リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

もう一つの部類

2009-03-20 21:25:53 | その他
 おばんです。ようやく温かくなってきました。おかげで夜ともなればもうほとんど目が開けていられない。はい、ご多聞にもれず花粉症。でも私のようにン十年以上花粉症だと、さいきんのグッズやら薬やら、マスコミの吹聴やらって、なんか変だと思いますね。昔の武器はチリ紙だけですよ。花粉症者は誰一人同情してくれる者もなく孤独な戦いをしてきたわけです、って、これは理屈。単に春だからいつものように我慢してきただけ。大学受験日だってチリ紙と共に存在してましたが、それが何か。みたいなもんです。もう、ティッシュありましたけどね、ってチリ紙知らないか。

 で、本題。アナーキストのもう一つの部類。
 え? そんな題?
 そんな題。どうもgooで新規記事を出してくれるのも悪しかれで、書いてるほうも気を使うんですよ。なるべく来ないように、みたいなところがありまして。わけわかんなきゃこないだろ、みたいなところで。

 で、私のような穏健派以外によくいう無政府主義者という人たちがあります。
 理論はないんですが、でも権力に歯向かえる性格がある人たち。
 そんな人たちにも、穏健派は、マルキストのセクト主義とは異なり仲違いすることなく、エールを送っているわけです。

 なんでか?
 結局、穏健派って、マルキストのように体制的なんですよね。
 体制的なスタンスのもとに理論を構築していく、体制的なスタンスを拒否する性格ではないから理論も構築できる。
 しかし、それは体制派には変わりはありません。

 オーソドックスな無政府主義者も、穏健派と同様に、自分の規準と他者の規準を同じくする。
 この、自分と他者を同じくする、というのが、アナーキストであることの定義です。

 で、オーソドックスな無政府主義者は、やはりその無政府主義を誰にでも当てはめようとする。
 われわれ穏健派としては、なんや、無茶苦茶やねん、と思うわけですが、穏健派は自分が無政府的野蛮さのない体制派ですので、なんといっても自分の同情に限界があることを知っている。かくて、結果として、「彼らもいいところあるじゃん」(何じんかね)と思うことになります。もちろん、自称で「体制派」といえること自体、大きすぎる自信ではありますけどね。

 ま、とにかく、自分と他者を同じく扱う人は、これを突き詰めれば私たちと同じアナーキストです。
 今後ともよろしく。

  (今日、明日、明後日、ちょっと忙しくて軽くなってます)
コメント
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