goo blog サービス終了のお知らせ 

リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

革命とは過去何であったか

2008-09-07 21:46:14 | 歴史への視角
 こんばんは。
 東京地方(地名、川崎市ですが。昔から何もお世話になってないし、、、まあ、ゴミと図書館は。)すごい雨で。
 おかげさまで涼しくなって、ようやく頭が動きます。

 ここんとこ、コーヒーブレイクが多く、私んとこのお客さんは半分以上コーヒーブレイクのお客さんとは思いますが、ホームページにありますように私はAB型なんで、そーゆー浮世離れが嫌いな志向も持ち合わせておりまして。
 で、突然ですが、爛熟資本主義国家はどう変えうるか。
 「どっちが浮世離れか」とゆう声も聞こえてきそうですが、そりゃ日本にいるからですよ。

 第一に、もともと革命というものは、歴史的に、この人間史5千年の中で一般化できます。 それは自由を求めることが許されているという事実認知 (反抗の方法と、反抗後の消費物資の入手方法)を入手した一群の人間たちによる支配者および支配形態の変更です。
 反抗というからには、その時点での支配階級との共同性のなさが必要であり、その後の消費物資の入手には、それが可能な階級、勃興する階級(階層)が必要となります。
 反抗の事実認知は、その中で生ずる、ある意味、しょうがない出来ごと。
 それゆえ、およそ革命というのは、そんな歴史的一時点の社会の現象形態であり、どこにでも生ずるものではありません。世界でも異常な、日本のような全体社会を通じた現在の共同性の高さは、飢えからの革命の発生機序を不足させるものです。

 第二に、国家の要素は武力と生産関係です。武力は生産関係とは折り合いをつけることが必要で、それさえつけば武力発揮は必要がない。したがって対抗的な武力的革命は、生産関係上の要素が少なければ少ないほど、国家武力の反撃も受けず、新しい武力政権の確立も容易となります。武力の行使に、生産関係的要素がなければ、いくら観念的でもオッケー。単に小銃をぶっぱなせばいい。
 フランス革命での国家武力は、集まった財産をどう処理するか、という問題しか抱えていなかった。従って、武力の当事者の交代以降は、シンプルに、法的規制を外すことしか要請されておらず、後は言いたい放題やりたい放題で、後代の制度修正を待てばよいものだったわけです。
 一方、ロシア革命時の武力は、国家官僚機構の操作権しかもっていなかった。その結果できなければいけないと歴史に規定されている事項は、別に資本主義でも社会主義でもない。商品経済に統制されないある種の生産機構、というだけなわけです。
 いったい資本主義とは、別に生産関係の歴史的必然を指すわけではありません。
 さらに、社会主義とは、なんら、経済的な規定ではありません。
 国家武力はそうした生産関係に対して、その時点での折り合いをつければよいのです

 第三に、ただ、生産関係はどうでも、生産力というものはあります。生産力概念の本体は、その増大圧力です。増大しない生産力など生産力ではない。人は(自分の上を見た)今の消費状況を確保すべく行為します。この先はどうでもいいわけですね。せいぜいこの時代の最大消費者以上の消費を欲しがりはしません。
 その中で、武力は、生産力を増大するように諸関係を組み立てる。
 産業社会勃興期においては、武力は自己の武力権力を保全しつつ生産力を増大させます。
 およそ資本主義者たちがソ連社会主義をけなすなど片腹痛いことで、1920年代ソ連が社会主義ではなく資本主義社会(=商品経済)であっても同様に農民・労働者は飢え、国家官僚の代わりに資本家がさらに王侯のような暮らしをしていたに過ぎません。一方では労働者は社会主義ソ連よりもっと悪い暮らしをしていたのに間違いなどない。

 長くなってきました。まあ、ここんとこ内容薄かったし。

 ちょっと時代は上がり、絶対王政における支配の変化とは、支配権力が商行為的な利害関係しか結んでいない経済勢力の勃興を敗北の基礎として、別の武力権力に敗れることでした。
 同様に日本における江戸政権も、同様の体制を基礎に内部から敗れたという事態です。なんていうと自称マルクス主義者から文句が出るところです。しかし、ここで、破った主体が絶対主義なりの政権の内部にいたのかどうかなどということは、問題ではありません。いったい誰が武器を取って破ったからといって、歴史の意味が変わるなどというのは、史的唯物論を知らない人間の言です。
 絶対王政が敗れた先は、資本主義しか残っていない、というこれが生産力の問題です。
 生産力とは、何も弁証法的な神学世界の問題ではなく、それまで生きてきた人間の多くが同じように、あるいはそれ以上に生きていける、あるいは残った少数の人間が死なずに生きていける、という問題なのです。
 資本家や商工業者は、王権の実入りがなくなった瞬間に別の実入りを開拓しなければなりません。そしてブルジョワ革命の一瞬とはそれが可能な歴史的時代なのです。

