リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

主義と存在形態

2016-12-30 13:38:44 | 社会学の基礎概念
 こんにちは。さっそくですが、ぐち。
 いつもなぜか劣等品の入手という仕儀に相成るわたくしですが、本日は履き出して実質1ヶ月と10日のビジネスシューズ、ギラロッシュ ラロッシュ、(と書いてありますが、本物かは不明。ネット購入自体は、例によってここに靴キズのグチを書いた2年半前なので、もう記録がない(あのとき以降、結局デカキズのまま履いてた)。amazonと楽天でしか買わないのだけど)。
 ともかく、本日べろんと合成皮革がはげているのが家人に発見されました。、、、合成皮革って、クラリーノじゃないのね。よく安物のかばんにあるべろべろ剥げるやつだったのね、知らんもん。そんなのイトーヨーカドーだって置いてないぞ。ふつう合成皮革といえばクラリーノだろ。ともかくがっくり。来年早々どうしよか、キズのほうがまだましだ。
 
 というわけで突然不愉快な今現在。
 まずは昨日の新聞記事、生物学者福岡伸一のコラム。経歴をネットで見直してしまった。
 やっぱ実験化学の出じゃないんだよね。
 いわく、消化というのはバラバラに分解するものだ。たとえば自分の身体のコラーゲン不足だからとコラーゲンを食べてもアミノ酸に分解するから、他のアミノ酸を食べても同じこと、無意味。の由。
 わざわざ取り上げましたが、もちろん普通の説だよね、評論家の。
 しかし、その論理は素直に間違い。論理の短絡。レベル的には、「サラダオイルは固まらないから身体にいい」、その他の毎年ひっくり返る「栄養学説」と同じ。
 私は実証社会学の出。
 だって、そうじゃん、消化は身体の中で紙が燃えて灰になるように消えるのか? 違う。いわば、それは「燃える」のではなく「溶ける」はず。
 さて、世の中に「溶ける」といって溶液をかけたら綺麗になくなるものなどあるだろうか? いいや、ない。物が溶けるという現実は、ある部分は物体を残しつつ、少しずつやっとかっと溶液化していくものだ。これは当然消化管内でも同じと予想される。
 「じゃあ、どの時点で物質は体内に吸収されるのか?」
 この答えがない限り、上記の立言は成立しない。
 ある程度の化学組成を残していても吸収されるのであれば、その吸収物質は、他の「純粋アミノ酸」より合成しやすいのではないか? 合成しやすければ合成能力が衰えている身体の場合にはそのほうが利用されやすいのではないか?
 この「ないか」 の答えは知りません。私はただの社会学研究者。しかし、ここまで否定して、やっと上記立言は、ざっと見、成立するのです。
 福岡氏ともあろう人がこんな随筆を書くというのもくやしい。
 こんなの見たら、みんな、とりわけ知ったかぶりのネット住民が、口真似するじゃあねえか。

 まあどうでもいいや。
 本日は1年の締めなので、もう少しためになる話。 
 人は投企するもの。本日はもう40年前に歴史の淵に消えたこのテーゼを若い方たちにお知らせして、2016年を締めたいと思いおります。ま、「つづきのつづき」ですが、それもひどい題で。
 
 昔はサルトルを代表とする実存主義という思想がありまして、人はサルトルを知る者も知らぬ者も、否応なしに実存主義的に生きたものでありました。
 人は自分の将来を自己決定する。しなければならない。それ以外に人間の存在の仕方はない。人は社会の法や道徳に自分の行動をまかせてはいけない。それはごまかしである。
 他方、人の行為は自分の主観的意味であると同時に、外界の構成素に対する自分が感ずる他者にとっての意義でもある。しかして、人間の行為は目の前の人間との関わりであり、それ故に見知らぬベトナムの人間との関わりなのであります。
 この一連の自分への意味と他人への意義を持つ行為をもって「投企」といいます。
 
 「しかしそれは人間の普遍的存在形態ではないか? であれば、そうした指摘は何の意味もない。ケセラセラ、なるようになれといっているようなものだ。だって、どうしようがその結果生ずることは人間の普遍的形態の一つなんだから」 という疑問も出ます。
  
 しかしざんねんでした。それは絶対者の観点。
 絶対的評論者にとっては普遍的形態なら同じことになっても、本人にとってはぜんぜん違う。それを同じというのは「人は金持ちだろうが餓死しようがおんなじです。どちらも人たる普遍的な存在形態のバリエーションです」 というようなもの。
 それじゃあ生きるも死ぬも同じというだけ。はあああ????  てなもんですな。生きている人間の話ではない。
 
