リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

国家のディスアドバンテージ

2008-09-07 21:47:38 | 歴史への視角
 一種、前回の追加。

 住友化学「オリセット・ネット」
 かなり前、Yahooで見ただけですけどね。マラリアから子供達を守れるという、要するに殺虫剤付き「蚊帳」。
 大企業でもこうゆうのを作る人は一人ですが、じゃあ、国にいるかといえば、そんなもんいない。気持ちはあっても開発工程がない、あるいは外注するほどの予算持ちの権力者のことをいえば、権力官僚はそんなことは考えも及ばない。
 さてところで、中零細企業でそんなことができるかというと、それは社長でなければできない。
 さらにところで、こうした事象は、現在において評価される現象であるだけで、大企業なり中企業社長であるとはいえ、そこで儲けなくともかまわない、という独占のアドバンテージは、世界的には慈善行為なら無駄遣いしてもいいよ、という欧米資本主義価値観に基礎付けられている。慈善行為は彼らには税金だからね。一方、日本企業は別途税金を払ってるのに慈善行為もやってるという、それなりのもんかも。独占である間はね。
 いいたいのは、国家ではできないこと、マルクスが夢見た、人間が人間的意思を実現しうる共産主義第一段階的国家でもできないこと、国家官僚が、職務構造上考えられないこともある、ということで。
 世の中というのはびみょうなものです。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

国家権力のアドバンテージ

2008-09-07 21:47:03 | 歴史への視角
 前回の続きで。

 さてはて、ここリベルタリアン、またはアナーキストのブログで、現行体制を前提に革命がどうのというのもなんだか、とゆうものみたいですね。本当はそんなことないんですけどね。私は昔から穏健派ですし。

 で、革命、つまり全ての差別・被差別・平等、その他を解放させる契機とは、常に、別の選択肢の中で、生存することができるか否か、ということにあります。
 資本主義社会の革命で、資本主義的分業労働者が飢えて人口を減らすか、持続的に「国民一般」となるかも、当然、それによる。
 こういうシンプルな話を自称『思想家』は知らないんですよね。
 まあ、それもいいことなんでしょう。知ってると奥歯に物が挟まりますから。自分だけが正しいと思わない限りは。

 国家は、その武力(=暴力=権力)によって、その時点での生産力を使って思い通りのことができるものです。
 それを変革する武力革命の前提は、平民的武力、つまり常備軍の存在、そして生産関係的必要ですが、ここで生産関係的必要は、革命後の社会をも規定するわけです。
 前回もいいましたが、後進国のほうがかえってよいことには、統御する生活水準が少なくていいことです。
 食料といくつかの工業製品。インフラ。これで済めば話は楽です。そこに従事する人間たちのみ考慮すればよいし、いったん権力をとってしまえば無視することさえできます。しちゃだめだ、っていっても聞く奴らじゃないんですし、これが。

 先進国ではそうはいきません。つまり、「比べてみれば先進国」ではなくて、絶対的先進国、というものがあるんです。
 先進国では、いくつもの工業と、足りない農業製品を買う他国マネーと、なによりも役に立たない第3次産業労働者への公平的消費物資の配布をシステム化しないといけない。
 現行の左翼の圧倒的に情けない理論水準、というよりも無理論の同好会のレベルでは、会結成後50年経ってもそんなことは頭の隅にもないようですが。
 そんな困難な状況で、「生産点の奪取」などというスローガンには意味はありません。先進国では、まずは国家武力を手にする必要があるのです。
 アナーキスト諸君もそこはわきまえなければいけない。まあ、遊びでアナキストをやっている諸君はどーだっていいですが。
 マルキスト諸君も、アソシエーションはいいが、それで革命ができると思ったら大間違いです。
 さらに、議会主義者の諸君も、だからといって議会主義で政権が取れると思ったら大間違いだ、とも言っておく必要がある。