 さて一方、帝政ロシアにおいては、奪取した支配権力は、使いうる少数の企業、少量の流通機構のみを操作する官僚機構を働かせればよかった。
 もちろん、よいのは支配権力にとってのみです。
 圧倒的人民は、労働力の集中化による支配意思の貫徹のため、少量の収奪の変化のみを糧として権力に使い回される。そしてその歴史における人民の量に対する少量の生産力とは、それ以外の現実の変化を意味しないのです。

 野にある革命政権の支持者は、貧乏な人民について、政治局員の2割の厚みでもいい、風の通らないオーバーを娘に着せてやりたい。あるいは、息子をせめて中学校に通わせてやりたい。
 しかし、生産力の収奪とは、そうした願いを打ち砕くものでしかありません。
 それでも人間は、飢饉がこない限り生きていけるものです。そして飢饉が来て死ぬのは帝政時代でも変わりはしない。という以上の状況ではない。

 うそだと思ったらアフリカでも散歩をしてみるとよろしい、私はしてませんが。生産の共同性のない自称国家とはそういうものだ、と川崎市図書館の所蔵図書には、みな書いてあります。
 食べるものと家がある世界、それが不満のない最低限であり、ここから家がなくなった段階で、日本でもアフリカでも、救済対象が、やっと、眼前化するのです。

 いかにも長いですね。ちょっと切ります。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

市民社会論

2008-07-06 22:15:22 | 歴史への視角
 夏ですね。
 アジサイの花には茶色い枯れ色がめだちはじめた今日この頃、昨日気づいたら向かいの垣根に白い花、
クチナシです。今年はちょっと遅く咲きました。
 ここに来てからは、こんな変わった花が。オオスカシバという巨大な蛾のイモムシが好きなんだそうです。
 こちらの垣根にはアベリアがあって、これは大人になったオオスカシバの食べ物。
 オオスカシバって、少年ジェットの「紅さそり」の帽子みたいな、って誰も知らねえよ。

 とゆうわけで「領有法則の転回」
 なんのこっちゃ。

 ここんとこ裏ではなかなか理論活動が進んでおりまして、それだけは気分よく。
 でも、皆様に伝えるほど役に立つ話ではありません上に、他には面白いこともないので、半分憂さ晴らしのテーマです。
 私と同じように、ここんとこ面白くない人は、みないでくださいね。


 で、西欧市民革命を確認しようと今週図書館で10冊借りた本中2冊に入ってるのがこの「領有法則の転回」。こんなこけおどしの掛け声はどうでもいいんですけどね、こういうのが好きな(マルクス主義者の)人たちの一致点がありまして、『正しい個人所有を取り戻し、本当の「市民社会」を形成しよう』みたいなところですね。 意味は私には聞かないで下さい。
 いつもお世話になるウィキペディアさんには、「領有法則」はなかったですが、「市民社会」はありますので、貼り付けますと

「上述のグラムシの見解は先見的であったといえる。こうした状況下で市民的自由を確保するためには、従来の共産党・労働組合を主体にした一極型の運動ではなく、日常にまで官僚制やマスメディアを通じて干渉をはかる国家権力に対して、市民の日常生活にかかわる諸団体がネットワークを結んで多極的な抵抗運動を展開すべきだという考えが形成されていった。」

みたいなところで、ま、かっこよいですな、響きは。

 ただ、現実は、「小市民は私有財産を持っている。これを否定することは出来ないし、結局、おれらの運動につきあってくれるのはそんな人たちだからから、これを前提に運動しよう」 というところです。
「領有法則」っていうのは、「個人の所有が資本の所有になってしまっているメカニズム」を指すようで、いえ、なにいってんだか、理解不能な言葉ですけどね。その所有をとり返そう、っていう算段ですね。

 ただですね、私有財産(私的所有)が良くて、資本家の何が悪いんですか?
 根性が悪い? そりゃお互い様でしょ。 意味不明なんだよなあ。やっかみとしか思えませんね。
 労働者を搾取してる? そりゃ資本主義なんだし。何がいいたいのかなあ。
 儲けのとりすぎ? そりゃ悪いですよね。じゃあ、国家で統制しますぜ、私有財産の統制を。
 ぜんぜんわからない。何を言ってるか理解できる可能性はただ一つ。
 発言者はただのプチブルで、言いたいことを言っているだけ。なんでも人のせい。自分のことは棚上げ。

 いや、巷でマルキストでカネを貰えるのは大学教師だけですからね。それもいいことなのかもしれませんが、一方で、そんなこといってんならマルキストなんか存在理由ないやと思うのもありますね。誰があんたらの本を読む(読める)んだね。
 一方、アナーキストなんてどうやったって生活できないんですからね。

