リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

イデオロギーからの自由(その3)

2008-09-27 22:28:10 | 社会学の基礎概念
これも前回の続きではあります。

前回は、社会の中で、主に資本主義的生産関係から生ずるイデオロギーについて、そんなもんにかかずらあう必要はないが、そこから自立するためには、権力からの自由が必要だ、と書いたところです。

さて、それに対して、共同体それ自体にイデオロギー的圧力が存在する場合が多々あるものです。
しかも、この場合、ちょっとニュアンスが違う。

生産関係から生ずるイデオロギーは、個人が自分の社会的役割に応じて心ならずも、状況に応じた社会操作であるのに対して、こちらは、権力をかさにきた権力行使のイデオロギーです。
生産関係を統括しているのが、共同体という統一関係。これから離れると、そこでの消費が得られなくなるのが共同体です。
まあ、資本主義社会では、相当程度「名残り」というものになってはおりますが、それにしても村八分は大変苦痛になる。町なかならいいですけどね。
で、そこでの権力が、イデオロギーの源泉となり、共同体のおじ(い)さん、おば(あ)さんたちのよきオモチャとなる。
実際のイデオロギー使用者は、素朴に「よかれと思って」他人に共同体的価値観を発している場合が多いんでしょうね。

そんな共同性からの脱却は難しい。やっぱ人間は、ある程度ですが、「類的存在」というものがありますね。共同性を形作る契機をなくなさなければいけない反面、共同的つながりを確保しなければならなくもある。それは本来、人類にとって、広い地域の中での家族的なつながりであったかもしれませんね。

まあ、といって、権力は権力。アナーキストの敵です。
かくて、現在、モデルとして考えるべきは、本来は、パブのような、消費の過程において、語らうために会って消え、そしてまた会う、というつながりであり、
また、それだけでは生きていけない。第2に、消費物資の獲得過程において、つまり、職域、ないし家庭消費上で、作業上のダベリングや井戸端会議に想定される、仲間的つながり、と考えざるを得ないところです。

 余暇の遊びに、仕事の手抜き。こんなことを確信をもって勧められる人間て、日本人1億2千万の中で、私以外にはもう何十人もいませんよ。
 でも、これらは10万年前からつい数十年前まで、どこの資本主義(勃興期)社会でも行われていたことです(中層以上勤労者なら)。
 今の若者は、みんな資本主義イデオロギーに浸っちゃってるんでしょうねえ。
 イデオロギーからの脱却のためには、「金儲け」は敵なのです。

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イデオロギーからの自由(その2)

2008-09-27 22:27:31 | 社会学の基礎概念
前回の直接の続きです。

人間、自分の思想に捉われても不満はないが、イデオロギーに捉われるのは不愉快です。
でもないかな? 中高年は。もう慣れ切ってるかも。
ま、このブログの読者は、多くは若者と考えましょう。
  ここんとこのポイントは、自分が表現すべき自分の思想が、自分の倫理として自分自身の生と一致しているかどうか、という潔癖性ですね。要するに、自分の生とは自分が表現して作っていくものだ、その大事な表現が、本当に自分のものなのか、という点。
  そりゃ、そんなことを考える余裕がない労働者はたくさんいるわけですが、人間の生産様式って、これをクリアしないといけないように進展してるわけで、かつ、ここでいうイデオロギーを口にする人間たちは、困窮労働者じゃなく「世間でうまくやってってるやつら」なわけです。私も含めてですけどね。

さて、そんなイデオロギーについて、世の中、イデオロギーから自由になることができる。
社会の役割を果たす人間は、それを大義名分に何をいうのも勝手だ。しかし、同じ理屈で回りの人間はそんなヨタ話に付き合う理由などない。資本主義社会とは、生産関係から抜けて、行為をする場が確保されている、自由が進展した社会なのです。もちろん限定的な自由ですが。
しかして、部分的に自由な人間は、そんな、社会圧力で口を買い上げられている人間を、憐憫の目で見ることができる。
自由な人間、そんな生産関係から抜けている人間であれば、イデオロギー表現の圧力を抜けることができる。
逆にいえば、社会 (の生産関係、自分の消費物資のやってくるおおもと) が押し付けてくるイデオロギーから自由になるためには、そうした状況そのものから抜けることが必要なのです。

すなわち、権力からの自由。

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イデオロギーからの自由(その1)

2008-09-27 22:26:45 | 社会学の基礎概念
ごぶさたしとります。ちょっと夏休みをずらして旅行してまして。
更新もしないのに訪問客の数が私の友達の数よりも多い。
どなた様か知りませんがありがたいことです。
人って、結局のところ食べて寝るだけのことだから、人の獲得できるものって、その合間合間にどれだけ他の人と関わったかということ(だけ)なんですね。

なんて殊勝なことをいうにしちゃ友達甲斐がないとかいわれそうですが、目が悪くてよく見えなくて。見えないんで挨拶はご遠慮。その上中高年で、頭も悪くなってきたし。

  ま、とにかく、コメントととかいただけると更新も多くなりそうですが。

というわけで、今回はイデオロギー。
ネットでくるくるしてますと、世間ではびっくりするようなことが起きてるんだな、と思います。あきれかえる変節を前にして、なんで、私は生まれたままなの?  ま、「本当に」変節かどうかはどうでもいいですけどね。

まずは、「イデオロギー」とは現実の中では何か。

世の中、「なんとか主義」を生きている、ように見える人っているじゃないですか。まあ、私がどうかは別として。
で、そういうのが「イデオロギー」だ、というと現実的にはかなり違う。

なんていうと、定義を勝手に変えるなと、かなり怒られるかなあ。
でも「思想とイデオロギーは、はっきり分けたほうがいいんじゃないか」っていうのが、一つの結論で。
思想は、個人が本心から主義として表現したがっている、と自分で思っているもの。
イデオロギーは、個人が本心であるなしに関わらず、他人に表現して同調させようと思っている事柄。
こんなふうに分けたほうが、現実が理解しやすいんではないか、と。

たとえば、左翼組織の人たち、この人たちは自分の思想があると自分が思って人にそれを広めようとしています。
その動因、個人がなんでそんなことをするのかという理由は、現状が彼に運ぶ優越と賞賛、というわけです。
なので、そういう人たちの8割は周囲の支えがなくなればそこまでの人たち。組織の幹部も含めて。誰も褒めてくれなくなればもっとウケがよいところへ回る。
残りの2割といえば、別の1割の人間が、理論を遂行することに優越と賞賛をつかむ。残りの1割の人間が、それを箱にしまって別の人生を生きていく。

この8割やら2割やら、という話は社会科学外の事情なんで、興味はありません。まあ、心理学でも性格学でもいいけど。そういうのは、だからどうするという因果関係には直接には結びつかない。人間てそういうものだ、っていってしまうとわかりやすいだけの事柄。
これは別にバカにしているわけではなくて、経験値ですね。たとえば70年闘争に参加したものがみな「本当に思想を生きる人間」だとしたら、今頃は日本は世界でもまれな理想主義国家になっている。みんな中高年で社会の重鎮だからね。

(注)理想的国家じゃないですよ。単に理想を追うだけの経済的には三流国家。
   ただし、腐った米を仲間に食わせるような奴はいやしないだろうけど。
   ま、幸か、不幸か日本はそうではない。「どうせ人間なんてそんなもんさ」と思っていると実際そうなる。
   そういうのが社会における実験というやつ。まあ、心淋しい経験値だけど。

さて、「イデオロギー」というのは、それと少し違って、いわば、人間の利害のみを表現している。

人は、何かを発言するときにイデオロギーを実行しているわけです。
それ以前に何を個人的に考えていてもそれはイデオロギーではなく、幾つもある考え方のひとつをなぶっているにすぎない。
では、彼は何を発言しているのか。
組織の代表は、組織大会では、(こんなことウソだけど、とりあえずこう言っとくしかないな)と考えながら、『内乱を作りだせ!』とかと運動方針を発言する。これがイデオロギーです。それは自分の考えではなく、状況の中で発言せざるを得ない表現です。
あるいは大企業の代表は、マスコミ記者を前にして、(オレは本当は社民党に投票してるんだけどな)と思いながら、『もっと自由競争を進めないと、日本は持ちませんよ』とか発言する。
これがイデオロギーです。
日常、どこにでもあるイデオロギー形態。
これを聞いた他人は、「あの左翼指導者はゴリゴリの過激派だ」とか「あの経営者は資本主義が姿を変えたような奴だ」と思う。それを否定する要素などありません。
大会後や記者会見後に、楽屋裏で「あんなこといったけどホントですか?」なんて聞いても、「なんだてめえ、オレがウソをついてるとでもいうのか!(よくわかったじゃねえか)」と怒鳴られるだけです。
でも、本人は実は(内乱なんて起きるはずねえだろ。)と思い、(競争もやりすぎたら誰か死ぬぜ)と思っている。

こういう表現と思想とは、分けたほうがいいって分かるでしょ?
人は頭の中で何を考えていても、表現することでいくらでも右翼になれるし左翼にもなれる。そして他人にとっては表現されたことの方が、本当の彼なのです。

人間は毎日そうやって生きている。自由業者と学者以外は、少なくとも。主婦でさえ、子供たちには育児イデオロギーを告げる。

ここまでは前段。
ちょっと切りましょうか。
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