リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

ナショナリズム

2007-12-02 18:42:26 | 上部構造論
 間を空けて改めて見ると、このブログも読みにくいですねえ。本とどっちがひどいかねえ。
 それでもせっかく読んでくれる人がいるとすると、何かためにならないといけません。
 今回は「ナショナリズム」という言葉をめぐる混乱について。

 世間のナショナリズム論議で議論にもならない理由が、まずコトバの混乱です。
 
 愛国心が好きな人は、「『ナショナリズム』は愛国心で、これが分からないのは共産主義者だからだ」、という。
 ナショナリズムが嫌いな人も、「『ナショナリズムは誰にでもある。これを政治的に利用するからいけない』」とか展開する。
 共産主義者でも、日本共産党は、「間違ったナショナリズム(間違ってないナショナリズムがある)」「真の愛国の心で」とかいうんじゃないですか。

 ちゃうちゃう。
 人が何を思っていようがどんな行動をしようが、そんなものはナショナリズムではない。思うのは勝手さ。日の丸の旗を部屋に飾って毎朝三拝するのも勝手。
 そうじゃない。
 ナショナリズムは「イズム」、思想なんだから悪いのですよ。「国のためにお前が死ね」と「言うから」悪いのですよ。
 これを全員が隠している。いえるのは私のような本物の個人主義者だけ。
 愛国主義者の爺さんも、よもや自分が中国と戦争するなどと思ってやしない。するのは他の誰か。
 日本共産党も「愛国のために革命をしろ(二段階戦略の第1段)」といいたいところを他人にはいわないだけ。
 
 「いやそんなことはない。どんな国民も愛国心を持っている。お前にはないのか非国民」って。
 うるせえなあ、なんだよ、国民て。俺が生まれた国を好きだろうがどうだろうが、お前に言われる筋合いはないや。
 と、いいたいところですが、それも単刀直入すぎる。
 
 もちろん、なんにでも根拠はあるんで、愛国心もナショナリズムも空中から生まれはしない。
 人が生活のために集まると次のように行為に道筋ができます。
 まずは、生理的な消費物資を共同して作る関係から生じた必要による、共同性を守る規制ができます。この時期、用水の水は順番に使うとか、食えなくなったら最低限助け合え、とか。そして、この規制を守ることへは、賞賛・優越が与えられます。
 ここにひとつのまとまりができる。そして、このまとまりができた後は、その共同体が持つその後の教育機能によって子供の頃から賞賛がまとまりを強化します。家の手伝いをしろよ。この時期、用水の掃除は村のために子供がしろよ。

 次に、長い歴史のうちに武力による支配が成立するきっかけが生じます。
 自分の村にはもう食い物がない。しかし、山向こうの村には食い物があるように思える。
 武力による支配が成立するまでには、本来、本末転倒な、生き残るために死んだりする戦いに勝利するという、いくつもの生理的必要をめぐる闘争が必要ではあります。例外では、支配に向かう者たちに圧倒的な武力の優位にあるという場合はありますが。
 長いといっても、アメリカでもこの2,3百年で終わってしまう短さです。
 ともかくも、消費上の交換の地域的範囲において、武力的にこれを掌握し、支配層の消費を確保することとなります。これが国家であり、支配層への階梯が、可能性としては承認されている範囲の人々が国民です。奴隷はアメリカ国民ではありません。奴隷は法律的に「モノ」です。インディアンはモノではないようですが、当初、アメリカ国民でもないですね。
 
 さて、ともかくも成立した武力的掌握において、支配権力は常に武力を行使し続けるわけではありません。
 武力的支配層は、消費を確保できれば、生理的安寧を確保したがります。そのための支配ですから。すなわち、食っちゃ寝で日々を暮らす方向を目指します。
 この折に発生するのが、まずは「取り決め」です。
 取り決めは、それによって複数以上の人間を巻き込むことにより、武力の中の肉体力をさらに強化することができることになります。これはある場合には法であり、ある場合には共同体的規制です。

 なかなかナショナリズムに行きつきませんね。まあ、ここからですね。

【第1の場合】
 ついで、武力をあるひとつの世代を超えて継続させる場合は、支配の中に賞賛の繰り入れが発生します。
 今の支配者はもちろん偉いが、支配者の前の支配者はもっと偉い、というわけですね。こうした支配者の崇拝体制は、支配者のが行為する人格であることから、原始時代のように自然環境への迷信的依頼がある場合には、常に交換可能です。
 すなわち、宗教の支配思想化が生じます。