 で、ほんとはですね、違うんですよ。
「上述のグラムシの見解は、、、」とかあるでしょ。これはイタリアの共同体運動を指しているんです。所有問題なんかではない。
 イタリアには、アナーキズムの伝統があって、都市労働者が近隣の仲間同士で生活している、その仲間でなんでもやりたい、『共産党の運動はやだぜ、「おれら」は「おれら」でやるから』という基盤があったわけです。だからウィキペディアにあるように、共産党じゃない、統一組合でもない、ましてや国家でもない運動、を語ることが過去には現実的だったわけです(グラムシという人は、70年前に死んだ人です)。
 で、ひるがえって日本。
 そんなもんねえがな。イタリアでさえ消えかけているものを、日本で増殖させようなどと、アホかね。
 アナーキストがいうんだから間違いない。
 日本のどの「市民」なる社会層が自分以外の要求を掲げるんだ? しかも幽霊のような無基盤の要求を。

 そりゃどの国でも「良心的な人々」という「カテゴリー」はあるわさ。マルキストが言う「市民」とは、そんな社会的には無規定の「良心的人間」のことに過ぎない。早い話があなたのことです。
 大変ですねえ、あなたも。期待されてますよ。

*************

 と、翌日見ると不親切ですねえ。こりゃ、憂さ晴らしだな。そうなんだけど。
で解説。

1 領有法則の転回というのは、マルクス主義的に、2ケあって、
(1)マルクスが無理やり「労働者は労働ではなく労働力を売るんだ」といってしまった手前、どこかで搾取を見つけなければいけなくなってむりやりこさえた資本論中の幽霊過程であること。私は、過去ブログでお分かりのように、こんなアホ臭い衒学論議(学問の系譜を引き継ぐことで権威を自分にも引っ張り込もうと無理やりつじつま合わせすること)に興味はない。
(2)もう一つは、これまた過去ブログで興味がないといった、中年マルクスの資本論準備論文(経済学批判要綱)について、これをひねまわして、その歴史発展理論のなかに領有法則なるスローガンを落とし込むこと。論理だてて書けばすぐに批判してやるのに書いてる本人もわからないから意味不明で、こちらはさらに頭にくること。

2 で、問題は(2)の人々だ。この人々が市民社会を花束のように持ち上げる。しかし、
(1)「市民社会」は理想社会であるわけがないこと。それはだれでも知ってる資本主義社会であること。ましてや私的所有を金科玉条にしつつ、でも自分は左翼でござい、などという顔をするやつの本は、すぐチリ紙交換のお世話になって当然。
(2)運動としての市民社会論、というのもあって、市民が運動をするのがエラい、という話だ。これと領有法則の転回(「本当の私的所有へ」みたいなかっこつけ。「本当のこと」なら不可侵だと思ったら大間違いだ。)とどこがつながるのかというと、だから、個人主義礼賛さ。ああ、資本主義成立後200年、ブルジョワジーに言い古された個人主義! 人間、何の進歩もない。

  それに対し、仲間の社会と、同じ仲間同士主義。これがアナーキズムです。


 とゆうことを *** の前でいったんだけど、そう読めない?? うむ、かえって難しいか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

世界システム論派の意義

2008-06-22 22:06:57 | 歴史への視角
こんばんはの2。前回の続きで。

 世の中、市井に生きておりますといろいろ予定にないことも多く、いや市井ならずとも学生さん以外ではまずは予定外でも済まさなきゃいけないことが多くあるわけですが、要するに、「時間不足につき思考不十分」という言い訳で。

 で、産業資本主義ですが、これは前々回ですね、
 この20年ぐらい(うへっ、おじさんだね)経済学ではレギュラシオン派という一派がでてきまして、「世界資本主義システム」という見方が大事だと唱えてらっしゃる。

 資本主義が世界的なのは、マルクス主義的には当たり前なのですが、残念ながらマルクス経済学者の怠慢で、それまで (もそのときからも) 何一つ、完璧に実績がなかった。そこへ突然社会学者が言い出してきたものなんですが、マルキストからみれば個別の論理はたいしたレベルのものではないし、主唱者のウォーラーステイン (趣のある名前と思いません?) という人自身も 「別にこれが正しいとかじゃなくてこういう見方が必要なのに誰もやってないからやる」 という、冷静な人なわけではありますが(冷静だけどいい人なのでウケる、ということもありそうですが)、実際、マルキストとしては掛け声ばかりで誰もやらなかったんだから恥ずかしい限りでしょう。ときどきあったマルキストの「世界資本主義」なんて名称の書物は、国家間貿易、金融交易しか書いちゃなかったですからね。

 で、わたし的には、くだらないなあ、とシンプルに思っていたんですが、でも「国民経済の成立」という概念は、「世界経済システム」という論理のセットをしないと展開できないよなあ、と思ったところです。

