リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

状況内と世界内の差

2016-12-17 11:03:09 | 社会学の基礎概念
 こんにちは。東京地方、今日はいったん真冬もおさまりそうですが、昨日はさすがにコートを着て出勤、コートなしでは体調を崩したのではないか、と思われました。この林、ほんとに葉が散ったっけ、と思われた緑色の窓の景色も、2週間で黄色から落葉、すでに枝の間は青空だらけです。
 
 さて、赤旗では、
 ・日露首脳会談 領土問題進展なし
 わたしゃアベも進展させようなんて思ってないと思いますけどね。どうせ要らない領土、しかし一方では右翼バネの重要な契機をそうそう解決などできない、でしょ。それよりカネが重要。カジノ以上に儲かりますし。
 
 ・オスプレイ墜落 沖縄で怒り広がる
 ほんと、操縦士資格のある人間が操縦して落ちること自体、「機体に重要な欠陥がある」証明で、なんの言い訳にもならない。
 
 よくわからんのが解放
 ・「年寄りはお国のためにさっさと死ぬ義務がある」とエセ文化人がいったそうですが、ここは見出ししかないのでわからない。中身のあるC派を見習うべきですね。これじゃ誰も来ないぞ。来てるけど。
 ともかく曾野綾子は「死ぬ義務があるので死にます」と遺書書いて自殺するのがほんとだね。もっとも、大事な口先女、右翼なんてそんな程度だって世間に知らしめ続けるのもよいこと。
 関連で(なんの?)、朝日新聞で神里達博という千葉大教授が、高齢者ドライバーの事故率はそれほど高くない、メディアのやらせ報道だ、という趣旨の論が。ばかいっちゃいけない。中年ドライバーが病院の玄関や歩道の散歩者に突っ込んでくるか、って。突っ込んできたら当然精神鑑定だろうが。あっちでもこっちでもそういう理不尽な事故を起こすから免許を取り上げるべきなのであって、普通にスリップ事故や過登載横転事故を起こします、というのなら誰も問題にしやしない。
 生活したこともない机上の空論家はいつの時代も笑い者。
 
 さて、本日も、日常勤務の虚しさのため以上です。
 、、、それもまずいな。これではいつまでたっても役に立たない。
 おまけで、お料理一口知識。料理に使う日本酒とワインの違い。
 それは西洋料理と和食との違いではない、ようです。素材の味を崩さないのは、なんといっても日本酒。アルコールが必要で、でも素材の味をそのまま味わいたいときは、日本酒がおすすめです。アルコールが必要な、脂肉のマイルド化、チーズの溶解(フォンデュー)等、ですね。理屈でしょ? でもどこにも書いていない。家人がロールキャベツにワインを入れて悔やんでいました。
 
 というわけで、以下はごく一部の老人向け。
 前回は少しからかった題をつけましたら来た方が増えたようです。これはとてもくだらない現象ですので多少反省しつつ、今回いつも通り人気のなさを追求しようと思ったところで、この題ならわからないでしょうか。状況内存在と世界内存在の違い、というかサルトルと他の現象学論者の違いですね。(ヤスパースは関係ありません)サルトルのほうが偉いから、ただの「違い」じゃなくて、「差」。
 最近の人はサルトルなんて知らないのでしょう、ぜんぜんネットに引っかかりません。現象学といえば心理主義社会学になってしまう。まあ「大学で教える教目である」ということ自体、そういうものですが。一般人がなぞって使えなきゃしょうがない。なので、今回に限ってお年寄り向け。
 
 だらだら言うのは当ブログではありませんので、結論を。
 サルトルの現象学受容というのは、存在論なのです。独我論。
 対して、フッサール以下の現象学論者は、認識論。非科学的観念論。
 
 サルトルは自分という主体しか認めなかったので、それにも関わらず存在するかのごとき自己の周囲について、「状況」というカテゴリーを立てて、その中にある主体という観点から全てを構築しようとしたわけです。それは「世界」などではない。存在しているのは自分だけなのだから、そのほかに考慮できるものは自分と関わる限りでの環境情報、「状況」なのです。だから息が詰まって吐き気も起こる。
 
 他方、ふつうの現象論者の関心は、真理あるのみ。これは真理だ、と民衆に告げればそれで生きていられるのです。ただの学者ですから。この場合、自分以外に存在するはずなのが、「世界」です。「世界内存在」というのは哲学者フッサールの弟子、ハイデッガーの言葉。世界とは自分の持つ状況ではありません。「他の人間も存在している」自分の周囲です。我はこのうちに存する、と何の根拠もなく言い放つ。観念論です。
 
 それじゃサルトルのほうが観念のお化けではないか、と若い方はお思いでしょうか。
 そこがサルトルの徹底したところ。状況のトータルは何によって知られるか。哲学的観念論議ではない。観念論議は空虚である。哲学は死んだ。状況のトータルは、状況が存在することを仮定した社会科学、マルクス主義によって知られる。
 かくて、サルトルにとって、現代の唯一の哲学はマルクス主義なのです。
 (もっとも認識が(サルトルにとって存在しないものであるべき)外界から反映されたという「エンゲルス的」反映論は、決してこれを認めることはできない、というわけです。)
 サルトルも哲「学者」だったらもう少しネットに残ったかもね。
 
 こういう論は別にオリジナリティを主張したいのではなく、昔あったと思うんだけど、この間(かん)、古い本をずいぶん探したのだけれど出てこない。たぶん、雑誌論文のまま消えてしまったんだろね。こういう論じゃ哲学者にはなれないからね。
 で、参考文献(参照文献ではない)に書けないので少し困っているところです。
 もしもどなたか先行文献をご存知でしたら教えてくださいませ。
 この間、この辺、と思ったのは市倉宏祐さんという人だけ (この人についてネットでバカが「学者としての素養ゼロ」とか書いている。ま、そういう事情です。バカには分かるはずがない)。いい人だったようで、最近まで生きていたとか。今見たら福田和也が尊敬していたような。まあ福田もただの右翼でもないからいいか。
 
コメント
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