 どうしろと、いうんじゃい、というところですが。

 いっているのは、われわれは、過渡期社会と、革命と、革命運動とをきちんと分ける必要がある。
 第1に、過渡期社会では、アソシエーションもあるだろうしアナーキスティックな権力制御もありうるだろう。しかしまず革命により国家権力を奪取する必要がある、ということです。
 第2に、しかし、爛熟期資本主義社会においては、戦争だ、革命だ、というお題目ではなく、人民全体の生き死にをどう制御していくか、というイメージを出さずに、デモごとき以外には、誰も動くものではない。それが持てない諸君らは、単に、遊んでるだけだ。
 さらに第3に、しかし、革命運動とはもちろん選挙投票ではない。生産点の奪取には意味はないが、生産点をわが手に、と「言う」運動には意味がある、ということです。

 せっかく、与党も日本のお飾りになるまで凋落したところ (日本を日常動かしているのは官僚と経済界、という構図がはっきりして、社会科学学生は勉強しやすいですよね。もちろん、官僚は、武力を動かすまでの政策判断はしませんが)、
 政権を取ろうったら、インテリなだけじゃだめすよ。民主党や社民党のことですが。普通の人の志向を組み込まなきゃ。民主党的小泉とか、社民党的小泉とかね。別に支持する気はありませんので、深くは言いませんが。
 共産党も今までの政治主義(=政治権力をもてあそぶ人間が、理屈を真に受けて近寄ってきた善良な人たちの肉体力だけを吸い上げてあてにして選挙運動に駆り立てる方法) のままじゃどうしようもなかったですが、ここんとこ、時代でしょうかね、善良な人も力を伸ばしてきたようで、とゆうよりは、年寄りが引退してきたようで、それはそれで。

 ま、どーでもいいんだ。とりあえず。
 大衆が動くにはまだ早い。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

革命とは過去何であったか

2008-09-07 21:46:14 | 歴史への視角
 こんばんは。
 東京地方(地名、川崎市ですが。昔から何もお世話になってないし、、、まあ、ゴミと図書館は。)すごい雨で。
 おかげさまで涼しくなって、ようやく頭が動きます。

 ここんとこ、コーヒーブレイクが多く、私んとこのお客さんは半分以上コーヒーブレイクのお客さんとは思いますが、ホームページにありますように私はAB型なんで、そーゆー浮世離れが嫌いな志向も持ち合わせておりまして。
 で、突然ですが、爛熟資本主義国家はどう変えうるか。
 「どっちが浮世離れか」とゆう声も聞こえてきそうですが、そりゃ日本にいるからですよ。

 第一に、もともと革命というものは、歴史的に、この人間史5千年の中で一般化できます。 それは自由を求めることが許されているという事実認知 (反抗の方法と、反抗後の消費物資の入手方法)を入手した一群の人間たちによる支配者および支配形態の変更です。
 反抗というからには、その時点での支配階級との共同性のなさが必要であり、その後の消費物資の入手には、それが可能な階級、勃興する階級(階層)が必要となります。
 反抗の事実認知は、その中で生ずる、ある意味、しょうがない出来ごと。
 それゆえ、およそ革命というのは、そんな歴史的一時点の社会の現象形態であり、どこにでも生ずるものではありません。世界でも異常な、日本のような全体社会を通じた現在の共同性の高さは、飢えからの革命の発生機序を不足させるものです。

 第二に、国家の要素は武力と生産関係です。武力は生産関係とは折り合いをつけることが必要で、それさえつけば武力発揮は必要がない。したがって対抗的な武力的革命は、生産関係上の要素が少なければ少ないほど、国家武力の反撃も受けず、新しい武力政権の確立も容易となります。武力の行使に、生産関係的要素がなければ、いくら観念的でもオッケー。単に小銃をぶっぱなせばいい。
 フランス革命での国家武力は、集まった財産をどう処理するか、という問題しか抱えていなかった。従って、武力の当事者の交代以降は、シンプルに、法的規制を外すことしか要請されておらず、後は言いたい放題やりたい放題で、後代の制度修正を待てばよいものだったわけです。
 一方、ロシア革命時の武力は、国家官僚機構の操作権しかもっていなかった。その結果できなければいけないと歴史に規定されている事項は、別に資本主義でも社会主義でもない。商品経済に統制されないある種の生産機構、というだけなわけです。
 いったい資本主義とは、別に生産関係の歴史的必然を指すわけではありません。
 さらに、社会主義とは、なんら、経済的な規定ではありません。
 国家武力はそうした生産関係に対して、その時点での折り合いをつければよいのです