「国民経済」って、資本主義がどのように人間を規定するか、について、ある民衆にとって、それはまずは、国家としてどのように資本主義を扱っているか、という問題になる。この時点では資本主義は世界資本主義なんかではないのです。しかし、国民経済としては世界経済による規定性を受けざるをえない。さてそこで、その世界経済は自由気ままにふらふらと動いてきたのか、というと、そうではない。ウォーラーステインさんの言うように、そりゃ世界経済システムだ。世界資本主義システムではないですけどね。
 そこでですね。私には時間がないと思うと困ったものです。
 ただの行為論専攻社会学研究者にとって、そんな簡単に世界経済なんてわかりゃしませんがね。
 というわけで、やはり、誰もやっていないことをやった人というのは、偉い人なんですよ。基本的に。
 
   なんてことが、次の展開が遅れる言い訳になるといいんですけどね。
   
   (後日、題を変えました。ウォーラーステインて、初見が「レギュラシオンのなんとか」って本だったから、レギュラシオンと一緒でいいと思ってましたよ。その本は、速攻でちり紙交換時に持ってってもらいましたので、その他の取り巻きが確認できず失礼しました。)


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

もう一つの「歴史の必然」

2008-06-08 22:09:36 | 歴史への視角
(前回の続き)というわけで。マルクスの生産形態論。

「大ざっぱにいって、経済的社会構成が進歩してゆく段階として、アジア的、古代的、封建的、および近代的ブルジョア的生産様式をあげることができる。」(マルクス:経済学批判)(シカゴ・ブルースというHPにありました。ありがとうございます)
というやつですね。

それはそれである程度は結構ですが、そう主張する皆様は、マルクス当人を含めて、じゃあ何が進歩の動因かわからないでしょう? わかったら誰も揉めやしませんしね。(マルクス主義者の内部で(さえ)、たくさんの論争が起きて内輪揉めした(今もごくごく小規模なくせに内部でしている)、ということです)

本来、マルクスさんは、「これらの形態の根本は所有制度の違いだ」、とおっしゃるんですね。
所有制度の違いなら、なんか所有に絡んだ要素が進歩の動因になったっていいじゃないか、というもんですが、そんなものは動因になっていません。歴史的にも動因になっていないし、ただの主張としても、そう主張する人はいない。
あるのは「農民が生産手段を所有しなくなったので、賃金労働者ができた」という資本主義最初の一瞬の修飾語だけ。
 ちゃんといってよ。その動因は、あなたの言葉なら所有制度の違いではなく「生産力の増大」でしょうが。
 何を言いたいのかよくわかんないよね。何が所有さ。それが生産力とどういう関係があるの?
 人間にとっての論理とは、あるものが、それに関連すると規定されている他のあるものについて表現されたときに、論理として掌握されます。
「この花は赤くてきれいだね」「そうなんだ。緑の草の中で、赤は映えるからね」
これは理屈ですね。その花は、純粋に綺麗なだけかもしれませんが、それはそれで論理として納得できます。ところで、
「この花は赤くてきれいだね」「そうなんだ。多年草だからきれいだよね」
って論理か? ちゃう。

余談ですが、私もおじさんになってしまって、マルクスがなんかいうと、やめなよ坊や、恥ずかしいから、って気がするんですよね。
時々言うように、坊やチャンは流行が好きでねえ、天才とかじゃなくって、流行をうまく取り入れたんですよねえ。いや、素晴らしい取りまとめ人だと思いますけどねえ。
ギムナジウムで習った歴史観、大学で習った弁証法、図書館で勉強した経済学。この場合は、社会主義者仲間で流行の「所有」。
  誰だって多かれ少なかれそういうものかもしれませんが。
  少なくとも私はそうですね。中学校の社会主義、高校の実存主義、大学ではそれの否定形を自分のものにしたかも。
  食えないのがエンゲルスで。彼氏は天才だから全てをバカにしてますよね。いいかげんといえばいいかげん。いってることの9割しか正しくない。
  まあ、エンゲルスの言葉を文字通りとっては彼のいいところを失ってしまいますので、ご注意を。

閑話休題。
実のところは、マルクスがこれが本質だ、とする生産手段の所有・非所有者の別名としての「自由」など、歴史とは何も関係がない。現代の歴史の主役という資本主義社会の「自由な労働者」など、気の利いた駄洒落に過ぎません。
まずは、支配出現後の社会では自由な農民などどこにもいやしなかったのです。
いやちょっとだけいたけどね。
ついで、一方、生産手段を持っていた農民もどこにもいない。彼らは、鋤や鎌を占有状態にしていただけです。