  私が言っていることは人と人との問題なのであります。
 「君はどうすんのかい?」という呼びかけこそが、実は、実存主義なのであります。
 「人は誰もが同じ生を持っている。」 「うそつけ、おんなじじゃねえや。俺はお前のようなプチブル大学生じゃねえ」 「いや、おんなじなんだ、で、君はどうするのかい?」
 懐かしい。
 ねえ、懐かしいよねえ、老人のお立会い。何一つ理解していない小熊英二に教えてやりたい。
 それは人間の普遍的存在形態ではありますが、現実はそれが疎外されている形態しか取れない。しかして、「これを取り戻すんじゃないのかい? 俺は知らんよ、君のことだから。でも君はどうすんのかい?」 これこそが小熊英二の知らない、1968年闘争の本質であります。
 なになに? 疑問がある、と。「なんで疎外されてるというんだ? もともと人間の普遍的存在形態を通過しているというなら、それでいいだろう?」 と。
 はい、いつまでたっても絶対者ですね。
 そうじゃない。誰も人間一般の話などしていない。
 「お前はそれでいいのか?」
 と問うている。
 
 「人間世界は意味の体系である。」。これは間違い。そんな規定は人間行為者本人にとってなんの意味もない。生きる人間にとって、世界は物質の体系でなければならない。
 が、一方、「人間は意味の体系なのであります。」
 そんな馬鹿なことはない? 人間は物質の体系だ? 不思議なことに、そんな規定は人間行為者本人にとってなんの意味もない。(もっとも、精神は物質に宿ることを知っていることは、健康な生活のためには不可欠ですが。今日、世界が暗いのは、昨日食べなかった野菜のせいです。ビタミンの欠乏。が、それは今日の本題ではありません。)
 人間が意味体系である、ということは、太るも痩せるもその主体しだい。その主体と状況のせめぎあいしだい、ということなのであります。
 人は他者とともに生きる。そう実存主義に書いてある。
 しかして、人は隣の他者に問いかける。
 「その他者」は、隣にいる彼の他人の言を聞き、自己の状況を認識し、状況の中で行為しつつ自己の中で意味を組み立て、状況の中で自己を現実化する。「俺はこのように行動する人間だ」
 かくして「その他者」は、状況の中で彼の他者と生き、彼の他者が生きる状況を生き、その状況が変遷する明日を生き、その明日が存する歴史を生きる。
 かくして「その他者」は、歴史の中で彼の意味を抱えて死んでゆく。それはプチブル学生であろうが中卒第3次産業労働者であろうと何も変わらない。
 それが実存主義であります。
 
 「ちょっと待てい。それじゃあ右翼も左翼も同じ価値だというのか」、とこれはサヨクの言。めんどくさいねえ、絶対者志望的落第者たち。
 だから、意味は主体に属するんだったら。
 人民を危機に追いやり、人間の歴史を捻じ曲げんとする右翼の生なんかに価値があるわけがないじゃないか。
 しかし、これは、ある個人の思う意味に過ぎない。
 ただ、過ぎないけれど、それのみが存在する意味なのだ。
 この意味が世界の中で「本当」かどうかを決めるのは、歴史による断罪か、神による最後の審判しかないのだ。あと、閻魔大王のお仕置きね。
 そんな個人だけが持つ意味になんの意義があるのか、といえば、それこそが社会を形作り、歴史を形作るものだからだ。
 それが実存主義であります。
 
 まあ、相対的観察者の立場から言えば、上記の状況が人間の主義になるということは、支配者=宗教者の道徳や教義から、生きている人間を守ることになる。個人のただの生き方に、社会的に優勢となる「価値」を与える、ということではあります。
 いやさ、社会学者というのは何か一つ余計にいいたいんでしょうね。
 だいたい、ここをいわないと、じゃあなんでそんな結構な主義が消えたんだ、という展開にならないし。
 じゃあなんで? 
 意味の収奪。資本主義は人間の持つ意味を収奪する。
 
 
 今年もともかくも明日でおしまい。今年はわたし的には賃労働社会から消える手続き、だったかも。そう思えば淋しいことではありますが。
 救いはわたしゃまだ生きてるだろうということで、そうなると論理上、では今年は新しい社会への入会手続きだった、ともいえる。こういうのを論理といいますね。
 問題は、それが実現しなければただの嘘という。
 ねえ。
 皆様も良いお年をお迎えください。
コメント
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