リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

つづき

2016-12-24 11:40:02 | 社会学の基礎概念
 こんにちは。東京地方、例によって1ヶ月違いの温かさ。湿っぽいけど。
 あったかさとは別に、ようやく血圧も元のようになってきました。1ヶ月以上かかりましたが。会社にもうつ病の人とかたくさんいますが(なのでアルバイトが引く手あまた、というわけで)、これは自分の力ではなんともならないのだから可哀想です。
 ともかく昨日は休みで助かりました、年の瀬ですからね。
 この10年ばかし不規則勤務で天皇誕生日はあまり貢献してなかったですが、やはり休みはよろしい。天皇退位しても休みが残ると思えばそれもせめてもの人民への貢献です。って、退位後も残んだろね。
 
 さて、世間では糸魚川大火。なんといっても命が消えなかったのは良かった。
 糸魚川は最近4回くらい在来上下線で通ってまして、糸魚川出身の知り合いがいるんで意識して見てて、そんな繁華街、車窓から見えなかったがなあ、と思いましたが、駅の向こう側(の見えないところ)のようですね。 なんでも街中に消防車6台しかない、とか。東京じゃあ2キロちょっと四方程度の管区ごとに4台はいますがな。もちろん、すぐに隣管区からも来るし。
 地方はカネないんだよね。ほんと、おかしい。必須支出もできないんだから。もっと地方税を国税化して、国から交付し直すべきです。そんなことサヨクはいわないけどね。だいたいなんも考えてやしない。
 
 で、考えてみると、東京にいて長生きしてますと、日本全国どこで災害が起きても、誰かしら関係者がいるような。そう思うと、なんとも、なんとも、という感じですね。
 原発の富岡、地震の熊本、神戸、秋田、新潟中部栄村、三陸諸町、噴火の大島、三宅、大したことない桜島。ただ、沖縄は身内が引っ越してしまってもういない。
 一極集中、若い人は、昔から、東京がいいやね。
 人間てそういうもんだし。

 他のニュースは、エイベックス松浦社長 労働基準監督署からの是正勧告に“反論”てのがありますね。いわく、
「そもそも法律が現状と全く合っていないのではないか」「好きで仕事をやっている人に対しての労働時間だけの抑制は絶対に望まない。」
 ばーか。好きでやってるって誰が決めるんだよ。
 そんな資本家野郎の犠牲者が出るから、現状を変えるためにわざわざ法律があるんじゃねえか。みんながやりたきゃ法律なんて作るわけねえや。
 と、これでは一般論ですね。若人は「そんなこともあんじゃないの?」と思うかもしれない。
 そこでもう少し言うと、中年前までは好きでやっても40の声を聞くとそうもならない、というわけです。まあ、「お年」ですね。
 さらに、昨日までは課内仲良くやれたので何もつらくなかったが、課長が変わって締め付けるのでいっぺんに面白くなくなった、でもやらないとしょうがないのでウツになる、というのもあります。こんなのは自分が偉い資本家どもには絶対に分からないことでね。
 しかし、社長も労働者も同じ日本人な日本。こんなやつらと同じとはいわれたくない。いい加減にして欲しいもんだ。
 
 さて、この辺で「つづき」に。
 みなさまがどこまで分かってくれるのか分からないので、つぶやくように続きを書きますと、
 サルトル的独我論からすれば(哲学者千人中999人は「サルトルは独我論ではない」、とかいうでしょうからご注意)、次に控えるのがフォイエルバッハテーゼ。人間は社会的諸関係の総体である、というわけです。これは独我論と2択のようですがそうではない。独我論的状況とは、すべてが外にある状態なのです。自分のものではない状況について、これを社会関係の総体、といわれてしまえば、認識存在する外界を、それはお前のもんじゃないよ、といわれたわけで、そりゃごもっとも、ということになる。とはいえ、そこはマルクス主義に任せて、じゃあそこから行為主体はどう外界を扱うか、と展開させたのが「弁証法的理性批判」です。未完ですが。中身の展開、間違っちゃったからね、未完もしょうがない。まあ、資本論が未完なのと一緒。お互い様だね。
 
 さて、ではフッサール・ハイデッガー流では状況の取り扱いはどうなるか。ここに鬼頭英一という九州大学教授だったハイデッガー哲学者の論文があります。いわく「全体的な状況と部分的な状況が区別されることになる」。(隈注:いや、ならない。) いわく「私の内心」の状況と「私の外界」という状況がある。(隈:いや、ない。) いわく、事実的状況と投企されたる状況が云々、いわく自由になる状況と自由にならぬ状況が云々、エトセトラエトセトラ、、、
 隈:なんだなんだ、いったい何が言いたいのだ、と怒るか悲鳴をあげるか、は読み手の性格による。
 こんなふうな絶対者視点など、本来の現象学に生ずるはずがない、といっても言いだしっぺがフッサールじゃあしょうがない。「バカどもが」と、これもつぶやくしかないですね。
 もちろん、ここから由来する現象学的社会学など、ただの社会心理学の派生形にすぎません。
 
 と、先に役立たずのつづきを書いてしまったので、酒飲み用、役に立つブログ。
  
 世の中、年寄りでないと知らない、変わってしまった過去の知識も多々ございます。そういうことは知ってる人が、あるいはまた、記録に残せる人が、知らない若人のために書いておいたほうがいいのではないか、と。
 当方、おかげさまで生きながらえて最近誕生日を迎え、貰ったウイスキーを呑みまして。オールドパー12年。う~ん、いまいち。
 さて、世間でネット情報で受け取れるのは若人の言のみ。
 で、私は昔の(父ちゃんが貰った)サントリーオールドもオールドパーもしっかり味を覚えているので、若人がネットで、今の酒を飲んで感心せず、昔の伝説のオールドパーを、「あれは吉田茂他が褒めてたから有名なんだ」というのを見ると、そりゃひがみ根性だ、としか思えません。
 なにが違うって、まず度数が違います。今は40度ですが昔のスコッチは43度基準。(サントリー)角だって43度(か42度)だった時代、この度数はきっちり味に反映します(角の43度は反映しない。そもそも今と作りが違う)。昔のオールドパーは今のようにマイルドではない。一口に言って、昔のは重いのです。ズシっという感じ。二口目にいうと、匂いがもっと燻製。今のは薄めすぎ。で、そこの辛さをマイルドにして香りもマイルドにすると、昔のシーバスリーガル12年の味になるのです。ま、40年前ね。
 スコッチは聞くところによるとブレンダーがしっかりしてるそうなので、変わったのは度数だけでしょう。
 と口で言いながら、これは私とっては、からかいの言。ま、お客さん相手だからね、商売人と同じ。
 友達にだったら「バカやろう。毛唐なんて口先ばかりだ、偉そうなこといって、やることはサントリーとおんなじじゃねえか」。サントリーオールドの見る影もない変節もひどすぎ。
 ってことは日本人も口先だろうって? 違います。サントリーは40年前から、自他共に認める作り酒、勝手酒。偉そうなことはいいません。おかげさまで日本人は安くウイスキーを楽しめるのです。サントリーは誠実で偉い。ま、今回は、パーの話。あ、そうだ、昔はパーもシーバスも12年以上なかった、といっておかなければ。
 
 ずいぶん長くなりました、本日はクリスマスイブですね。
 この数年、めっきりクリスマスらしくなくなりましたが、今日は豪州牛に600円ワインで何か作ろうと思いおります。
 
コメント
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