(なお、およそ権力が保証した「所有」という概念は、占有状態にない農地や農民への「所有権」が現象しない世の中では意味がない言葉です。鋤や鎌についていえば、「誰のもの」という言葉の所有格は、占有状態について社会関係の中で自然に生じますが、「自分の農地」なのに剣を持った野蛮な野郎達が「ここは俺の土地だ」と主張する状態は、社会関係一般の中では自然には生じないのです。個人的占有は、当初の消費物資の入手とそれにまつわる行為者の処分可能な将来の存在によって、人間の本来的態勢です。だからといって社会内の制度としての個人的占有が本来だ、といっているわけではありません。環境によって決定される社会関係には、「本来」などあるはずがないからです。「所有」概念神格化がマルクスが抱いた最悪の固定観念なのでしつこくいいました)。

歴史変遷にかかる契機として重要なのは、所有ではなく、まずは消費なのです。
原始的共同体においては、共同消費の「規範」が共同性の要になります。
これが規範であるための前提が個人的占有状態なんですね。それでいかにも所有が初めからあったように見えるが、実態は、共同の所有もなければ私的な所有もなかったというのが、人間の始原として親と子しか存在しなかった世界の理屈です。

原始のような小共同体においては、武力はあまり意味がない。寝ている人間の頭を石で割ればそれで終わる武力に過ぎないからです。下品ですけどそういうことです。小共同体における武力は、武力の共同的行使にある。隣りの部族を襲って消費物資を取ってこれるかどうか、あるいは捕虜を捕ってきて生贄にするか。
全ては、余剰消費物によって決まる。
これも世間では余剰生産物というけれども、それは本質的ではありません。
消費しないものをどれだけ生産してもそれは、邪魔ではないただのゴミです。
ある地域では、消費が余剰にならないときは(食料がどんぐりの時代、どんぐりをいくら拾ってもどんぐりが生るのは一時期で、数年も持ちません)、余った時間は生産的に、石組みを生産した。要はドルメンですね。この時代は、別に階級社会とは限らない。支配社会の可能性はありますが。

まだ、閑話してるかなあ。

人間の本来は消費です。これを社会的に規定するのは、労働行為の配分です。
これは、第三者的にいっただけのことで、本来は、労働行為の無政府状態による淘汰ですが。つまり、死亡という淘汰によって、労働行為が、その社会の消費物の規模に合わせて、整理・決定される。

生産力の発展というのは、「より少量の労働がより多量の使用価値を生産する力を獲得するような労働過程における変化」(マルクス:資本論)などではありません。
「どれだけ継時的に余剰の消費物資を作れていくか」ということです。同じ1年の労働でいい、「同じ1年の労働の中で、どれだけ余りを作れるか」ということです。何が「より少量の労働」だか。いや、別にマルクスが悪いんじゃなくて、ただの勉強好きの坊やだ、ということです。交換価値はそうですからね。しかし、それと歴史体制の変遷とは関係がない。
さらにまた、生産様式は、『消費可能性規制』を媒介としてしか現実化しない。いくら作っても、使えなきゃしょうがない、ということです。資本主義の致命的なネックですね。
作ったものを使えるかどうか、これは、個人にとっては、消費物資がどのような将来において入手できるか、という課題になります。この仕組みが行為を決定する。
もちろん消費物資は空気からは涌きません。それは生産関係の問題です。しかし、ここでも問題は、生産形態、すなわち所有の形態ではありません。
 どうもマイナーな派閥(セクト)の人はマルクスの流行らなかったところ(「先行する諸形態」等のこと)を持ち出そうとしますが、残念ですが、流行らないのは流行らないなりの理由があるものです。


さて、大きな閑話をやめて、前回の話題に戻ります。
歴史に必然はあるか。
歴史とは社会体制の歴史だ、ということに限れば、歴史にはもう一つ必然があります。
人間は、行為としての自由を求める本質の中で平等を志向しつつ、自己の自由を広げる生産の方法を事実認知として将来に伝えることで、人間個人の自由を、体制の中での1割から2割へ、2割から3割へと、次第に広げていきます。
これが社会体制の進展の歴史の必然です。
第1に自由。そして、これを他に広げる平等。さらに、生産の拡大のための、生産力でも生産関係でもない、「生産方法」。

なんか違いますかね?


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

本当の「歴史の必然」

2008-06-08 14:43:38 | 歴史への視角
つれづれなるままにネットサーフィンなどすると、「つまんねえこといってしょうがねえなあ、めんどくさいけど左翼を志向する若い人たちにいっておかなきゃあ」、みたいなことがでてきます。
そんなもの出るとこ行くな、みたいなもんですが。興味の偏りが知れますね。

ほかで、「資本主義社会の規定性」みたいなものを見直してるところなんですが、ほかって私の課題は一つだけですがとにかく、「歴史の必然」なんてでてきますがね。
で、その「歴史の必然」の意味ですが、皆様、「歴史(なるお化け)が必然的に変化していく」、って意味で使いますな。まあ、それが当たり前の使い方といえばそうなわけで。