 第三に、ただ、生産関係はどうでも、生産力というものはあります。生産力概念の本体は、その増大圧力です。増大しない生産力など生産力ではない。人は(自分の上を見た)今の消費状況を確保すべく行為します。この先はどうでもいいわけですね。せいぜいこの時代の最大消費者以上の消費を欲しがりはしません。
 その中で、武力は、生産力を増大するように諸関係を組み立てる。
 産業社会勃興期においては、武力は自己の武力権力を保全しつつ生産力を増大させます。
 およそ資本主義者たちがソ連社会主義をけなすなど片腹痛いことで、1920年代ソ連が社会主義ではなく資本主義社会(=商品経済)であっても同様に農民・労働者は飢え、国家官僚の代わりに資本家がさらに王侯のような暮らしをしていたに過ぎません。一方では労働者は社会主義ソ連よりもっと悪い暮らしをしていたのに間違いなどない。

 長くなってきました。まあ、ここんとこ内容薄かったし。

 ちょっと時代は上がり、絶対王政における支配の変化とは、支配権力が商行為的な利害関係しか結んでいない経済勢力の勃興を敗北の基礎として、別の武力権力に敗れることでした。
 同様に日本における江戸政権も、同様の体制を基礎に内部から敗れたという事態です。なんていうと自称マルクス主義者から文句が出るところです。しかし、ここで、破った主体が絶対主義なりの政権の内部にいたのかどうかなどということは、問題ではありません。いったい誰が武器を取って破ったからといって、歴史の意味が変わるなどというのは、史的唯物論を知らない人間の言です。
 絶対王政が敗れた先は、資本主義しか残っていない、というこれが生産力の問題です。
 生産力とは、何も弁証法的な神学世界の問題ではなく、それまで生きてきた人間の多くが同じように、あるいはそれ以上に生きていける、あるいは残った少数の人間が死なずに生きていける、という問題なのです。
 資本家や商工業者は、王権の実入りがなくなった瞬間に別の実入りを開拓しなければなりません。そしてブルジョワ革命の一瞬とはそれが可能な歴史的時代なのです。

 さて一方、帝政ロシアにおいては、奪取した支配権力は、使いうる少数の企業、少量の流通機構のみを操作する官僚機構を働かせればよかった。
 もちろん、よいのは支配権力にとってのみです。
 圧倒的人民は、労働力の集中化による支配意思の貫徹のため、少量の収奪の変化のみを糧として権力に使い回される。そしてその歴史における人民の量に対する少量の生産力とは、それ以外の現実の変化を意味しないのです。

 野にある革命政権の支持者は、貧乏な人民について、政治局員の2割の厚みでもいい、風の通らないオーバーを娘に着せてやりたい。あるいは、息子をせめて中学校に通わせてやりたい。
 しかし、生産力の収奪とは、そうした願いを打ち砕くものでしかありません。
 それでも人間は、飢饉がこない限り生きていけるものです。そして飢饉が来て死ぬのは帝政時代でも変わりはしない。という以上の状況ではない。

 うそだと思ったらアフリカでも散歩をしてみるとよろしい、私はしてませんが。生産の共同性のない自称国家とはそういうものだ、と川崎市図書館の所蔵図書には、みな書いてあります。
 食べるものと家がある世界、それが不満のない最低限であり、ここから家がなくなった段階で、日本でもアフリカでも、救済対象が、やっと、眼前化するのです。

 いかにも長いですね。ちょっと切ります。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする