろうけど、分化の部位はあちこちで可能である、という本質があれば、そういう道を選ぶことができる。
また同様に、「この現実は歴史的に作られているから、これは変えることはできない。仮定の話をしてもしょうがないんだ、これが現実だ」、といってしまえば、それはそうだ。この現実は歴史的に作られた。 つまり歴史主義である。
しかし、「何を言うか。この歴史を作ってきたのはわれわれであり、これからの歴史を作るのはわれわれだ。」といえば、それもそうだ。 つまり人間主義である。
それぞれの視点は、行為者がいったい何を分かろうとしているのか、そのそれぞれのために取られる。
人間ていうのは、これらの両方を知って初めて、世の中、というものがわかるんだよ。
しかも嬢ちゃんばかりはいいとしてもみんな若すぎて、あこりゃ年取っちゃったのかな、ってそりゃ疑いもないことではありますが。みんな自分の娘より下じゃ、位置付け不明な人々に、明るくない感慨を覚えたものであります。なんて、長々いたくせに。
それにしても納得できないのが、テディーベアブーム。ディズニー・プロがミッキーのなんとかかんとかのベアとかっていわれを作って売り出したそうですが、商売お上手ね。しかしあんなもんどこが可愛いのかね。熊のぬいぐるみは好きだけど、テディーベアだよ。それを嬢ちゃんたちがみんな手にしたり腕にしたりバッグにしたりしてるってわけだ。わけわかんね。
せめて「クマのマック」とかならわかるんだが。
http://members2.jcom.home.ne.jp/smastani/seateddy/mack/index.html
ま、そういうわけで本日も疲れきって。
以下、ちょびっとですが。
異動で、いきつけの図書館が変わりまして、前は古いまあまあな本があったのですが、今度は新しい本しかない小さな図書館で。もっぱら暇つぶしの趣味本を借りるしかないところ。
で、借りたのがドングリの本。
ドングリったっていろいろで、食べるところ(いわゆる実の膨らんでるところ)は「実」だったり皮だったり種だったりするんだそうで。 どうだ、不思議だろう、ってわけですが、なんだかねえ(注:ほんとは木の実一般の話。私がドングリに収約しただけ)。
そういうのって、ドングリにとっても、人間にとっても、「同じ実」なんじゃないのかねえ。「いや皮だ」、とか言う奴のほうがおかしいんじゃないか。ドングリの方だって、要するに芽の養分貯蔵庫になりゃそれでいいんだから。人間だって、指の先で人の顔が識別できれば、それは指の先にある「目」だろうが。
というわけで、本日は「理論」というものの性格です。
「理論」というのは、基本的に主体的(=主観的)実用に供するために作り上げるものなので、人間は以下のように実用化していくものです。
まず、時間を固定して
第1に、考える行為主体にとっての現象状態について正しく当てはまる、機能論=現象論。
第2に、考える主体が、自分の周りの現象から抜け出ようとするとき=変革するときにのみ正しく当てはまる、本質論。
また、ちょっと次元を変えて、時間を問題にして
Aとして、行為主体が環境を話題にしてそれを説明しようとするときに使う、歴史主義。
Bとして、行為主体が、環境に刃向かおうときに、その根拠となってくれる、人間主義。
世の中の「正しい理論」というのは、決して一つあれば済むものではなく、この4通りのそれぞれが、行為者の状況に応じて、正しく世界にフィットすることになるんです。
なんていってもわかるかなあ、と思ったら、前書いたような気もしてきたけど、どうかな。
現象論ていうのは、年越し派遣村の湯浅誠さんが政府役員したら「政府もがんばってる」なんていいだすようになった視点のことですね。「お前だってよくいう」、って、ま、そういうことでさあ。
それは事実だ、と。
しかし、事実をいってたら何も変わらない。 「しかし、それはそうではない」、といわなくちゃね。
それを何を根拠に言うか。手順は、目に見える現象の前提を崩すことにある。
「それはそうではないんだ、それは資本家に取り込まれているだけだ。そうやってみんなが一生懸命体制を守ろうとすることになるのが、資本主義の本質なんだ」という次元で展開するのが、本質論。
ドングリなら、「種を太らせると芽が1つしかできない。私は芽の数の多さで勝負したいのだが、どうにかなるか、、、そうだ、実を太らせて分化させれば、種はいくらでも作れるんじゃないか」、と考える。ま、考えやしないだろうけど、分化の部位はあちこちで可能である、という本質があれば、そういう道を選ぶことができる。
また同様に、「この現実は歴史的に作られているから、これは変えることはできない。仮定の話をしてもしょうがないんだ、これが現実だ」、といってしまえば、それはそうだ。この現実は歴史的に作られた。 つまり歴史主義である。
しかし、「何を言うか。この歴史を作ってきたのはわれわれであり、これからの歴史を作るのはわれわれだ。」といえば、それもそうだ。 つまり人間主義である。
それぞれの視点は、行為者がいったい何を分かろうとしているのか、そのそれぞれのために取られる。
人間ていうのは、これらの両方を知って初めて、世の中、というものがわかるんだよ。