でも、「生きている人間の自由の社会科学」、「一人一人の社会学」ではそうはいわない。
「そりゃ、お前のような絶対自由主義者に『必然』はないんでしょう」 とかそんな意味じゃなくてですね。「おいらの主義だから必然なんて辞書にない」なんてのは非科学的ですわな。

実際、歴史には必然がある。ただし、歴史の必然とは、「私の(あなたの)次の一瞬の必然」以外の意味は持たない。そして、歴史は必然だから、私もあなたも次の一歩を踏み出すことができる。
  なにいってるかわからない、というところですね。以下、説明です。

さて、歴史とは何か。
まずは、「ただの歴史」なんてないでしょ、ということです。

商業の歴史、船の歴史、政治家の歴史、支配者の歴史、将棋の歴史。そんなものはありますよね。全部、「○○の歴史」はある。
で、何が必然ですって? ○○の歴史に必然はないでしょ。
  そうじゃない「歴史」って何? 別に意地悪じゃなくって、ただの「歴史」はない。

人は、自分がいるこの土地に残されたものを見て、誰が作ったのか知りたくなるときがあります。
ま、好奇心というやつですね。
もう一つ。
人間は、ある状況において、過去の事例を把握したいとも思います。昨日どうしたっけ? それってどんな結果を引き起こしたっけ? みたいなことです。

もともと人間の行為には、二つの事実認知の作業があります。
第1に、事実を求めると、それによって脳が刺激され、その事実にまつわった刺激物質が出ることを学習し、その快感を得るために、情報を取得しようとする事実認知です。
第2に、次の行為に活用するために、記憶を使ってそれを現在の状況に適用しようと脳内で構成し続ける事実認知。
 好奇心というのも微妙ですが、知識の面白さという点では第1のものかな。二つっていっても、同じ脳の作業ですから、境界領域もあります。

で、歴史も事実認知ですから、歴史にもこれら二つの顔がある。どちらの顔が大きいかといえば、第1の、快感にまつわる「歴史」であることは、本屋に行って、歴史論文とその他歴史本の比率を見ればわかりますね。しかも、社会科学として因果関連を教えるものなんて、その歴史論文の中でもごくわずかにすぎません。
第1の「歴史」とは、単なる叙述です。物事がそのときたまたま存在した理由を記載しているに過ぎません。
種々の現象は歴史的に起こった。それはそうです。じゃあ、なぜ起こったか。「それは起こるべくして起こった、歴史の本なんだからそう書いてあるでしょ」。でも、そんなことは結果です。結果の叙述にしか過ぎない。因果関連の科学とは、物事の起こった要因を未来に向かって明らかにするものです。
 いや、けちをつけているわけじゃなくて、普通の歴史の本のほうが面白くていいし、理論を作っていくときには事実として役に立つんですけどね。
 だが人間の次の行為には役に立たない。商業の歴史がどうだろうと、明日の買い物には役に立たない。船の歴史がどうだろうと、明日の出漁には役に立たない。それらは、結果を表しているだけだから、次に起こるはずの将来の事実が必然であるわけがない。

 さて、もう一つの歴史、次の行為をするために私たちの頭の中で整理された歴史、たとえば「明日誕生日のガールフレンドの、デパートでの行動の歴史」「明朝は時化るという予報が出たときの、私の漁船の暴風を航海して来た歴史」、そんないろいろな過去の歴史は、暇つぶしの歴史とは異なり、今に生かす事実認知の集積です。明日誕生日のガールフレンドへのプレゼントの買い物、明日の船での出漁には、必須の知識です。

 で、この歴史は自由きままか?
 私の買い物行動も出漁も自由です。
 しかし、私の中の歴史は必然でなければならない。必ず、ガールフレンドは、明日、プレゼントを見て喜ばなければならない。そのために買うのですから。また、明日の時化でも漁船は耐えなければならない。そうでなければ私は溺れて死んでしまいます。
 因果関連のある過去の事実認知の現実への適用は、この現在においては必然と自分で決定しなければならないのです。「可能性は6分と4分」。そういうのもあり。そして4分は必ずクリアすると思えば「4分ならオッケー」と決断する。
 かくて、自分が行為の主体であるなら、自分の歴史は必然です。
 人が、「労働者の世の中にするんだ、そのためにはこういう行動をしなければならない、なぜならこういう行動をすれば社会はこうなるから」、と自分で考えたとしたら、そのとき歴史は自分にとって必然でなければならない。しかし、そのとき「歴史」が指しているのは、自分の過去の事実認知だけです。歴史とはお化けではない。ただの一人一人の心のことです。
 
  文学的ですけどね。
  もともと、歴史は必然だなんて言葉自体、文学ですからね。
  
  
さて、そんなんじゃないよ、と。我々が主張しているのは歴史一般ではなく、歴史という言葉に名を借りた、生産様式の変遷のことだと。
まあ、そういう人もあるかな。いまどきそんな人だらけかどうか。ネットで見ても、都合のいい時に「歴史の必然」ていうだけなんで、よくわからないものがあります。
昔は、「社会主義は歴史の必然」としか使わなかったんですけどね。