【第2の場合】
 武力的支配は、支配者の行為を媒介として、行為の共同性を押し延ばすことができます。
 自分は小さな村に住んで自給自足で生活している村長なだけであっても、支配者になれるかもしれない、と思える人間、=支配階梯の中にいる人間にあっては、支配者が欲しいと思っている毛皮のコートを確保することも自分の次の行為の目標となりうる、と思います。
 
 ちょっと横道にそれますと、人は消費をめぐって特定の生産関係に陥らされるわけです。
 生理的資源をめぐる関係(経済的関係)のうち、消費が個人行為にとって決定的である一方、生産関係は行為の共同性にとって、決定的です。
 消費においては、行為は他者の行為を自己の行為とすることはありません。他人の行為が問題なのは、せいぜいが食卓マナーくらいなものです。
 一方、生産関係においては、他者の行為によって自己の消費物資の獲得が決定されることになりますから、他者の行為を自己の行為に組み込む必要があります。そして、支配国家では生産関係と支配者の武力がセットになっているのです。
 村長が、とぼけて支配者の毛皮のコートへの欲望を見ないフリをすると、年貢で身ぐるみ剥がされ、あるいは引っ立てられて殺されたりします。
 一方では、支配層は、村長以上のこれに連なる支配階梯について、毛皮のコートを生産する他国について、「われわれと同じではない」共同性を事実認知として、作り上げます。
 他方、「われわれは同じだ」という神話も創ることになります。
 まあ、この神話は、支配階梯を同じくしない被支配者については不要ですけどね。逆にいうと、支配階梯が一致してくる場合には、つまり曲りなりに教育制度が整い、これに被支配民族も乗っかれるような時代になると、この神話を拡大修正してくることになります。
 
 さて、このように確立した国家においては、国家対他国家(あるいは他民族)の行動への国民を動員する必要がでますので、国家と宗教に関する教育を必然化します。
 ここで、国家というものは、ただの単語でサインに過ぎません。そんなものはないんですから。ないのですが、国家をめぐる行為として学校や宗教組織が押し付けてくる行為のすべては、個人個人の行為者に備えられていく行為の道筋です。これはいやでもなんでも現実にある。自分というものは、こうした行為の道筋の塊ですから。
 さらに支配が宗教を媒介手段として選んだ場合は、神は、ただの単語やサインではなく「行為者」なので、神による支配を招来することになります。

 でも、まだこれはナショナル「イズム」ではない。ただの行為規範です。
 「愛国心」を持った爺さんや婆さんがそのままナショナリストなわけではない。
 
 ナショナリズムとは、こうした過程を社会で貫徹させようとする運動のことです。それが「イズム」としてのナショナリズムです。だから、それは支配者の運動なのです。だからそれは戦争の温床なのです。だからそれは被支配者をも含んで良い世の中を作ろうとする勢力であれば、否定するのが当然の思想なのです。



【注1】
 一つのポイントは、自称確立した国家であっても内部の共同体と支配の階梯ができていなければ、ナショナリズムをめぐる過程からは外れるということです。
 この場合、内部の共同体がクニとなります。共同体というのは、生産関係、つまり生理的利害を共有することで行為の将来と規制を共にする範囲ですね。
 ナショナリズム過程から外れればよいかというと、そんなことはなく、ナショナリストの口車に乗った支配階梯に連なる兵士たちに蹂躙される対象となるわけです。

【注2】
 なお、共同性としては、その他に、宗教教義(や革命思想)のような行為規制を伴う抽象性が形作る人的な集合、要するに宗教セクトではそれ自体に宗派的共同性が生じますし、思春期までの、生活上の行為よりも行為方針の確立が重要な時期においては、青少年は、伝記的人物その他と仮想的な共同性を結ぶことができます。

【注3】
 「自己を管理する倫理」と「他者を支配せんとする思想」との区分とパラレルに、外界においては、「自己環境を保持せんとする愛郷土心」と「支配環境を保持させようとするナショナリズム」とが存在するわけです。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「パリの爆薬」 | トップ | コーヒーブレイク・その2 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

上部構造論」カテゴリの最新記事