北の心の開拓記  [小松正明ブログ]

 日々の暮らしの中には、きらりと輝く希望の物語があるはず。生涯学習的生き方の実践のつもりです。

エピソードに見る日本人の宗教観

2009-01-10 22:27:08 | Weblog
 日本人にはよく宗教心がない、と言われますが本当でしょうか?確かにキリスト教やイスラム教のように一神教でガンガン押してくる人たちの宗教観から見ると、多神教で争いごとを好まずに曖昧に過ごす日本人には宗教心がないように思えます。

 そんなことを考えながら、日本人の宗教観を考える上でのエピソードを二つお届けします。皆さんは何を感じられるでしょうか。


【エピソードその1 新井白石のキリシタン否定】

 山本七平さんの「日本人の人生観」(講談社学術文庫)の中に、「新井白石のキリシタン否定」という一節が載っています。

    ※    ※ 【以下引用】 ※    ※

 現代日本の基礎を形成した鎖国時代に、キリシタンと対決した日本の知識人と言えば新井白石である。(中略)

 白石は『西洋記聞』の中で明確にキリシタンを否定しているが、それは決してキリシタン日本侵略論を基にしておらず、彼自身はこの俗説をはっきり否定しており、問題としているのは、あくまでも思想問題であり、かつ宗教問題である。

 彼の考え方をようやくすれば、もしキリシタンを許可すれば「家に二尊ができ、従って国に二君ができ、日本的秩序が崩壊するがゆえに、キリシタンは排撃しなければならぬ」の一言に尽きる。

 彼は次のように記している。「(キリシタンとは)天主を以て、天を生じ、地を生じ、万物を生ずるところの大君大父とす。我に父ありて愛せず。我に君ありて敬せず。なおこれを不幸不忠とす。いわんや、その大君大父につかうる事、その愛敬を尽くさずということなかるべしという」

「(中略)もしわが君の外につかうべきところの大君あり、わが父の外につかうべきの大父ありて、その尊きこと、わが君父のおよぶところにあらずとせば、家においての二尊、国においての二君ありというのみにはあらず、君をなみし、父をなみす、これより大きなるものなかるべし…」

 いわば、同時に二君につかえ、二尊を尊び、二夫にまみえることになるから、いずれは日本の秩序が崩壊するであろう、だからキリシタンは許容出来ない、これが彼の意見である。

 では、ここのキリシタン否定論において、彼は何かを誤解しているのであろうか。誤解に基づく議論ならば、初めから問題はないが、この点における白石のキリシタン理解は驚くほど性格であって、誤解はほとんどないと言える。通訳を通じて、ここまで正確に対象を把握し得たという点、やはり彼は徳川時代最高の知識人であろう。

 (中略)

 膨大な旧新約聖書の中から、白石が説明を受けたと思われる点だけを摘出していっても、これらを総合したように現れてくるのは「個人」対「神」という関係である。

 白石の表現を借りれば、人間が家とか国家とか諸侯とか組織とかいうあらゆるこの世の対象から離れて、一人間として「天を祀る」こと、いわば、コトしての人間が自己の創造者と直接に対面し、その対象を、ちじょうのあらゆる人間関係を越えた絶対として、全身全霊をもって「愛敬をつくす」という関係で「個」を確立すること、これは確かに「家に二尊」ができ、「国に二君」ができることにほかならない。そして白石は、これは絶対に許容出来ない考え方としたし、明治も同じ考えをしたわけである。

 そして、白石のような考え方をすれば、個人は家(または世帯)を祀ってこれを「天」とし、家(世帯)はその上の「組織」を祀ってこれを「天」とし、そして「天」をまつることができるのはその「組織」の「長」だけということになる。これが国家と結びつけば戦前の天皇制になり、チェバンレンのいわゆる「新宗教の創作」となるわけだが、これは決して「創作」ではなく、伝統に基づく当然の帰結だったはずである。

    ※    ※ 【引用おわり】 ※    ※

 つまりキリシタンによる絶対的神に対する一神教は、日本の国のありようにはそぐわないと新井白石は看破したわけですね。

 おそらく今でもそれは変わっていなくて、それゆえ世界で最もキリスト教が広まらない国の一つである理由なのだと思います。



【エピソードその2 二宮尊徳のお話】
 
 続いては「二宮翁夜話」(福住正兄原著 現代報徳社全書8)からです。

 尊徳翁が、神道、仏教、儒教について語っています。

    ※    ※ 【以下引用】 ※    ※

 翁がいわれた。 私は長いことかかって、神道は何を道とし、何が長所で何が短所か、儒教は何を教とし、何が長所で何が短所か、仏教は何を宗(むね)とし、どこが長所でどこが短所かと考えてみたが、みんなそれぞれに長短がある。

 (中略)

 そこでいま、これらの道の最も特徴とすべき点をいえば、神道は開国の道である。儒学は治国の道である。仏教は治心の道である。それで私は高尚を尊ばず卑近をいとわず、この三道の正味ばかりを取った。正味とは人間社会に切要なものをいう。切要なものを取って切要でないものを捨て、人間社会に無上の教を立てた。これが報徳教なのだ(注:尊徳翁自身は報徳教とは言っていない。あくまでも後代の表現)。

 戯れに名付けて神儒仏正味一粒丸という。その効能の広大なこと、数え上げればきりがない。国に用いれば国の病気が治り、家に用いれば家の病気が治る。それから荒地が多くて悩む者が服用すれば開拓ができるし、借金が多くて悩む者が服用すれば返済ができる。

 資本がないという患者が福与薄れ乳母資本が得られ、家がないという患者が服用すれば家屋が得られ、農具がないという患者が服用すれば農具が得られる。そのほか貧窮病、ぜいたく病、放蕩病、無頼病、遊情病など、みんな服用して治らぬということがないのだ。

 衣笠平太夫が、神儒仏三昧の分量をたずねた。翁は、神道一さじ、儒仏半さじずつだとこたえた。ある人がそばにいてこれを図にして、三昧の分量はこんなもの(※添付図)ですかと聞いた。翁は一笑していわれた。 ー 世間にこんな寄せ物のような丸薬があるものか。丸薬といったからには、よくまざり合って、もはや何ものとも分からないのだ。そうならなければ、口に入って舌にさわり、腹の中に入って腹具合が悪い。よくよく混ざり合って、何の品ともわからないものでなければならないのだ。ハハハハ
 

    ※    ※ 【引用おわり】 ※    ※

 二宮尊徳先生の方は、これまた宗教の壁を取り払ってええとこ取りをしたのがわが教えである、と言い切っています。

 基が何だろうと、良いものだけ使えばよいのではないか、という合理主義的な一面がよく分かります。

 ある意味宗教には良い点があるものの、無駄な戒律やら儀式やらタブーも多いものです。その無駄をいっさい取り払ってしまって、良いところのエッセンスだけ集めれば有用なものになるはず、というのはなんとも現実的この上ないですね。

 彼の死語、門弟たちは彼を神社に祀りました。多分尊徳翁が一番嫌うことだったのではないか、とも思うのです。

 日本人の宗教観を一言で言い表すよりも、エピソードを積み重ねて手探りをするほうがなんとなく感じを掴めそうな気もします。

コメント
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