ま、この続きは次回にします。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マルクス主義の問題点(その3)

2008-04-14 14:18:21 | 歴史への視角
前回、エンゲルスがいればマルクスなんて要らないと書いたところですが、マルクスのオリジナルで有名なところが、「労働力」と「労働」の違い。

なんなんですかね、これ。マルクスなんて中学校3年以来まじめに読んでいるところですがいまだに理解できません。

【初めの例(労働力)】
趣旨的には、
1 労働力は人間が働く力である。
2 人間は賃金と引き換えに労働力を売る。
    これは、賃金は労働力(明日の働く力)を作る消費物資と等価だ、ということです。
3 ところで、現実の労働者が作るものは、消費物資だけではない。資本家の取り分を作っている。
4 この資本家の取り分は労働者の賃金に入っていない。労働者は賃金にないものを作らされている。
  これを搾取という。資本主義の詐欺だ。

というわけですね。
だからなんじゃい、てなもんです。等価交換に文句つけんなよ。

【次の例(労働)】
1 労働者は労働を売る。
2 資本家は代金として賃金を与える。
3 労働は資本家の消費物資も作っているのに、賃金には労働者の肉体の再生産分しかはいっていない。
4 従って、資本家は労働者から搾取している。資本家は泥棒と一緒だ。

じゃ、なんでいけないんですかね。こちの方が現実のままじゃないか。


どちらも同じ現実ではあります。

【初めの例(労働力)】では、資本家は、実際、労働力を買おうとしますから
「労働者は俺様に労働する力を売ったんだから、あとは搾り取れるだけ働かせることができる。労働強化? 売ったものを出し惜しみするんじゃねえ。」
という資本家の理屈の方が正しいと思うんですけどね。

労働者は、資本家がなんと言おうと、苦しい思いをして労働をしますからそんな理屈は受け入れられない。
【次の例(労働)】では
「労働者が売るのは労働だ。ちゃんとそれを取り返せる賃金を寄こせ。
 おっと、これじゃあ足りないぜ。資本家のお前の分も作ってやってんだからな。お前の家屋敷も寄こせよ」
となると思うんですけどね。
マルクスを支持しているって口では言う労働者も、実はみんなこう思ってるんじゃないかな。

まあ、どっちだっていいけど、マルクス主義者が初心者に向かってさも偉そうに「分かってないな。労働者が売るのは労働じゃなくて労働力だよ」なんていうのを聞くと、おめえは何を分かってんだよ、といいたくなりますね。

  いや、ほんと。労働強化は理屈上何が悪いの? あんたがたの説じゃ悪くないでしょ?
  悪いのは「資本家がいいわけない」というレッテルだけ。労働者の痛みなどなくなってるじゃん。
  何が「マルクスの賃金論で合理化に反対せよ」だか。

「労働力」論の積極点は、「そんなふうに等価交換をせざるをえない立場に立たされてしまう理不尽さ、や、資本家に反論できない理不尽さは、すべて労働力の商品化によるものだ。資本主義は非人道的だ」とかいう哲学的なお茶飲み話の提供だけ。
そんなものは有閑階級の遊びだ。ア、ソ、ビ。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

唯物史観の問題点(その2)

2008-04-14 11:56:02 | 歴史への視角
前回に引き続き、唯物史観の問題点。「社会を動かす原動力は、生産力と生産関係の矛盾である」
まあ唯物史観の基本中の基本。
よいんですけどね。でも、それはどういう事態か、は、わかってないと。

ここでの問題は、生産力というものです。
確かに生産力は直接に歴史を変えるのですが、生産力を動かす要因というものがあります。
どうもしかし、エンゲルスが分かっていたと思われるように、本当の要因は生産方法なのです。生産方法が変化することによって生産力が増加する。

日本には「生産力とは人間力だ」なんていった有名学者がいました。これは社会学者に喜ばれましたけどね。私も学部1年のとき、これは良い言葉だ、と思ったものです。経営学でも後進国進出が課題のときでしたので、「そうだそうだ。現地人を働かせるのが大変なんだよね」みたいなところだったと思います。
が、そういうもんじゃない。
ごらんのとおり人間力など20年で変わる。頭に可塑性のある年齢時なら、生理性と優越と賞賛とによって変わる。「人間は規制によって水路化される」とまとめたいところですが、わかりにくいかしら?

