北の心の開拓記  [小松正明ブログ]

 日々の暮らしの中には、きらりと輝く希望の物語があるはず。生涯学習的生き方の実践のつもりです。

「魔改造」のDNA

2009-01-13 23:47:48 | Weblog
 魔改造(まかいぞう)という言葉があります。

 もともとはアキバ系オタク族が、女の子のキャラクターフィギュアの服を脱がしたりしてエロチックに改造するという趣味から来たのですが、それが転じて今では、『対象の本質が変わってしまうほどの大幅な改造』という意味で使われるようになりました。ただの改造ではなく、どぎもを抜く発想の改造なので『魔』改造なのです。
 

 日本人には、時代を大きく変えるようなとんでもない発明をすることは苦手だが、真似は得意な民族というイメージがあります。

 真似にもいろいろあって、見た目そのままをつくることもあれば、劣化コピーをするのも真似かも知れません。しかし日本人にやらせると、見せられた現物に新たな発想を付け加えて、現物よりも良いモノを作ってしまう能力をフルに発揮して、とんでもないものをつくってしまいます。それが魔改造というわけ。

 自動車だって、ご本尊のアメリカよりも性能、品質が良いものを送り出してしまうようになりました。現状に満足せず、常に新しい要素をふかしたらどうなるかという挑戦を繰り返さずにはいられないのが民族のDNAのようです。

    ※    ※    ※    ※

 ネットを見ていたら、中国の方が日本の漢字文化を讃える文章がありました。ここにも中国からいただいた漢字を魔改造してきた日本の文化があったようです。

漢字が表す二つの世界
                 文 中国社会科学院文学院 李兆忠  
 → http://www.peoplechina.com.cn/maindoc/html/200303/fangtan.htm

    ※    ※ 【以下引用】 ※    ※
 
 四角い小さな漢字の中に、二つの異なる世界が存在している。

 一つはもともと中国で造られた中国製、もう一つは日本で改造された日本製である。この二つの世界は、「あなたの中に私がいて、私の中にあなたがいる」ようなもので、コミュニケーションにはとても便利だ。しかし多くの場合、この両者は、うわべは親しそうに見えて実は心が通わず、似て非なるものなのである。

 日本語の中の多くの語彙は、見た目では中国語とまったく同じだが、実は意味が非常に違う。中国から来たある代表団が日本の工場を見学したとき、工場内に掲げられている「油断一秒、怪我一生」というスローガンを見て、その文字面だけから「これは油が大切だと言っているのだな」と憶測した。中国語では「一秒でも油が切れれば、生涯自分が悪いと思う」という意味になるからである。

 しかし実は日本語では、これは安全生産のスローガンなのだ。「油断」は「不注意」、「怪我」は「傷を負う」という意味だとわかって大笑いになった、という。

  (中略)

 日本語の中で使われる漢字の語彙には、中国人の想像を超えるものがほかにもたくさんある。たとえば、中国語での「無理やり」を意味する「勉強」は、日本語では「学習」の意味で使われる。中国語で「夫」を意味する「丈夫」は、日本語では「頑丈」の意味だ。このように、表面の「毛皮」を傷つけることなく、中身の「肉」をすっかり「すり替え」てしまう日本人の知恵と想像力に、感心せざるを得ない。

 しかし、われわれ中国人は、これに驚く必要はない。率直に言えば、現在の中国で使われている中国語の語彙の多くは、20世紀初めに日本から導入されたものだからだ。たとえば、「金融」「投資」「抽象」など、現代中国語の中の社会科学に関する語彙の60~70%は、日本語から来たものだという統計がある。

 
 漢字文化圏に属する多くの国家や民族を見回して見ると、漢字をこのように創造的に「すり替え」、もう一つの漢字王国を樹立し、かつまた中国語へ「恩返し」しているのは、日本だけだ。

 日本のすごいところは、中国の漢字に対して、受動的にそのまま受け入れるのでもなく、愚かにも高慢にそれを拒否するのでもない、自発的にそれを手に入れ、徹底的にそれを消化した後、自分の必要に応じて大胆な改造を行い、自分の言語にしてしまうところだ。だからこそ漢字は、日本にしっかりと根を下ろし、西洋文化の猛烈な襲来に耐えることができたのである。

 客観的に見れば、この奇跡は、かなりの程度、日本が島国であるという特殊な地理的環境によっている。広大な太平洋が天然の要害となり、異民族の鉄騎兵の侵入を阻止したばかりでなく、文化的に異民族に同化される運命から逃れることができた。大陸とも適当に離れているため、日本は必要に応じて、自分より先進的な中国の文化を摂取し、ゆっくりとそれを咀嚼し、消化して改造することができた。異文化をどう受け入れるか、その主動権は完全に自らの手中にあったのである。

 これと同時に、1200百年前、日本は漢字を大規模に導入するとともに、「ひらがな」を発明した。ここで日本は自分の文字言語を持った。「ひらがな」は完全に漢字の草書体に啓発されて造られたものではあるが、大和民族の魂の深いところにある必要性から発したものでもある。

 日本人から見るとおそらく、基本的に一つの漢字に一つの音がちゃんと対応している四角い漢字は、柔らかくて滑らかな日本語の感覚や、長さにこだわらない語彙とは多少隔たりがあり、曲線が美しく、簡潔な「ひらがな」こそが、日本人の発想や言語感覚により合致すると映るのだろう。

 「ひらがな」は日本語の形を完成させた。それを用いて発音を表記することができ、漢字の発音を日本化させた。また、直接、日本固有の語彙を書き表すこともでき、助詞として用いてセンテンスを構造することもできる。まさに一石三鳥とも言うことができる。

 「ひらがな」の創造は、日本語が自分の「形」と「心」を探し当てたことを意味する。これによって漢字は第一線から退き、一つの重要な材料として日本語の構造の中に組み入れられた。この時、漢字の固有の意味は、時間の流れとともにひっくり返されたり、「すり替え」られたりすることが必然的に発生した。全体からいえば、漢字の語彙の意味が厳格で重厚な歴史の含蓄を持っているのに比べ、日本語の漢字の語彙は明らかに軽く、生き生きとしている。使い方もそれほど厳格ではなく、通常、いくつかの異なる漢字を使って一つの日本固有の語彙に表している。それによって人々はさらに、一種の遊びの味を感じるのである。

 漢字に対する違った考え方が、二つの異なる漢字の世界をもたらした。その優劣は、一概に論じられない。しかし、西洋文明が東側に浸透してきた「近代化」の歴史背景の中で見れば、その優劣ははっきりと示されている。当時、激しく湧き起ってきた近代化の流れと西洋の科学文化に直面した中日両国の学者たちは、まったく異なる姿勢と反応を示したのである。

 たとえば、西洋の科学に関する著作を翻訳する際、清朝末期の中国の学者は「中学為体、西学為用」(中国の学問を「体」とし、西洋の学問を「用」とする)という文化的な信念を堅持し、中国の古典を引用して西洋科学の概念を既存の語彙に置き換えようとした。例えば現在の「経済学」を、「計学」あるいは「資生学」と翻訳したり、「社会学」を「群学」と訳したりしたのである。しかし結局は、どうにもならなくなってしまった。

 しかし日本の学者は、実用的で柔軟なやり方で、「文字本位制」の制限を受けずに、意訳の方法によって、数多くの多音節の語彙を作り出し、みごとに西洋の概念を置き換えることに成功した。これによって、日本が西洋に学び、「近代化」の道を歩んでいくうえで、言語の面で道路が舗装されたのだった。

 もし日本が、漢字を借用して西洋の概念を置き換えることをしなかったら、現代の中国語はいったいどのようになっていただろうか。おそらく今よりも寂しいものになっていたのではないだろうか。多分、強い刺激や栄養に欠けているため、すばやく「近代化」することが難しくなったに違いない。

 こうした角度から見れば、日本語の中国語への「恩返し」の功績を、われわれは決して忘れてはならないのである。



    ※    ※ 【引用おわり】 ※    ※


 日本人が漢字の世界を魔改造して、漢字の特性を活かした造語を作り、それがまた今日の中国語にも多大なメリットを与えている、と李先生は賞賛しています。

 日本の明治期のように外来語を漢字に訳さなければ、中国語でも外国語の発音が似た漢字に当てはめなくてはなりません。例えばコカコーラのことを中国語では「可口可楽」と書きますが、これはまさに発音そのままを漢字にしただけで表意文字としての漢字の特性が活かされてはいないのです。

 もっとも日本人も全てを日本語に訳してしまうのではなくCoca Colaはコカコーラと、外来語をそのままカタカナで表記しています。まあこれはこれで、日本語としての意味以上に独特の味わいを単語に与えているのですが、最近はそれが乱発気味かもしれませんが。

    ※    ※    ※    ※

 李先生が言うように、日本人は漢字文化の国として表意文字としての特性を理解した上でそれを最大限に活かした日本語文化を創り上げてきました。それが漢字文化では兄貴分の中国の漢字文化も潤していることは日本人としても誇らしいのですが、中国のすごいところはそれを悔しがりもやっかみもせずに、「日本製だろうと良いものは良いのだよ」と柔軟にそれを受け入れていることです。まさに大人の風があって懐の深さを示しています。
 絶対にケンカをしたくはない相手ですね。 

 さて、日本人のDNAたる魔改造の精神ですが、外にもいろいろな例がありそうですが、皆さんは何にそれを感じるでしょうか。
コメント
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