とにかく、生産力はそんなものでは上がらない。工場勤務にフィットすべく改造された人間は、改良された生産手段によらなければ生産力を上げることはできない。
生産方法とは、狭義の生産手段--機械等のみを指すわけではありません。
はるか昔、限定された生産育成によってのみ支えられた採集経済は、米その他の単位栄養量の高い経済にとって替わられました。
これによって得られた生産力と保存力の増大は、決定的に社会を変えました。
これは生産方法の移入による、というのが普通の日本語です。

余談ですが、これはエンゲルスは認識していたようでもありまして、だいたいエンゲルスという人は、サルトルがけなしたりと、マルクス主義が哲学だった昔はやけに評判が悪かったのですが(今は誰も何もいわない、ということで)、とんでもないことだと思いますね。表現方法は普通の人向けにやさしく書いているのでアバウトですが、マルクスより数段社会科学を進めた人です。
マルクスがいなくともエンゲルスがいれば歴史は変わらなかった。もっとも、人は一人では仕事ができない、ということはありますが。エンゲルスが第1バイオリンだったほうが世の中のためだった気がしますね。

閑話休題、では生産方法はどうやって変わる?
事実の認識です。
事実の認識は決して上部構造ではありません。隈の著作でしつこく述べたように、知識は歴史を動かすのです。

も一つ余談ですが、もちろん、科学の普及は上部構造です。大学の学問など科学ではない、といっておくと論争的でよいですね。なにいってんだ、と怒る気のある学者は事実を探求してらっしゃるのでしょう。しかし、それは「大学の学問」ではなく、「あなたの科学」です。まあ、面倒なのでやめときます。



コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

唯物史観の問題点(その1)

2008-04-14 10:53:01 | 歴史への視角
 (今日は代休)
 マルクス主義の通説では、私的所有を共同所有にすると、社会主義になる、というお題目がありまして。これが初めの問題点です。
「資本主義の基本矛盾は、けっきょくのところ生産の社会的性格と所有の私的性格との矛盾であり、資本家階級と労働者階級との階級的矛盾です」なので「資本家の私的所有制をなくして、生産手段の社会的・集団的所有制をうちたてることによって」基本矛盾を解決するんだ(某入門書)、てなことになるんですね。

 でも、もともと私的所有を声高に唱えること自体、政治的な話で、これは古くはアナーキストの悪口をいいたいマルクスや、20世紀では通説派の政治党派が、なんとか国家所有に話を持っていきたいということ以外にありません。

 本来、個人の必要は「占有的形態」です。モノというのは自分が使えればいい。使っているものを他人がとらなければいい。
 だから、個人行為者の立場に立てば、「社会的所有がいい」などというのは科学ではなくイデオロギーであることはすぐわかる。ですが、マルクス主義者はイデオローグでもあるので、そこから離れるのは大変です。
 さっきもネットで確認してましたら、さすがに人気のない「社会主義論壇」で、本来、通説派が頭にズラっと並ぶべきところ、こういっちゃなんですが昔ならごくマイナーな旧・新左翼のサイトが3番目に出まして、そこでは優に原稿用紙80枚を超える勢いで、この問題点の周辺を回っていました。疑問をお持ちになるのは良いことですが、こんな単純な事情に、何をぐずぐずいう必要があるのかぜんぜん理解できません。
(「個人行為者の立場に立たなければわからない」というのも、必ずしも論理的必然ではなくて、性格の分布のようなところもあるんですが。まあ、第1に経験値としてそういう人間が多い、ということ。第2に、これは論理的な話で、そういう情報が、対抗権力として、賞賛と優越を得て、資本主義商品の売却単位として広がっていく、ということにはなります)。

 「所有」というのは(国家)権力によって占有的権利が確定されている事態を指します。
 もともと「権利」というものはそういうものなんですけどね。

 私的所有が悪くて支配社会や資本主義社会ができたわけではありません。逆です。
 武力権力によって経済的諸関係が認可され、あるいは国家権力によって相対的に小さな権力と経済権力が認可され、その結果、経済権力がはびこった場合が私的所有制度なのです。
 といっても、「経済権力」というものがあるわけではなくて、国家的武力によって私的所有(とそれに基づいた契約)を支持された経済的占有者の存在を指すだけなんですが、彼らは国家の武力を使用することを認可されているわけです。
 なお、国家自体が私的所有だ、とかって言う人もあるようですが、これも意味なくて、「権力は占有する。文句あるのか」っていうだけで、所有概念なんてまるで該当しない事象です。

 とにかく、こういうわけで、当然、私的所有の排斥によって排除できるものは、弱小権力とこれらの経済権力のみなのです。経済権力から所有の権利を取ってしまったら、あいまいな占有しか残らない。あいまいな占有は、人的武力によっていつでも覆される。

なのですが、国家権力を使用せんと待ち構えている人間は,それ以上のことをいう気がない。国家所有ならいいんだよ、いや? じゃ、集団的所有くらいで、、、なんてスローガンでいうだけ。

通説マルクス主義者の諸君は、共同所有後、何をもって国家が死滅するというんですかね。
資本主義的搾取は消滅するかもしれないが、所有のある限り(これは因果関係が逆ですが)、国家は死滅しない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする